個人ビジョンと組織ビジョン

ビジョンとは、将来のありたい姿である。

ビジョンには、個人ビジョンと組織ビジョンがある。

個人ビジョンは、自己としての将来のありたい姿。

組織ビジョンは、”自己を含む”組織としての将来のありたい姿。

個人ビジョンと組織ビジョンが(一部でも)一致する時、個人の活動と組織の活動が連動し、両ビジョン実現の可能性と速度が大きく高まる。いわば、小さい歯車と大きい歯車が噛み合う感じになる。

逆に、個人ビジョンと組織ビジョンが(一部でも)一致しない時、個人の活動と組織の活動は乖離し、両ビジョン実現の可能性と速度が大きく低下する。最悪の場合、小さい歯車も大きい歯車も空回りし始め、日々の活動の手応えを全く感じなくなるようになる。

私が、組織ビジョンの威力を実感したのは、監査法人でリクルート活動のリーダーをやった時のことだ。

このリクルート活動は、最終的に東京国際フォーラムで、5日間にわたり1000人を超える受験者を迎えた。150人ほどのリクルーター(同期)が活動に関わり、150人ほどの新入社員を採用した。その中核となったのは、20人ほどのプロジェクトメンバーだ。

1000人近くの受験者を迎えるためには、①説明会や面接の受験者の管理、②説明会の企画と運営、③面接の企画と運営、④面接を担当する社員の管理、⑤リクルーター(同期)の管理、およびこれらを支える⑥ITシステムの構築と管理、⑦予算の管理などが必要になる。

20人ほどのプロジェクトメンバーは、各チームに分かれ、それぞれの役割を遂行していく。各チーム間の活動の整合性を確保するため、チーム横断的な調整を行う。時に喧嘩しながら、時に協力しながら、各チームの企画を練り上げ、相互の活動を連動させ、リクルート活動の全体を創り上げていく。それぞれのチームが、それぞれに必要な人員を確保していく。同期に声をかけ、リクルート活動に協力してもらうのだ。

私は、このリクルート活動全体を統括するリーダーの役割を担っていた。もちろん人事の方々の支援を受けながらではあるが、一応、「リクルーター統括」という仰々しい肩書きをもらっていた。

プロジェクトの初期段階では、私はかなり全体をリードする役割を担っていた。そりゃそうだ。まだなーんにも決まっていなかったからだ。ミッション、ビジョン、価値観はもちろん、リクルート活動の企画から実行までを推進していくプロジェクトメンバーも決まっていなかった。チーム体制や役割分担も未定。それぞれの活動内容も未定。ないない尽くしの状況下からのスタートだったので、私は、副統括の方や人事の方々と一緒に、プロジェクト立ち上げのための叩き台をつくり上げていった。同期に対しては、リクルート活動への協力依頼、さらにはプロジェクトへの関与依頼をしていった。

私は、「おーっ、これがリーダーか。うーん、我ながらリーダーって感じがするなぁー」と思っていた。自分が動かないとプロジェクトが立ち上がっていかない。プロジェクトが立ち上がらなければ、東京国際フォーラムでのリクルート活動は実行されない。ある種の使命感を帯びながら、私はリーダーを楽しんでいた。

ここからリクルート活動当日を迎えるまでに感じたことは、たくさんあるのだが、あまりにも長くなるので割愛する。

私がここで一番言いたいことは、「リクルート活動当日が一番暇だった!」ということだ。

この体験は、私にとっては、とても衝撃的な体験だった。

東京国際フォーラムでのリクルート活動そのものは、それはもう大盛り上がりだった。なんせ毎日数100人もの受験者が訪れてくる。その受験者に熱意を持って対応しているリクルーターの姿がそこかしこで見られる。

あっちの会場では説明会チームが説明会を開催している。こっちの会場では、面接チームが受験者と社員との面接を段取りよく進めていく。その裏側では、社員管理チームが、社員が面接時間に遅れないようにケアしている。受付チームは、受験者からの予定変更やキャンセルを受け付け、説明会チームや面接チームに連絡している。リクルーター管理チームは、当日だけ活動に関与してくれる人たちへの連絡、配置転換、突発的なQ&A対応などを行なっている。

