はじめてのチラシ配り

昨日の学ぶログを書いた後、一人で『シンガーソングライター教室(超入門)』のチラシを配ってみた。

場所はアンドシングスクール大阪北浜校の周辺である。

実際に、一人でチラシ配りをしてみると、いろいろと感じることがあった。

チラシ配りに限らず、実際に行動してみることって大切だなぁ、と今更ながら思った。

今日は、ささやかながら、「はじめてのおつかい」ならぬ「はじめてのチラシ配り」からの学びを書いてみる。

ただ、まだ申し込みは一件もないので、成功談ではなく、ただの体験談である。

それでも何かの役に立てばと思い、ここに書き記しておく。

【一人チラシ配りで感じたこと】

1. 意外と人は周りにたくさんいる

2. はじめの一人がめっちゃ緊張する

3. 一人受け取ってもらえるとやる気がでる

4. 対面なので反応がわかりやすい

5. 意外と受け取ってくれる人は多い

6. 拒否されると一瞬傷つくが受け取ってくれる人がいたら立ち直れる

7. 歩いている人よりも立ち止まっている人の方が受け取ってくれる確率が高い

8. シンガーソングライター教室に興味を持ってくれる人は学生時代に音楽をやっていた人が多い

9. いくら会話が弾んでも申し込んでもらえないと成果にはならない

10. 大きなビジョンは大切だが、小さな行動と成果がなければ何も変わらない

11. 素直に頭を下げてお願いすることは大切

ってことで、今日もチラシを配ってみる。

一人申し込んでもらえると俄然やる気が出るだろうなぁー

それにしても、キャッチセールスの人ってすごいんだなぁと今更ながら感心。

いままで声をかけられても無下に断っていたけど、その誘い方や話術に学ぶところはあるな。

どっひー &sing

結果が出ないのは行動していないから

6日ぶりに学ぶログを更新する。

お恥ずかしながら、落ち込んでいた。

家族のこと、仕事のこと、人間関係のこと。

いろんなことがうまくいかず、悩んでいた。

なんで思うようにいかないんだろう?

どうしたらいいんだろう?

時に相手のせいにし、時に自分のせいにしながら、情緒不安定な状態に陥っていた。

なんだかんだ5日間も学ぶログを更新せずにいた。

で、わかったことは、

結果が出ないのは(自分が)行動していないから

ということ。

しごく当たり前の結論。

だけど、ただそれだけのことを受け入れることができなかった。

なぜか?

「こんなに頑張っているのに」という気持ち(勘違い)が拭えなかったからだ。

結果が出ないことを誰かのせいにしようとしていた。

自分は間違っていないと正当化しようとしていた。

だが、そんなことはどうでもいい。

私の望みは何なのか?

家族のこと、仕事のこと、人間関係のこと。

「うまくいかなくて悩む」ということは、「うまくいくことを望んでいる」ということ。

そしてそれを望んでいるのは、他の誰でもなく、自分自身。

自分が望む結果を出したいのなら、自分が行動するしかない。

他人のせいにしても、何も変わらない。

自分が行動するしかない。

行動しても尚、うまくいかないかもしれない。

だとしても、行動するしかない。

うまくいくまで行動するしかない。

自分の望む結果が出るまで行動するしかない。

やるべきことはそれしかない。

気づかないうちに、ふんぞり返っていたら誰かが何とかしてくれるはず、という甘えが身についているらしい。

身についた垢を落とさなければならない。

『シンガーソングライター教室(超入門)』のチラシを配るべし。

どっひー &sing


「よめない ひけない うたえない」三重苦でも大丈夫!
ワンフレーズから始めるミニソングづくり
『シンガーソングライター教室(超入門)』

第5回:変身ミニソングをつくろう♪(ハロウィン前に)
日 時:9月22日(土)16:00〜17:30
場 所:アンドシングスクール大阪北浜校

お申込みは、以下いずれかから。

①facebookのイベントページ
https://www.facebook.com/events/731610550513041/

②こくちーずプロのイベントページ
https://www.kokuchpro.com/event/391629ac3667472ed7d63a67d025765f/290232/

盡心知性則知天(じんしんちせいそくちてん)

