投資なくして収入なし

収入は投資から生まれる。

投資と言うと、株式投資や不動産投資のように、すでにある何らかの資産にお金を投じることのように聞こえるかもしれないが、必ずしもそうではない。

投資の対象は、すでにある何らかの資産だけではない。自分自身や自分が何かを生み出すために取り組んでいる活動も投資の対象になる。

また、投資の元手になるものは、お金だけではない。自分の時間や労力も投資の元手になる。

そして、投資がない限り、収入は得られない。

もし仮に自分が投資していないにも拘らず収入を得られたとすれば、それは自分以外の誰かが投資をしてくれていたおかげである。

収入を得るためには、必ず投資が必要なのである。

例えば、米を売って収入を得たいと思えば、まず米をつくる必要がある。

水田をつくり、苗を植え、それを育て、収穫する必要がある。

米をつくる過程は、投資そのものである。

先に自分の時間や労力を投じ、幾多の試行錯誤を繰り返したからこそ、立派な米が出来上がる。そしてそれがある人にとって必要な商品になるからこそ、収入を得ることができる。

これは、どんな仕事でも同じである。

投資なくして、アウトプットなし。

アウトプットなくして、商品なし。

商品なくして、収入なし。

ゆえに、投資なくして収入なし。

たとえお金がなくとも、自分の時間や労力を何かに投資し続けること。

それが自分のためであれ、他人のためであれ。

収入を生み出すためにせよ、そうでないにせよ。

ある人にとって必要なものを生み出すために投資し続けること。

より良いものを生み出そうと、幾多の試行錯誤を繰り返し続けること。

日々、努力し続けること。

日々、投資し続けること。

ジブンノシゴトをつくるために、とても大切なことである。

どっひー &sing

自立とはどのような状態か?

昨日は、『個人が自立する必要性』について書いた。

今日は、「自立とはどのような状態か?」について書いてみたい。

コトバンクのデジタル大辞泉の解説によると、自立とは、

1 他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。「精神的に自立する」
2 支えるものがなく、そのものだけで立っていること。「自立式のパネル」

とある。

自立とは、自ら立つことであるがゆえに、「他からの助力を受けずに」あるいは「支えるものがなく、そのものだけで」立っている状態を指すようだ。

だが、個人が「他からの助力を(まったく)受けずに」あるいは「支えるものが(まったく)なく、そのものだけで」存在することはできない。

人は、人と人が支え合って生きるものだからだ。

どんな人であれ、一人きりで生きることはできない。

したがって、自立とは、「他からの助力を受けずに」あるいは「支えるものがなく、そのものだけで」立っている状態とは言えない。

では、自立とはどのような状態なのか?

私は思う。

個人が自立している状態とは、「他からの助力を受け」つつも、あるいは「支えるものが」ありつつも、「これがなくなったらどうしよう…」「この人がいなくなったらどうしよう…」との不安を感じずに立っている状態である。