延べ150人近くの人たちが自発的に動き、東京国際フォーラムでの5日間にわたるリクルート活動が遂行されていく。

「うわー、すごいなぁー。さすがやなぁー。ほんまいい会社やなぁー。いい仲間やなぁー」と私は喜んでいた。

その一方で、妙な淋しさがあった。

なんせ、暇なのだ。

説明会の冒頭で、ちょっとだけ挨拶する機会はあるのだが、私の出番はそれだけ。あとは、なーんにもすることがない。

みんなに弁当を配ったり、そこかしこで活動しているチームリーダーに「順調?」「頼むでー」と声をかけたり、当日だけ関わってくれているリクルーターの同期たちに「ありがとねー」と感謝して回ったり。これといった非常事態が起こらない限り、私の出番はない。ほんと、何度も言うが、暇だった。でも、じっとはしていられないから、あてどなく東京国際フォーラムのひろーい会場をずっと歩き回っていた。

個人ビジョンと組織ビジョン。

リクルート活動立ち上げに向けた初期段階では、私の個人ビジョンがかなり強かった。だが、リクルート活動当日を迎えるまでの間、日々、組織ビジョンが育っていった。それはものすごくでっかいでっかいビジョンだった。リクルート活動当日、東京国際フォーラムにおいて、私はそのビジョンが具現化される姿を見た。一人一人がそのビジョンを共有して活動している。そんな風に感じた。そこでは、私はほんの小さな存在だった。でも同時に、私はその大きな大きな組織ビジョンの一部であった。

「おーっ!リーダーってのは、こんな感じの存在なのかー」と実感した。

この私のリーダー体験が、一般化しうるリーダー体験と言えるのかどうかはわからない。

だが、私自身は、何度も同じようなーダー体験をしている。

おそらく私のリーダーシップスタイルは、今風に言えば、”サーバントリーダーシップ”に近いものではないか、と思う。

私が私自身のリーダー体験から自信を持って言えることは、

「個人ビジョンの延長線上に、大きな大きな組織ビジョンを描けた時、すごく純粋に無私で利他的な自分が現れる。その結果、組織全体として一人一人の力の総体を超える大きな大きなエネルギーが生まれ、プロジェクトを成功へと導く」

ということである。

私は、この状態を「ジーニーが現れる」と表現している。

ジーニーとは、ディズニーの映画『アラジン』に登場するランプの魔人である。

私にとって、”リーダーになる”とは、「個人ビジョンから組織ビジョンを描き出し、ジーニーを出現させること」と言える。

それはいわば、自己のリーダー性を目覚めさせる行為とも言える。

あなたにとって、”リーダーになる”とは、どんな行為ですか?

個人ビジョンと組織ビジョン。

会社であれ、家族であれ、同好会であれ。

自分を含む複数人の人たちが関わるコミュニティをより良くしていくためには、両ビジョンの関係性をつねにより良いものにしていこうとする意識を持ち続けることが大切である、と思います。

TAKU &sing

ネタの見つけ方

ネタが見つからない時に、どうするか?

スピーチで話すネタ

ブログで書くネタ

動画で見せるネタ

リーダーは、何かしら自分発のネタを発信していく必要がある。

今日は、ささやかながら、私のブログネタの見つけ方を説明してみたい。

私が、毎日ブログを書く時。大きく3つのアプローチでネタを探す。

1. タイトルを決める

2. 書き出しを決める

3. 書くエピソードを決める

日によって、最適なスタート地点は異なる。

1. タイトルからスタートするケース

必要悪ってなんや?」というブログは、最初にタイトルが決まった。「必要悪」というタイトルのキーワードから、いくつか思いつくエピソードを探し出す。その中から一つを選んで書く。書き出しは最後に決めた。

2. 書き出しからスタートするケース

確定申告書の書き方を学ぶということ」というブログは、最初に書き出しが決まった。「明日は確定申告期限である。」という一文をキーにして、思いつくことを引っ張り出してくる。その時、たまたま納税の義務について思いついたので、日本国憲法が定める国民の義務についてインターネットで検索してみた。そしたら、いい感じで国民の三大義務が定められていたので、それをキーワードにして、その後のメッセージを決めた。

3. エピソードからスタートするケース

時代の最先端を体験する」というブログは、最初にエピソードが決まった。たまたま前日に、印象に残る会話があったので、それを題材にしよう、ということを決めた。エピソードが最初に決まる時は、ブログを書くのが非常に楽だ。その時の光景、会話、感情を思い起こしながら、順に書いていけばいいからだ。