「其の心を盡(つく)す者は、其の性を知る。その性を知れば、則ち天を知る」

石田梅岩の『都鄙問答』で引用されている、孟子の言葉である。

この言葉のおかげで、「利他の心とはなんぞや?」ということが、ほんの少しだけ(理屈として)わかったような気がする。

以下、ちょっと小難しい話にはなるが、リーダーとしての徳と得を高めていくために、とても大切なことだと思うので、ここに記しておく。

石田梅岩『都鄙問答』(致知出版社)によれば、「其の心」とは、「四端」と呼ばれる①惻隠、②羞悪、③恭敬(辞譲)、④是非の4つの心を指し、「其の性」とは、仁義礼智の本性だと言う。

まず、「四端」それぞれの言葉の意味は、次の通りである(wikipediaより)。

①惻隠:他者を見ていたたまれなく思う心

②羞悪:不正や悪を憎む心、または「廉恥」恥を知る心

③恭敬(辞譲):譲ってへりくだる心

④是非:正しいことと間違っていることを判断する心

これら「四端」は、それぞれ仁義礼智と対応している。

①惻隠の心を尽くすことで、仁(人を思いやること)を知る。

②羞悪の心を尽くすことで、義(利欲にとらわれず、なすべきことをすること。正義)を知る。

③恭敬(辞譲)の心を尽くすことで、礼(「仁」を具体的な行動として表したもの)を知る。

④是非の心を尽くすことで、智(人や物事の善悪を正しく判断する知恵)を知る。

つまり、「四端」の心を尽くすことが、利他の心を実践することに繋がり、その実践を経て、仁義礼智の徳が身に付いていくということである。

ところで、仁義礼智の「義」は、一般に「利」と対比される概念であるが、「先義後利」という言葉もある。

「先義後利」とは、「道義を優先させ、利益を後回しにすること」である。

私はこれまで、先義後利を、先に利他、後で利己と捉えていた。つまり、自分の利益を得たいのであれば、まずは他者の利益を優先せよ(=道義を優先せよ)、という意味で捉えていた。

だが、先の「盡心知性則知天(じんしんちせいそくちてん)」の考え方からすれば、これまでの私の理解は間違っているのではないか、と思った。

「先義後利」とは、「(世間にとっての)道義を優先させ、(相手にとっての)利益を後回しにすること」なのではないだろうか?

つまり、道義においても、利益においても、まずは「他を利する」べきなのではないだろうか?

まずは心を尽くし、他を利する。

その結果として、自分の道義も立ち、自分の利益も立つ。徳と得が高まる。

そういうことなのではないだろうか?

この理解は間違っているかもしれない。だが、実感としては、こう考えてみることで妙にスッキリするところもある。

とは言え、まだ実践を通じてピンと来たわけでもない。

それゆえ、「もしかしたら、そうかもしれないな〜」という程度の気づきではある。

だがそれでも、この方向性で進んでみたいと思う。

「其の心を盡(つく)す者は、其の性を知る。その性を知れば、則ち天を知る」

「四端」の心を尽くしていきたいと思う。

どっひー &sing

自分の弱さと向き合う

先日、朝起きて、私の部屋の机を見たら、引き出しが開き、中身が机の上に出ていた。

私は、子どものことを疑った。そして怒った。

「やったのはお前だろう」「何か盗っただろう」と。

容疑は、私の部屋に無断で入り、机の中をあさったこと。

証拠はない。あるのは、状況証拠だけ。

だが、私は子どものことを疑った。

一方で、私は自分自身を疑うことはしなかった。

もしかしたら、机の上を片付けず、引き出しも開けっぱなしのままで寝たのかもしれない、とは考えなかった。

私がそんなことをするはずはない、と信じていた。

その結果、私は子どものことを疑った。そして怒った。

「二度と俺の部屋に入るな」「絶対に机の中を開けるな」と。

子どもは、「わかった」と言った。でも、どこか悲しそうだった。悔しそうだった。そして学校へ行った。

この事件の後、私の中には、何とも言えない気持ち悪さが残った。


思い返してみると、私は公平ではなかった。

私は、自分を信じ、子どもを疑った。

だが、どちらも確たる証拠はない。

私がやっていないという証拠はない。

子どもがやったという証拠もない。

証拠もなく、子どもを疑うというのであれば、なぜ自分を疑わなかったのだろうか?

なぜ自分を疑い、子どもを信じなかったのだろうか?