つまり、たとえ何かや誰かを失ったとしても、その時はその時、自分は自分として生きて行くぞ、と思えている状態である。

「この会社がなくなったらどうしようもない」「だからこの会社にしがみつくしかない」

「この顧客がいなくなったらどうしようもない」「だからこの顧客にしがみつくしかない」

「この人がいなくなったらどうしようもない」「だからこの人にしがみつくしかない」

そんな風に特定の何かや特定の誰かにしがみついてしまっている状態は、自立している状態とは言えない。

「他からの助力を受け」つつも、あるいは「支えるものが」ありつつも、特定の何かや特定の誰かにしがみつかずに、立っている状態。

自立とは、そのような状態を指すのではないだろうか。

何かや誰かを頼ってもいい。たった一人、孤立無援で立つ必要はない。

だが、くれぐれもしがみついてはいけない。

もたれかかってはいけない。

わたしはわたし。あなたはあなた。

お互いが二本の足で立っているからこそ。

お互いがいつでも自由に関わり支え合えるのである。

どっひー &sing

個人が自立する必要性

国家の自立の基盤は、地域の自立にある。

地域の自立の基盤は、個人の自立にある。

逆に言えば、

個人が自立してはじめて、地域が自立する。

地域が自立してはじめて、国家が自立する。

このことは、国家が自立すると忘れられがちになる。

いつの間にか、国家が地域を自立させ、地域が個人を自立させているかのように見えてくる。

だが実際はそうではない。

個人の自立なくして、地域の自立なし

地域の自立なくして、国家の自立なし

である。

また、個人の自立は、精神的な自立からはじまる。

「他に頼らず自立するぞ!」という意志からはじまる。

精神的な自立は、経済的な自立の前にある。

たとえ、いまはまだ経済的に自立していないとしても、「いつか必ず経済的に自立するぞ!」という意志を持つことはいまからできる。

逆に、精神的な自立なくして、経済的な自立が実現することはない。

経済的な自立が実現できていないから、精神的な自立が実現できていないと考えるのは間違いである。

経済的な自立が実現できれば、精神的な自立が実現できるだろうと考えるのも間違いである。

精神的な自立なくして、経済的な自立なし

である。

学校とは、「個人が自立する必要性」を自覚する場である。

その上で、「個人が自立するための手段」を学ぶ場である。

どっひー &sing

一日として同じ日はない

夕暮れは観るたびに異なる

空、雲、風、音、色

関係性はつねに変化している

そして教えてくれる

一日として同じ日はないのだ、と

二度と同じ景色を観ることはないのだ、と

明日はどんな夕暮れを観るのだろうか

いまだかつて観たことの夕暮れは

どんな姿をしているのだろうか

どっひー &sing

話す力は、聞く力から生まれる

歌う力は、聴く力から生まれる。

話す力は、聞く力から生まれる。

描く力は、観る力から生まれる。

書く力は、読む力から生まれる。

アウトプットの精度は、インプットの精度で決まる。

ゆえに、アウトプットの精度を高めたければ、インプットの精度を高めることだ。

歌う力を高めたければ、音をよく聴くことだ。

話す力を高めたければ、声をよく聞くことだ。

描く力を高めたければ、形をよく観ることだ。

書く力を高めたければ、文をよく読むことだ。

稼ぐ力を高めたければ、金をよく使うことだ。

どっひー &sing

成功の反対は失敗ではない

失敗は成功のもと。

ゆえに、成功の反対は失敗ではない。

成功の反対は、諦め。

何もしなくなること。

挑戦しなくなること。

挑戦しなければ失敗しない。

失敗しなければ学びはない。

学びがなければ成長しない。

成長しなければ成功しない。

たとえ成功しなかったとしても、

人としては成長し続けたいものである。

どっひー &sing

教えることは学ぶこと

学校には、教師と生徒がいる。
教師は教える人で、生徒は学ぶ人。

しかし実際には違う。

実は教える人が一番学んでいる。

「どうすれば、相手にわかってもらえるだろうか?」
「どうすれば、相手にできるようになってもらえるだろうか?」

教える人は、ずっとこの質問を掲げ続けている。
そしてその答えを探し続けている。

その過程で答え(らしきもの)を見つける。
そしてその答え(らしきもの)で教えてみる。

その結果、相手にわかってもらえることもある。
相手にできるようになってもらえることもある。

だが、必ずしもそうではない。
いや、むしろそうではないことの方が多いだろう。

相手にわかってもらえなかった…
相手にできるようになってもらえなかった…

「どうすれば、相手にわかってもらえるだろうか?」
「どうすれば、相手にできるようになってもらえるだろうか?」

教える人は、ずっとこの質問を掲げ続けている。
そしてその答えを探し続けている。

教えることは学ぶことである。
そして、誰もが誰かに何かを教えている。

親は子どもに対して。
上司は部下に対して。
教師は生徒に対して。

わかってもらおうとしている。
できるようになってもらおうとしている。

逆もまたしかり。

子どもは親に対して。
部下は上司に対して。
生徒は教師に対して。

わかってもらおうとしている。
できるようになってもらおうとしている。

人はみな、教える人であり、学ぶ人である。

相手にわかってもらおうとすること。
相手にできるようになってもらおうとすること。

その過程の中に、学びはある。

あなたが、誰かに教えたいことは何ですか?

わかってもらいたいこと、できるようになってもらいたいことは何ですか?

そこからどんなことを学んでいますか?