ただし、エピソード起点の場合、以下2点の問題が発生しやすい。

①文章が長くなってしまう

②書いてはいけないことを省かないといけない

前者の問題をクリアするのは簡単だ。

長くなるのを覚悟してそのまま書き続ける。必要ならば、あとで短縮したり、要約していけばいい。

大変なのは、後者の問題だ。

他者の発言は、必ずしも公開されることを前提とはしていない。少なくとも、「○○さんが○○と言った」というように、発言者と発言内容が特定される形で他者の発言をブログに書くことは避けなければならない。本人の同意がある場合や、そもそもその発言が公開されることを前提としていた場合は別だが、通常プライベートな状況下での他者の発言は、非公開が原則である。

このため、エピソード起点でブログを書く場合には、そのエピソードについて書くことを途中で断念することが多い。書いてはいけないことを省いていくうちに、そのエピソードが意味をなさないものになってしまうからだ。

今日もそうだ。ぱっと思いついたエピソードは、3つほどあった。どれもリーダーにとって非常に大事な話だ。だが、そのどれもが他者のプライバシーに関わる内容になってしまう。あるいは、まだ未確定の企画段階の話になってしまう。なので、ブログには書けない。

で、どうしよう?と悩んだ結果、書きあがったのが今日のブログだ。

ネタが見つからない時に、どうするか?

私は3つのアプローチでネタを見つけている。

しかし、それでもネタが見つからない時がある。

その時には、

“ネタが見つからないこと自体をネタにする”

これもまた、一つのアプローチであり、ノウハウではないかな、なんて思っております。

以上、ネタの見つけ方のご参考になれば幸いです。

TAKU &sing

卒業式と入学式

卒業式シーズンである。

入学式があって、卒業式がある。

自分自身のことを思い返してみると、卒業式の記憶はあるが、入学式の記憶はあまりない。

入学式の時は、右も左もわからず、あれよあれよという間に時が過ぎ去るからなのかもしれない。だからあまり記憶に残らない。入学にせよ、入社にせよ、新しい環境に入る、という時はそういうものなのかもしれない。

一方で、卒業式の時は、右も左もわかっている。事前の練習もある。過去の思い出もある。卒業証書は、左手を差し出し、右手を添えて、受け取る。そのくらい勝手知ったる行事である。それでいて、勝手知ったる場所や仲間や先生と今日で別れる。名残惜しさと清々しさ。新たな旅立ちへの不安と、未来への希望。そんな相反する感情が混ざり合う。卒業にせよ、退職にせよ、馴染みのある環境から出て行く、という時はそういうものなのかもしれない。

卒業を歌った曲は多いけど、入学を歌った曲は少ない。それもこれも、卒業式の方がよりドラマチックだからなのだろう。

今年、卒業式を迎える学生の方々。卒業おめでとうございます。いま、どんな気持ちですか?

そして、そのお母さん、お父さん。まずはお疲れ様でした。

これから、馴染みのある環境を出て、新しい環境に入って行くことになろうかと思います。

新たなる旅立ちが希望に満ち満ちたものでありますように、心よりお祈り申し上げております。

フレー!フレー!

TAKU &sing

必要悪ってなんや?

もう10年くらい前になるだろうか。とある食品メーカーで新規事業アイデア創出ワークショップを実施していた時の話だ。

会議室に集まっていたプロジェクトメンバーは15人ほど。各人から、自社の将来ビジョン実現のために、自社の強みを活かしてどんなことができるか?についてのアイデアをプレゼンしてもらっていた。その時、ある一人の社員の方から、こんな言葉が出た。

「うちの社員は、うちの商品が入っている食品を食べないですからね」

「うちの商品が入っていない食品を食べるのが一番いいんです」

「だから、自分でも極力うちの商品が入っている食品は食べません」

「家族にも、できるだけ食べるな、と言っています」

「うちの商品は必要悪なんですよ」

そのメーカーは、食品添加物をつくっている。

私は、その言葉を聞いた時、「えっ?」と驚いた。ショックだった。そして、怒りを感じた。

自分の会社の商品を食べない?

家族にも勧めない?

それって、どういうこと?

その商品って何?

もし村で商売していたとしたら、そんな商品を売る?

自分で食べない。家族にも食べさせない。そんな商品を近所の人たちに売るか?

そんな商品を売っているあんたの会社はなんや?