どう考えても、これは私の自己保身だった。

私は、「私にとって都合の悪い出来事」が起こった時、無意識に「自分は悪くない」と防御した。

そして、責任をなすりつける対象を探した。そこに子どもがいた。

だから私は、子どもを疑い、状況証拠を集め、怒った。

私は弱い。

私は、「自分の机の引き出しを開けっぱなしにするような、いい加減な人間ではない」という恐ろしくちっぽけなプライド(のようなもの)を持っている。

そしてこの根底には、「私は自分のことを完璧にこなす人間である」「だから、他人からとやかく言われるような人間ではない」「他人が私の間違いを指摘するようなことはあってはならない」「私は他人から自由であるために、完璧でなければならない」というような(無)意識があるようだ。

だから私は自分を守った。自分を疑わなかった。

そして子どもを疑った。子どもに責任をなすりつけた。


私は弱い。

私は無意識に自分を守り、他人を傷つける。

先の事件では、たまたま近くにいたのが、子どもだったから子どもが標的になった。

だが、もしこれが満員電車の中だったら。街の雑踏の中だったら。会社の中だったら。学校の中だったら。

「自分にとって都合の悪い出来事」が起こった時、私はどうするのか?

その時、その場にいる、比較的弱い立場の人を見つけ、標的にするのだろう。

自分にとって都合の悪い出来事が起こった時。

自分の正しさを守るために、他人を犠牲にする。

どうやら私には、そういう醜い心があるようだ。


私は弱い。

自分にとって都合の悪い出来事が起こった時。

私は、自分の正しさを守るために、他人を犠牲にする。

それゆえ、私にとっての「正しい」は、私の都合である。

私にとって都合が良ければ「正しい」あるいは「善い」。

私にとって都合が悪ければ「間違い」あるいは「悪い」。

私にとっての「正邪」あるいは「善悪」の基準は、私の都合にもとづいている。

それゆえ、私が考えている「正しい」は、必ずしも社会的な「正しい(=正義)」と一致するとは限らない。それゆえ、他人が考えている「正しい」とも一致するとは限らない。

同じく、私が考えている「善い」は、必ずしも社会的な「善い(=共通善)」と一致するとは限らない。それゆえ、他人が考えている「善い」とも一致するとは限らない。

私は弱い。

自分にとって都合の悪い出来事が起こった時。

自分の正しさを守るために、他人を犠牲にする。

これをやっている限り、私は真の「正しい」を知ることもなければ、真の「善い」を知ることもないだろう。


私は強くあらねばならない。

真の「正しい」や真の「善い」を追求しなければならない。

他人が考えている「正しい」や「善い」を受け入れられるようにならなければならない。

そのためには、私の恐ろしくちっぽけな基準、すなわち、私にとっての「正しい」や「善い」の基準をぶち破らなければならない。

そのためには、自分の弱さをしっかりと自覚しなければならない。

自分にとって都合の悪い出来事が起こった時。

隙あらば、自己保身に走る。それも恐ろしくちっぽけなプライド(のようなもの)を守るために。他人に責任をなすりつける。他人を疑う。他人を傷つける。他人を犠牲にする。

そんな自分の弱さをしっかりと自覚しなければならない。

すべては自己保身から始まる。

私は強くあらねばならない。

自分にとって都合の悪い出来事が起こった時。

それは私にとって(だけ)都合の悪い出来事なのか、他人にとっても都合の悪い出来事なのか、あるいは世間一般においても都合の悪い出来事なのか。

その出来事は「真に(みんなにとって)悪い出来事なのか?」を立ち止まって考えてみなければならない。

自分の都合(だけ)で過剰反応してはいけない。

逆に、たとえ自分にとっては都合の悪い出来事が起こっていなかったとしても。

「他人にとっては都合の悪い出来事が起こっているのかもしれない」

「世間一般においては都合の悪い出来事が起こっているのかもしれない」

という外向きのアンテナを立てておかなければならない。

自分の都合の有無(だけ)で無関心になってはいけない。


相手を思いやる心を持つこと。利他の心を持つこと。利他の行動をすること。

それは、結局のところ、自分の弱さを克服するためのものなのかもしれない。

自分の弱さを抱えている限り、恐ろしく不安定であり、不安である。

その結果、恐ろしく利己的になる。

ただ自分を守るために、視野狭窄となる。

「正しい」も「善い」も自分だけの視点から見えるものだけに留まってしまう。

真の「正しい」や真の「善い」が見えなくなる。

