自立とはどのような状態か?

昨日は、『個人が自立する必要性』について書いた。

今日は、「自立とはどのような状態か?」について書いてみたい。

コトバンクのデジタル大辞泉の解説によると、自立とは、

1 他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。「精神的に自立する」
2 支えるものがなく、そのものだけで立っていること。「自立式のパネル」

とある。

自立とは、自ら立つことであるがゆえに、「他からの助力を受けずに」あるいは「支えるものがなく、そのものだけで」立っている状態を指すようだ。

だが、個人が「他からの助力を(まったく)受けずに」あるいは「支えるものが(まったく)なく、そのものだけで」存在することはできない。

人は、人と人が支え合って生きるものだからだ。

どんな人であれ、一人きりで生きることはできない。

したがって、自立とは、「他からの助力を受けずに」あるいは「支えるものがなく、そのものだけで」立っている状態とは言えない。

では、自立とはどのような状態なのか?

私は思う。

個人が自立している状態とは、「他からの助力を受け」つつも、あるいは「支えるものが」ありつつも、「これがなくなったらどうしよう…」「この人がいなくなったらどうしよう…」との不安を感じずに立っている状態である。

つまり、たとえ何かや誰かを失ったとしても、その時はその時、自分は自分として生きて行くぞ、と思えている状態である。

「この会社がなくなったらどうしようもない」「だからこの会社にしがみつくしかない」

「この顧客がいなくなったらどうしようもない」「だからこの顧客にしがみつくしかない」

「この人がいなくなったらどうしようもない」「だからこの人にしがみつくしかない」

そんな風に特定の何かや特定の誰かにしがみついてしまっている状態は、自立している状態とは言えない。

「他からの助力を受け」つつも、あるいは「支えるものが」ありつつも、特定の何かや特定の誰かにしがみつかずに、立っている状態。

自立とは、そのような状態を指すのではないだろうか。

何かや誰かを頼ってもいい。たった一人、孤立無援で立つ必要はない。

だが、くれぐれもしがみついてはいけない。

もたれかかってはいけない。

わたしはわたし。あなたはあなた。

お互いが二本の足で立っているからこそ。

お互いがいつでも自由に関わり支え合えるのである。

どっひー &sing

個人が自立する必要性

国家の自立の基盤は、地域の自立にある。

地域の自立の基盤は、個人の自立にある。

逆に言えば、

個人が自立してはじめて、地域が自立する。

地域が自立してはじめて、国家が自立する。

このことは、国家が自立すると忘れられがちになる。

いつの間にか、国家が地域を自立させ、地域が個人を自立させているかのように見えてくる。

だが実際はそうではない。

個人の自立なくして、地域の自立なし

地域の自立なくして、国家の自立なし

である。

また、個人の自立は、精神的な自立からはじまる。

「他に頼らず自立するぞ!」という意志からはじまる。

精神的な自立は、経済的な自立の前にある。

たとえ、いまはまだ経済的に自立していないとしても、「いつか必ず経済的に自立するぞ!」という意志を持つことはいまからできる。

逆に、精神的な自立なくして、経済的な自立が実現することはない。

経済的な自立が実現できていないから、精神的な自立が実現できていないと考えるのは間違いである。

経済的な自立が実現できれば、精神的な自立が実現できるだろうと考えるのも間違いである。

精神的な自立なくして、経済的な自立なし

である。

学校とは、「個人が自立する必要性」を自覚する場である。

その上で、「個人が自立するための手段」を学ぶ場である。

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話す力は、聞く力から生まれる

歌う力は、聴く力から生まれる。

話す力は、聞く力から生まれる。

描く力は、観る力から生まれる。

書く力は、読む力から生まれる。

アウトプットの精度は、インプットの精度で決まる。

ゆえに、アウトプットの精度を高めたければ、インプットの精度を高めることだ。

歌う力を高めたければ、音をよく聴くことだ。

話す力を高めたければ、声をよく聞くことだ。

描く力を高めたければ、形をよく観ることだ。