そもそもその会社に勤めていながら、その商品を必要悪と呼んでやり過ごしているあんたはなんや?

と。

もちろん、私は面と向かってはそんなことは言わなかった。なんせ仕事中だ。だが、心の中ではそんなことを瞬間的に思っていた。

一方で、他のプロジェクトメンバーの様子を伺う。

「そうそう」と言葉で同意している人がいる。あるいは、言葉は発しないまでも、頷いている人がいる。少なくとも、そこにいたすべての人が、「私はあなたの意見を否定しませんよ」という顔をしていた(と記憶している)。

私は、猛烈な悲しみを覚えた。

必要悪ってなんや?

と。

仕方がない、ということか?

諦めるしかない、ということか?

自分で自分たちの会社のやっていることを悪と認識しつつ、当の本人がそれを是認している。

いや、是認しようとしている。

おそらく、ものすごい心の葛藤があるのだろう。

誰もが、それでいいんだという顔はしていなかった。

一方で、それは仕方がないことですね、と言って欲しそうでもあった。

私は、あえて何も言わなかった。

いや、何も言えなかった、というべきかもしれない。

その時は、社員の方々の意見をそのまま受け入れ、次のプレゼンに進んでもらった。

だが、その時から、私の中には、妙なしこりのようなものが残った。

これで良いんだろうか?と。

家族のことと会社のこと。

社会のことと経済のこと。

この両者は、相反するものではないはずだ。

必ず両立することができるはずだ。

どうすればいいんだろうか?

何をすればいいんだろうか?

何をどう考えれば、この両者を両立させることができるんだろうか?

いい経営とは何だろうか?

と。

この話の続きは、またいつかどこかで書きたいと思います。

では本日も、よい一日でありますように♪

TAKU &sing

確定申告書の書き方を学ぶということ

明日は確定申告期限である。

私が自分で確定申告をするようになってから、今年で7回目の申告となる。

確定申告書の書き方は、会社では学ばなかった。学校でも学ばなかった。

なぜだろうか?

日本国憲法には、国民の三大義務が定められている。

1. 教育の義務(26条2項)

2. 勤労の義務(27条1項)

3. 納税の義務(30条)

つまり、日本国憲法曰く、「国民は、よく学び、よく働き、しっかりと税金を納めましょう!」と言っている。

であれば、確定申告書の書き方を学校で学ぶことは、必須ではないだろうか?

「よく働きましょう。しっかりと所得を得ましょう」

「所得を得たら確定申告書にまとめましょう。そして、納税しましょう」

「働くこと、税金を納めることの大切さとその具体的なやり方を学びましょう」

「その一つとして、確定申告書の書き方を学びましょう。そして、実際に確定申告をしてみましょう」と。

確定申告書の書き方を学ぶことは、将来の職業選択の幅を広げることに繋がるだろう。

就職だけでなく、独立、起業、副業などの選択肢も自ずと視野に入ってくるようになるだろう。

なんせ、所得の種類は10種類もある。給与所得以外の所得が9種類もある。

確定申告書の書き方

社会人になってからではなく、中高生くらいの時期に学んでおく。

そんな機会もつくりたいな、と考えています。

商店街や屋台でのビジネス体験

からの確定申告

そして納税まで

「えっ、こんなに税金を払うの?」

ということが事前にわかっていれば、仮想通貨取引で儲かった!と思っていたけど、税金が支払えず困った…というような人も減るかな、と思います。

いやー、あぶく銭は怖い。

TAKU &sing

「いい」こととは?

リーダーとは、他に強制されずとも、自ら「いい」と信じることを実行する人である。

逆に言えば、

リーダーとは、たとえ他に強制されたとしても、自ら「いい」と信じられないことは実行しない人である。

ポイントは、他に強制されないということ。リーダーは、あくまでも自らの責任と自らの判断で、自ら決定し、自ら実行するのである。

さらに、より重要なポイントがある。非常に重要なポイントだ。

それは、「いい」とは、自ら「いい」と信じることである、ということだ。

他人の受け売りの「いい」はない。一般論としての「いい」でもない。

偉い人が言ったから「いい」とか、親が言ったから「いい」とか、先生が言ったから「いい」とか、上司が言ったから「いい」という訳ではない。

自らの心で「いい!」と感じ、自らの体で行動し、その結果、自らの経験からも「いい!」と信じられるようになったこと。

それが、自ら「いい」と信じられることになるだろう。

もちろん、わがままで「いい」という訳ではない。自分さえよければ、の心で実行した結果が、必ずしも自分にとっての「いい」になるとは限らない。仮に自分のわがままな行動で親や兄弟や友達を困らせてしまい、その結果として自分の心が「あー、悪かったなぁー」と感じたのなら、その行動は自分にとっての「いい」ではないのだろう。