それ以前に、他人を傷つけてしまう。

子どもを傷つけてしまう。

そして自分が傷ついていく。


私は弱い。

まずは、この事実をしっかりと自覚するところから始めようと思う。

事件のあった夜、子どもに「疑って悪かった」と謝った。

子どもは「ううん、いいよ。いつも疑われるようなことをしてるし」と言った。

土肥卓哉 &sing

成長のタネ

上手くなりたければ、下手になれ

賢くなりたければ、バカになれ

カッコよくなりたければ、ダサくなれ

いま、ここから初める人だけが

つねなる挑戦を楽む

どっひー &sing

大義のタネ

「子どもたちには、こんな辛い思いをさせたくない」

「後進たちには、こんな辛い思いをさせたくない」

その思いが、大義のタネになっているのかもしれない。

どっひー &sing

立場が人をつくる。だが、立場だけでは人はつくられない。

自ら考え、自ら行動する。

そのきっかけになるのは、責任ある立場に就くことである。

人は、子どもを持つと親になる。

親の立場になり、その責任を自覚すれば、自ずと子どものことを考えるようになる。子どもにとって良かれと思う行動を取るようになる。

人は、部下を持つと上司になる。

上司の立場になり、その責任を自覚すれば、自ずと部下のことを考えるようになる。部下にとって良かれと思う行動を取るようになる。

人は、生徒を持つと先生になる。

先生の立場になり、その責任を自覚すれば、自ずと生徒のことを考えるようになる。生徒にとって良かれと思う行動を取るようになる。

人は、顧客を持つと価値提供者になる。

価値提供者の立場になり、その責任を自覚すれば、自ずと顧客のことを考えるようになる。顧客にとって良かれと思われる行動を取るようになる。

自ら考え、自ら行動する。

そのきっかけを得たければ、責任ある立場に就くことだ。

そして、責任ある立場に就くことは、いますぐにできる。

なぜならば、どんな立場にも責任があるからだ。

親であっても、子どもであっても。

上司であっても、部下であっても。

先生であっても、生徒であっても。

価値提供者であっても、顧客であっても。

他人であっても、自分であっても。

それぞれの立場に、それぞれの責任がある。

もちろん、立場により責任の軽重はある。

相手に及ぼす影響力が相対的に強い立場の方が責任は重い。

だが、そうでない立場の方にも責任はある。

立場が人をつくるのではない。

責任の自覚が人をつくるのである。

自ら考え、自ら行動する。

その自由を得たければ、責任ある立場に就くことだ。

いま自分が置かれている立場の責任を自覚することだ。

どっひー &sing

「特別な人間であらねばならない」という思い込みがもたらす罠

「私は、特別な人間であらねばならない」

どうやら、私は無意識にそう思い込んでいたようだ。

「私は、特別な人間であらねばならない」

そう思い込んでいるがゆえに、

自分が特別扱いされると嬉しくなるが当然だという素振りをする。

一方で、自分が特別扱いされないと嫌な気分になる。

自分の意見が批判されたり反発されると怒る。

自分の意見を聞いてもくれないと苛立つ。

自分の存在を無視されると悲しくなる。

自分の存在を認めてもらえない状況が続くと落ち込む。

「私は、特別な人間であらねばならない」

私の喜怒哀楽は、この思い込みから来ている。

この思い込みが、私の喜怒哀楽を支配している。

この思い込みは、どうやら「パラダイム」とか、「ライフスタイル」と呼ばれるもののようだ。

*以下、「パラダイム」については『7つの習慣』(スティーブン・R・コヴィー)、「ライフスタイル」については『アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』(小倉 広)の記述を参考にしている。

「パラダイム」あるいは「ライフスタイル」は、外部からの刺激に対して自分がどう反応するかを決める鍵になる。

どういう「パラダイム」あるいは「ライフスタイル」を持つかにより、外部からの刺激に対して自分がどう反応するかが変わる。

「パラダイム」あるいは「ライフスタイル」が異なれば、外部からの刺激に対して、どういう感情を持つかが異なり、その結果、どう反応(行動)するかが異なる。

「私は、特別な人間であらねばならない」

この「パラダイム」あるいは「ライフスタイル」を持っている限り、私は、ある外部からの刺激に対して前述のような感情を持ち、そして同じような反応(行動)を繰り返すことになる。