どっひー &sing

「好きなこと=仕事」にする必要はない

『何があっても、食っていける力を身につける』ために、「好きなこと=仕事」にする必要はない。

「何があっても食っていく」ために必要なことは、唯一、働くこと。仕事をすること。誰かのために働くこと。

したがって、「何があっても食っていける力」とは、「何があっても働ける力」と言える。

「何があっても働ける力」である以上、「何かあった時に就く仕事=自分の好きなこと」に限定することはできない。

「何かあった時に就く仕事=自分の好きなこと」に限定してしまうと、明らかに就ける仕事が狭くなってしまう。自ら可能性を狭めてしまう。

何かあった時に選り好みすることはできない。自分の好きなことと全く関係のない仕事であったとしても、やらざるを得ない時もある。

また、そもそも「好きなこと=仕事」にしなければならない理由もない。

自分の好きなことと全く関係のない仕事に就きながら、自分の好きなことを趣味として楽しむ。それはそれで充実した毎日を送ることができるだろう。

いや、もしかしたら、自分の好きなことを決して仕事にせず趣味として貫いた方が、仕事の選択肢が多くなっていいかもしれない。何かあった時に就ける仕事が沢山あった方が、「何があっても働ける」し、「何があっても食っていく」ことができる。それにより、「何があっても好きなことを続けられる」だろう。

「好きなこと=仕事」にするかどうかは、人それぞれ。

「好きなこと=仕事」にする人もいれば、「好きなこと=趣味」にする人もいる。

「何があっても食っていける力」を身につける。「何があっても働ける力」を身につける。

そのために大切なことは、「好きなことを持ち続ける」こと。

「こんな状態を実現したい」と願い、あくなき好奇心を持ち、新たなことに挑戦し、今日をワクワクと楽しむ心を持ち続けることである。

どっひー &sing

リーダーは立場ではない

リーダーは立場ではない。

リーダーは立ち居振る舞いである。

持ち場ごとでの立ち居振る舞いである。

その前提としての心の構え方である。

すべての持ち場にリーダーはいる。

会社でも、学校でも、家庭でも。高校野球でも、演劇でも、オーケストラでも。

すべての持ち場にリーダーがいる。

表に立つか裏方かは関係ない。

持ち場、持ち場にリーダーがいる。

あるチームの中で、ある役割を担う人。

その人がその役割のもとでリーダーとして立ち居振る舞うか否か。

ただ、それだけである。

ゆえに、リーダーになることは、いまから始められることである。

私たちは、すべての人がリーダーたりえる、と信じています。

【私たちの想い】

http://and-sing.com/concept/

どっひー &sing

リーダーが落ち込む時

昨日、『「ごく身近にいるリーダー」と「そうでない人」との微妙だけど大きな違いについて』書いた。

基本的に、リーダーは「自ら率先して声をかけ、行動する人」であると言える。

だが、時にそれができなくなっていく時がある。

例えば、

  • 自分がとった行動に共感してくれる人が誰もいない時
  • 仕事や生活に追われて望ましい行動を取る余裕がない時
  • 行動は取ったがその成果を手応えとして感じられない時

こういう時、リーダーは落ち込んでいく。

共感、余裕、手応えがないままだと、徐々に望ましい行動を取れなくなっていく。

リーダーとして取るべき行動がわかっているだけに、その行動を取れない自分を責めていく。

自分はリーダーではないんだと自信を失っていく。

そして、もともとは自然にやっていたはずのリーダー的な行動の数々を失っていく。

じゃあ、どうしたらいいのか?

かつて、毎朝、職場で挨拶をしていた人がいた。

しかし、その職場の人たちは彼に挨拶を返さなかった。

彼は悩んだ。

「どうしてこの職場の人たちは挨拶をしないんだろうか?」と。

彼は徐々に挨拶をしなくなった。

そして会社を辞めた。

それから数年を経て、私は彼と再開した。

その時、彼はこう言った。

「転職後に海外で働いてみて価値観が大きく変わりました。彼らは日本人みたいに残業なんてしません。会社のことよりも自分や家族のことを優先します。挨拶をするかしないかなんてその人の自由。仕事中に大切なことは必要な仕事をしているかどうか」

「当時は、こだわりすぎていました。自分の価値観を一方的に押し付ける必要はないんだ、と今では思います」

押し付ける必要はない。

無理する必要はない。

共感、余裕、手応えを無理に求める必要はない。

自分がいいと思うことをやればいい。

それも自分のできる範囲でやればいい。

できる限り、アンテナが外向きに開いていればいい。

できる限りでいいから、「自ら率先して声をかけ、行動しようという心」を構えておけばいい。

どっひー &sing