自らの心が、行動と経験を通じて、「いい!」と信じられるようになることは、結局のところ、利他的な行為になっていくのだろう。そして、「自分よし」「相手よし」に加え、さらには「世間よし」の三方よしになっていくのだろう。

一日一善。

まずは日々、自らの心が「いい」と感じたことを実行していきたいと思います。

今朝も近所の方(あまり知らない方)がゴミ捨てをされてたので、「おはようございます」と挨拶をしました。そしたら「あっ、おはようございます。いってらっしゃい」と言われました。すごく嬉しくなったので、私も「いってきます」と言い返しました。その方は家へと戻り、私は駅へと歩いて行きました。

挨拶って「いい」なぁ、といつも感じます。

今日も「いい」一日でありますように♪

TAKU &sing

進学か?就職か?

進学か、就職か。

これは二者択一の選択肢なのだろうか?

この二者を両立することはできないのだろうか?

ある大学生曰く。

「大学院に進学するか、企業に就職するかで迷っています」

「大学院で〇〇の研究をしたいし、一方で企業で実学も学びたいんです。もちろん、お金も必要だし」と。

こういう話は良く聞く。

大学生に限らず、高校生でもそうだろう。進学するか、就職するか。

社会人でも同じかもしれない。MBAなどの資格を取得するために大学院に進学するか、いまのまま就職し続けるか。

進学か、就職か。

なぜどちらか一つだけを選ぼうとするのか?

なぜどちらか一つを捨てようとするのか?

この選択肢は二者択一ではない。

学ぶことと働くこと。

この二者は両立させるべき選択肢である。

少なくとも、片方を捨て去る必要はない。

学びながら働く。

働きながら学ぶ。

どちらが主体でも構わない。

割合は何対何でも構わない。

学ぶことと働くこと。

この二つは必ず両立できるものである。

進学か、就職か。

この選択肢は二者択一ではない。

両立させるべきものである。

つねにこの二者を両立できる方法を探し続けること。

何を身につけたいのか?

何をできるようになりたいのか?

どんな存在になりたいのか?

学ぶことと働くことをいかに両立させるか。

進路選択において無用な悩みに陥らないために、とても大切なことである。

TAKU &sing

はじめての日本舞踊

今日、はじめて日本舞踊を観る。

友人が出演する舞台を観に行く。

日本で生まれて早44年。

いままで一度も日本舞踊を観たことがない。

狂言は、小学校の頃に観た記憶がある。ある時、体育館でやっていた。演目は『ぶす』だったと思う。太郎冠者、次郎冠者が出てきて、あれあれとコミカルな動きをしていた。妙な面白さがあった。大人になってからも、野村萬斎さんの狂言を観に行ったことがある。

だが、日本舞踊は観たことがない。歌舞伎もそう。

なぜだろうか?と、ふと疑問に思う。

まぁ、自分で観に行かなかったから、と言えばそれまでなのだが。

ミュージカルは観に行ったことがある。高校時代には、ヒップホップダンスが流行っていた。MCハマーとか、ダンス甲子園とか。当時、自分でダンスを創って、体育祭で踊ったこともある。

ダンスは観たり踊ったり創ったりしたことがあるけど、日本舞踊は観たことも踊ったことも創ったこともない。あえて知っている日本の踊りと言えば、盆踊りくらいだろうか。

なんか不思議だなぁー、と思う。

体験したこともないのに、ダンスは面白くて、日本舞踊は面白くなさそうなもの、という先入観が自分の中にある。

だから、最初に誘われた時も、どうしよっかなぁーと躊躇した。なんか堅苦しそうだし、つまらなそうだし。でも友人がやる演目だし、ここで観に行かなければ一生観に行くこともなさそうだし。と思って観に行くことに決めた。

それにしても、なぜ私は、日本舞踊は面白くなさそうなもの、と思っているのだろうか。体験したこともないのに、である。

ポイントは、「体験したこともないのに」にある。

要は、自分の中にある先入観は、人からの噂により形成されているということだ。

あるいは、知らず知らずの間に”自分の目の前に提示されてきたもの”(ダンス)と、”自分の目の前に提示されてこなかったもの”(日本舞踊)とによって形成されているということだ。