どうやら、私は勘違いをしていたようだ。

いや、無理な思い込みをしていたようだ。

「私は、私にとっては、特別な人間である。だが、他者からすれば、ごく普通の人間である」

こう捉え直してみると、

自分が特別扱いされるとすごく嬉しい。

一方で、自分が特別扱いされなくても当たり前である。

自分の意見が批判されたり反発されたりすることもあるだろう。

自分の意見を聞いてくれないこともあるだろう。

自分の存在を無視されることもあるだろう。

自分の存在を認めてもらえない状況が続くこともあるだろう。

それはそれで仕方のないことだ。

なにせ私自身、他者の存在をつねに気遣うことができていないのだから。

だが、だからと言って私が他者の存在を認めていないという訳ではない。

同様に、他者が私の存在を認めていないという訳でもない。

なぜならば、

「私は、私にとっては、特別な人間である。だが、他者からすれば、ごく普通の人間である」

からだ。

私は、この当たり前の事実になかなか気づくことができなかった。

「パラダイム」あるいは「ライフスタイル」を真に転換するにはまだまだ時間はかかるだろう。

だが一つわかったことがある。

それは、「ものの見方」あるいは「認知の仕方」が変われば、生まれる感情が変わり、行動も変わる、ということだ。

であれば、極力、良い感情や良い行動が生まれるような「ものの見方」あるいは「認知の仕方」を身につけたいものである。

恐れず、ごく普通の人間でありたいものである。

どっひー &sing

自分の大切な人にとって役立つことをしよう

「このままこの会社にいていいんだろうか?」

「自分はどうなりたいんだろうか?」

そんな悩みを抱えている人がいる。

かくいう私自身、かつて会社を辞める前。そんなことで悩んでいた。

だから、この本を書いた。

『ジブンノシゴトのつくり方 〜好きを諦めない働き方〜』

現在の職や会社に不安や悩みがある方、なぜか一歩を踏み出せない方に。

現在の仕事を捉え直し、未来への一歩を踏み出す勇気を取り戻してもらいたい。

そう思い、この本を書いた。

だが、いま振り返ってみると、この本でしっかりと書き切れなかったことがある。

それは、

自分の大切な人にとって役立つことをしよう

ということである。

この世界には、たくさんの人たちがいる。

誰かにとって役立つことをすることはいいことだ。

誰かのために一生懸命に働くことはいいことだ。

だが、もしそれが自分の大切な人にとって役立つことでなかったとしたら?

まして、自分で買わない。家族にも買わせない。そんな商品を自分が売っているとしたら?(『必要悪ってなんや?』参照)

毎日毎日、自分の身を粉にして働き続けることができるのだろうか?

家族、友人、同僚、同じ釜の飯を食う仲間たち。

そんな、自分の大切な人にとって役立つことをしたい。

自分の大切な人に自信を持って勧められる仕事をしたい。

少なくとも、自分の大切な人に対して顔向けできないような仕事はしたくない。

もし心からそう願うのであれば。

自分を欺く必要はない。

自分に言い訳する必要はない。

自分の大切な人にとって役立つことでないならば、なぜ自分が必死で取り組む必要があるのだろうか。

自分の大切な人に自信を持って勧められる仕事でないならば、なぜ自分の人生の貴重な時間をその仕事に捧げる必要があるのだろうか。

迷うことはない。

自分がそれをやることに意義や誇りを感じられることをしよう。

自分の大切な人にとって役立つことをしよう。

どっひー &sing

「人を育てること」と「自己効力感」の関係について

「なんで私の言うことを聞いてくれないんだろう?」

「何度も何度も同じことを言っているのに、なんでできるようになってくれないんだろう?」

「いったいどうしたらいいんだろう?」

子育て、教育、OJT(On-the-Job Training)。

親、先生、上司あるいは経営者。

人を育てる人には、悩みが多い。

特に、自分に成功体験があればあるほど、うまくいかない時の悩みは大きくなる。

「なぜあの時はうまくいったのに、今回はうまくいかないのか?」と。

ある子育て中のお母さんは、「もう!どうしたらいいのよ!」と匙を投げそうになっている。だが、匙を投げるわけにはいかない。だから悩む。

ある生徒を持つ先生は、「他の子とどこが違うんだろう?」と考え込んでいる。だが、その子はその子でしかない。他の子とは違う。だから悩む。

ある部下を持つ上司は、「こいつダメだな」と見切りそうになっている。だが、部下を変えてくれ、と言うわけにもいかない。だから悩む。

ある従業員を持つ経営者は、「何で私の言う通りにできないんだ!」と苛立つ。だが、一向に行動は変わらない。結果も変わらない。だから悩む。

『自己効力感』という言葉がある。

自己効力感とは、「自分の行為によって望ましい結果を生み出すことができる」という信念である。
〜『激動社会の中の自己効力』アルバート・バンデューラ(金子書房)より〜