書く力を高めたければ、文をよく読むことだ。

稼ぐ力を高めたければ、金をよく使うことだ。

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成功の反対は失敗ではない

失敗は成功のもと。

ゆえに、成功の反対は失敗ではない。

成功の反対は、諦め。

何もしなくなること。

挑戦しなくなること。

挑戦しなければ失敗しない。

失敗しなければ学びはない。

学びがなければ成長しない。

成長しなければ成功しない。

たとえ成功しなかったとしても、

人としては成長し続けたいものである。

どっひー &sing

教えることは学ぶこと

学校には、教師と生徒がいる。
教師は教える人で、生徒は学ぶ人。

しかし実際には違う。

実は教える人が一番学んでいる。

「どうすれば、相手にわかってもらえるだろうか?」
「どうすれば、相手にできるようになってもらえるだろうか?」

教える人は、ずっとこの質問を掲げ続けている。
そしてその答えを探し続けている。

その過程で答え(らしきもの)を見つける。
そしてその答え(らしきもの)で教えてみる。

その結果、相手にわかってもらえることもある。
相手にできるようになってもらえることもある。

だが、必ずしもそうではない。
いや、むしろそうではないことの方が多いだろう。

相手にわかってもらえなかった…
相手にできるようになってもらえなかった…

「どうすれば、相手にわかってもらえるだろうか?」
「どうすれば、相手にできるようになってもらえるだろうか?」

教える人は、ずっとこの質問を掲げ続けている。
そしてその答えを探し続けている。

教えることは学ぶことである。
そして、誰もが誰かに何かを教えている。

親は子どもに対して。
上司は部下に対して。
教師は生徒に対して。

わかってもらおうとしている。
できるようになってもらおうとしている。

逆もまたしかり。

子どもは親に対して。
部下は上司に対して。
生徒は教師に対して。

わかってもらおうとしている。
できるようになってもらおうとしている。

人はみな、教える人であり、学ぶ人である。

相手にわかってもらおうとすること。
相手にできるようになってもらおうとすること。

その過程の中に、学びはある。

あなたが、誰かに教えたいことは何ですか?

わかってもらいたいこと、できるようになってもらいたいことは何ですか?

そこからどんなことを学んでいますか?

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リーダーは立場ではない

リーダーは立場ではない。

リーダーは立ち居振る舞いである。

持ち場ごとでの立ち居振る舞いである。

その前提としての心の構え方である。

すべての持ち場にリーダーはいる。

会社でも、学校でも、家庭でも。高校野球でも、演劇でも、オーケストラでも。

すべての持ち場にリーダーがいる。

表に立つか裏方かは関係ない。

持ち場、持ち場にリーダーがいる。

あるチームの中で、ある役割を担う人。

その人がその役割のもとでリーダーとして立ち居振る舞うか否か。

ただ、それだけである。

ゆえに、リーダーになることは、いまから始められることである。

私たちは、すべての人がリーダーたりえる、と信じています。

【私たちの想い】

https://and-sing.com/concept/

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リーダーが落ち込む時

昨日、『「ごく身近にいるリーダー」と「そうでない人」との微妙だけど大きな違いについて』書いた。

基本的に、リーダーは「自ら率先して声をかけ、行動する人」であると言える。

だが、時にそれができなくなっていく時がある。

例えば、

  • 自分がとった行動に共感してくれる人が誰もいない時
  • 仕事や生活に追われて望ましい行動を取る余裕がない時
  • 行動は取ったがその成果を手応えとして感じられない時

こういう時、リーダーは落ち込んでいく。

共感、余裕、手応えがないままだと、徐々に望ましい行動を取れなくなっていく。

リーダーとして取るべき行動がわかっているだけに、その行動を取れない自分を責めていく。

自分はリーダーではないんだと自信を失っていく。

そして、もともとは自然にやっていたはずのリーダー的な行動の数々を失っていく。

じゃあ、どうしたらいいのか?