子どもの頃、日本舞踊に触れながら生まれ育っていたら、日本舞踊に対して全く違った印象を持っていただろう。

私は決して、日本舞踊が良くて、ダンスは良くない、と言いたい訳ではない。日本舞踊もダンスも素晴らしいものだ。踊りは万国共通で素晴らしい。ソウルを感じる。

私が言いたいのは、日本で生まれ育ってきたにもかかわらず、日本舞踊を観たことも踊ったことも創ったこともない、ということに対する違和感だ。

日本人として、何を大切にするのか?

自国の文化を知らなければ、他国の文化を真に知ることはできないのではないだろうか?

自国の文化を尊重できなければ、他国の文化を真に尊重することもできないのではないだろうか?

もしかしたら、ミュージカルを観ても、ヒップホップダンスを観ても、上っ面しか観ていないのかもしれない。

誰がどんな想いで、それを創始し、継承発展させてきたのか。なぜ、いまそのスタイルの踊りに辿り着いたのか。今後、どんなスタイルの踊りに変化していこうとしているのか。

100年以上の時間軸で、自国の文化を知ることは、他国の文化をより深く知ることにも繋がるのではないだろうか。

まぁ、あまり頭でっかちに考えたい訳ではないんですけど…

少なくとも、あまり先入観に囚われずに、日本舞踊を観てみたいな、と思っています。せっかくのいい機会ですので。子どもたちがどう感じるのかも楽しみです。

ってことで、今日は、日本舞踊を初体験してきます。

みなさんにも、今日、良き初体験がありますように♪

TAKU &sing

時代の最先端を体験する

昨日、時代の最先端を体験することの大切さについて話をしていた。

話の発端は、日本のキャッシュレス決済比率が低いということ。

詳しくは、『FinTechビジョンについて(補足資料)経済産業省(2017年5月)』の12ページをご参照ください。

日本のキャッシュレス決済比率(18.3%)は、中国(55%)、韓国(54%)、米国(41%)と比べて圧倒的に低い。

いわば日本では、いまだに”現金”での決済にこだわりを持つ人が多いということ。逆に言えば、現金以外での決済に抵抗を持つ人が多いということ。

「ほんとうにそれでいいのか?」

「そんなことでは日本は海外の最先端から取り残されていくのではないか?」

という話をしつつも、その場にいた誰もが、いまだに日常の買い物では、現金決済をメインにしていた。

要は、お財布に現金を入れて持ち歩くことが”ふつう”だ、と思っている。思い込んでいる。

いまの子どもたちは、3歳くらいで自然とスマホやタブレットを操作する。最近では、Siriに話しかけてスマホを操作する。

googleやLINEのスマートスピーカーが置いてある家で生まれ育った子どもたちは、”自然と”声でモノ、カネ、情報を操作するようになるだろう。

もしそうなっていくとすると、その時代の子どもたちは、ヒトに対する話し方も変わってくるかもしれない。

「オッケー、TAKUさん」

「晩御飯つくって!」

みたいな。

シンプルに指示を出して相手を動かす、ということが、ごく”ふつう”になるかもしれない。

その時、大人は、子どもたちに対して、こう言うかもしれない。

「いまどきの子どもたちは、口の聞き方がなっとらん!人に対して、ぶっきら棒に命令口調でしゃべる。どうなっているんだ?」と。

これに対して、子どもたちは、大人に対して、こう言うかもしれない。

「えっ、そう?シンプルでストレートな言葉の方が伝わりやすいよ。無駄もないし。むしろ、大人の方が無駄口が多いんじゃないですか?」と。

これは、どちらが良いか悪いかではなく、時代の変化なのだ。時代の変化に伴って生まれてくる価値観であり文化なのだ。

これからは、新しいテクノロジーのもとで生まれ育った子どもたちと、古いテクノロジーのもとで生まれ育った大人たちとの間での価値観のギャップがかなり大きくなるだろう。

もしかしたら時代の最先端を走っていないかもしれない日本の中ですらこうだ。

時代の最先端を走っている国の子どもたちや若者たちと比べたら、いわんやをやである。

世代間でのギャップだけでなく、国間でのギャップもかなり大きくなるだろう。

そんな状況の中では、何もしないことが最大のリスクになるかもしれない。

時代に乗り遅れてしまうどころか、時代にまったく付いて行けなくなってしまうかもしれない。

ってことで、

新しいテクノロジーを拒否するのではなく、積極的に取り込んでみる

時代の最先端を自ら体験する

ということが大切ですよね!