人を育てる、という場面において、自己効力感は大きな役割を果たす。

そしてその自己効力感は二つある。

「育てられる側の自己効力感」と、「育てる側の自己効力感」である。

人を育てる、という場面において、「育てる側の自己効力感」の重要性はかなり大きい。

なぜならば、「育てる側の自己効力感」が、「育てられる側の自己効力感」に大きな影響を与えるからである。

例えば親子関係であるとすれば、

親が「私の行為によって、“この子が育つ・成長する”という望ましい結果を生み出すことができる」という信念を持っているとする。すると、親はこの信念を持って我が子に接することができる。その結果、子どもは「私の行為によって、“私が育つ・成長する”という望ましい結果を生み出すことができる」という信念を育めるようになる。

逆に、

親が「私の行為によって、“この子が育つ・成長する”という望ましい結果を生み出すことはできない」という信念(諦め)を持っているとする。すると、親はこの信念(諦め)を持って我が子に接してしまうことになる。その結果、子どもは「私の行為によって、“私が育つ・成長する”という望ましい結果を生み出すことはできない」という信念(諦め)を育んでいくことになる。

以上の例は、とても単純化しているし、実際にはこんな短絡的な関係でないことは確かだ。

子どもは子どもとして、生徒は生徒として、部下は部下として、従業員は従業員として、自ら「自分の自己効力感」を高めていくことはできる。必ずしも、いい親、いい先生、いい上司、いい経営者を必要とするわけではない。

だがそれでも、

人を育てる人は、すべからく「自分の自己効力感」を高い状態に保っておくことを大切にすべきである。

なぜならば、そうすることは、自分にとっていいこと(自分よし)であり、相手にとってもいいこと(相手よし)であり、周りの人たちにとってもいいこと(世間よし)であるからだ。

子育て、教育、OJT(On-the-Job Training)。

親、先生、上司あるいは経営者。

人を育てる人は、すべからく「自分の自己効力感」を高い状態に保っておくことを大切にすべきである。

「相手の自己効力感」を高めよう、高めようとする前に、「自分の自己効力感」を高めることに意識を払うべきである。

「なんで私の言うことを聞いてくれないんだろう?」

「何度も何度も同じことを言っているのに、なんでできるようになってくれないんだろう?」

「いったいどうしたらいいんだろう?」

そういう悩みを持つことは大切だ。

だが、そうやって悩み続けた結果、「自分の自己効力感」を低下させてしまっては元も子もない。

人を育てる人は、すべからく「自分の自己効力感」を高い状態に保っておくことを大切にすべきである。

「私には育てられない」

そう自分を責めても仕方がない。

一方で、「こいつがおかしい」

そう相手を責めても仕方がない。

もちろん、今後、二度と関係しない人であれば、スパッと相手を見切ることも一つの方法かもしれない。

だが、相手が「毎日毎日、自分が関わらざるを得ない人」であるならば。家庭、学校、会社、あるいは地域などで、「毎日毎日、自分が顔を合わさざるを得ない人」であるならば。

自分を責めても、相手を責めても。どちらにせよ「よくない状況」は変わらない。そして「自分の自己効力感」は低下する。

「自分の自己効力感」の低下は、下手をすると、他の多くの人への接し方すらをも変えてしまう可能性がある。

自分を責める人は、「自分に自信のなさそうな人」になっていく可能性がある。

相手を責める人は、「なんでも人のせいにする人」になっていく可能性がある。

人を育てる人は、つねに「自分の自己効力感」の状況に気を配る必要がある。

人を育てる人は、すべからく「自分の自己効力感」を高い状態に保っておくことを大切にすべきである。

そしてそのための鍵は、「分けること」「区別すること」にある。

どっひー &sing