かつて、毎朝、職場で挨拶をしていた人がいた。

しかし、その職場の人たちは彼に挨拶を返さなかった。

彼は悩んだ。

「どうしてこの職場の人たちは挨拶をしないんだろうか?」と。

彼は徐々に挨拶をしなくなった。

そして会社を辞めた。

それから数年を経て、私は彼と再開した。

その時、彼はこう言った。

「転職後に海外で働いてみて価値観が大きく変わりました。彼らは日本人みたいに残業なんてしません。会社のことよりも自分や家族のことを優先します。挨拶をするかしないかなんてその人の自由。仕事中に大切なことは必要な仕事をしているかどうか」

「当時は、こだわりすぎていました。自分の価値観を一方的に押し付ける必要はないんだ、と今では思います」

押し付ける必要はない。

無理する必要はない。

共感、余裕、手応えを無理に求める必要はない。

自分がいいと思うことをやればいい。

それも自分のできる範囲でやればいい。

できる限り、アンテナが外向きに開いていればいい。

できる限りでいいから、「自ら率先して声をかけ、行動しようという心」を構えておけばいい。

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「ごく身近にいるリーダー」と「そうでない人」の微妙だけど大きな違いについて

「こちら、どうぞ〜」と笑顔で手を上げながら、レジを開けるコンビニの店員さん。

いつも「いいな〜」と思う。

一方で、レジにどんなに人が並んでいたとしても、何か別のことを黙々とやっている店員さんがいる(知ってか知らずかはわからないが)。

こういうことって、日常のそこかしこである。

オフィスのトイレに入った時、「おはようございます!」と明るく声をかけてくれる清掃員さんもいれば、ただただ無言で作業をしているだけの人もいる。

家に荷物を届けてくれる配達員さんもそう。扉を開けた時、「こんにちは!」と元気に声をかけてくる人もいれば、さっさと荷物を渡して帰ろうとする人もいる。

自ら率先して声をかけ、行動する人は、なぜか仕事もテキパキしている。声は明るく、目も明るい。

逆に、無口で下を向きがちな人は、心なしか仕事も緩慢に見える。背中は暗く、目も合わない。

この違いは何だろうか?

当然ながら、仕事の内容に違いはない。おそらく勤務条件も給与水準も大きくは違わないだろう。

場所も関係ない。たとえ、同じコンビニ、同じトイレ、同じトラックであったとしても、人が違うだけで対応が異なることがある。

だとすれば、違いを生むのは、その人自身。

その人自身が持っている何か。

それもスキルやノウハウというような小難しいものではなく、頭の賢さでもなく、いわば心構えのようなもの。

「自ら率先して声をかけ、行動する人」は、その前提として、「自ら率先して声をかけ、行動しようという心」をつねに構えているのだろう。

だからこそ、つねにアンテナが立っている。自分の周りの環境やそこにいる人たちの状況や変化を察知することができる。

困っている人がいれば、気づいてヘルプに動く。あるいは、これから人が困りそうな状況があれば、早めに気づいて対処する。

仮に困っている人がいなかったとしても、「こうした方が嬉しいかな」「安心するかな」「居心地いいかな」と相手のことを気遣う。

だからこそ、いまやっていることをいったん止めてでも、自ら率先して声をかけ、そして行動するのだろう。

「自ら率先して声をかけ、行動しようという心」をつねに構えている人は、アンテナもつねに外向きに開いている。

もちろん、アンテナの届く範囲やアンテナで察知する早さは人それぞれ。

アンテナの届く範囲が、半径数メートルの人もいれば、半径数百キロメートルに及ぶ人もいるだろう。

アンテナで察知する早さも、いまを察知する人もいれば、数十年先までを察知する人もいるだろう。

だが、どちらにせよ重要なのは、「つねにアンテナが外向きに開いているかどうか」ということ。

どんなに範囲が小くても、察知が遅くてもいいから、せめて外向きのアンテナだけは立てておきたいものである。

そのためにも、「自ら率先して声をかけ、行動しようという心」をつねに構えておきたいものである。

どっひー &sing