という結論に達しました。

いやー、仮想通貨取引もやってみるかな。いまさらながら。

TAKU &sing

仕事とお金

「この仕事をしたら、お金をいくらもらえますか?」

そんな風に、仕事とお金を直接結びつけて考えるようになったのは、いつからだろうか?

むかしむかし。私が30歳になるまでの頃。仕事とお金は、分けられていた。

仕事は仕事。お金はお金。

喫茶店でのアルバイトにせよ、会計士受験専門学校での非常勤講師にせよ、監査法人での監査業務にせよ。

目の前のお客さんに対して、一番いいサービスをすること。ともに働く仲間と喧嘩しながらも楽しく一生懸命に働くこと。

仕事は仕事として、そういう姿勢で臨んでいた。

お金は、”その結果として”もらうものであった。

“いくらいくらのお金をもらうために”仕事をする、という感覚はなかった。

仕事は純粋に楽しく。お金は困らない程度に入ってくる。そんな感じだった。

仕事とお金が直結し始めたのは、30歳を越えた辺りからだったろうか?

30歳を越えた頃、私は、経営コンサルタントに転身した。東京から大阪へ戻ってきた。第一子を授かった。

職業を変え、職場と住む場所を変え、子どもを持った。少し経つとマネジャーになった。会社に新卒が入ってきて、後輩ができた。

それまでは、自分一人が楽しんで働いていたら、勝手にお金も入ってきた。

でも、子どもができ、後輩ができた頃から、”自分が稼がないと”子どもを養えない、後輩を養えない、という感覚が芽生えてきたように思う。

家族が生活するためには、いくらいくら必要。そのためには、いくらいくらの稼ぎが必要。だから、いくらいくらの売上が必要。なんてことを考えるようになった。

あるいは、新卒で入ってきた後輩に、経験を積んでもらうためには、いくらいくらの仕事(プロジェクト)が必要。だから、いくらいくらの受注が必要。なんてことを考えるようになった。

まぁ、当時はそこまで自覚していた訳ではないです。あえていま、その頃のことを振り返ってみると、そんな気がする、ということです。

でまぁ、何が言いたいかというと、”養う”という感覚が間違っていたな、ということ。特に、会社に新卒で入ってきた後輩たちのこと。

子どもはともかく、新卒入社の後輩たちは、立派な大人だ。社会人だ。”養う”とか”養ってあげる”という感覚が失礼だ。

彼(彼女)らは、20年近く、自分で決めて、何かを経験し、何かを身につけ、ここまでやってきた。この先も、自分で決めて、何かを経験し、何かを身につけていくだろう。

私が、彼らを”養ってあげる”必要などない。彼らが自ら成長していける環境があればいい。彼らを見守ればいい。時に手を差し伸べればいい。何より、私は私で成長していけばいい。そして時に、彼らに教えてもらえばいい。ともに働き、ともに学び、ともに育っていけばいい。

いまは、そんな風に考えている。

だからいまは、仕事は仕事。お金はお金。と再び分けて考えることができるようになってきている。

「この仕事をしたら、お金をいくらもらえますか?」

ではなく、

「この仕事をさせてもらえませんか?」

「お金は、いくらいくらでお願いできますか?」

の2つを、いったん別々の話として考えられるようになってきている。

仕事で合意できても、お金で合意できないかもしれない。

逆に、お金で合意できても、仕事で合意できないかもしれない。

だが、上記のいずれにせよ、仕事かお金のどちらかは合意できている。

はじめからその二つを直結させて考えていたら、いい仕事には巡りあえない。

仕事とお金の両方で合意できたら、最高!

たとえお金が多少合わなかったとしても、仕事がぴったりと合意できたのでたれば、それも最高!

ともに働き、ともに学び、ともに育つ。ともに稼ぎ、ともに想いを遂げる。

そんな仕事と仲間に出会えたら、最高だよなー、と思いながら、日々を過ごしています。

今日も、良き仕事と良き仲間との出会いがありますよーに♪

TAKU &sing