やりたいけど、できない。なぜならば…

学びたいけど、学べない。なぜならば…

働きたいけど、働けない。なぜならば…

変わりたいけど、変われない。なぜならば…

理想と現実。その狭間には何があるのか?

なぜならば…の部分には、どんな理由が入るのか?

それは単なる言い訳なのか?

対処すべき課題なのか?

対処すべき課題だとしたら、それは自分の課題なのか?社会の課題なのか?

理想と現実。その狭間にあるものを、現実的に変える。

変えたいけど、変わらない。

それでも変えるために、変わりたい。

変わりたいけど、変われない。

それでも、変わる!と決意する。

わたしの変わる!があなたを変える!

あなたの変わる!がわたしを変える!

そんな世界というか、場をつくりたいな、と思っています。

TAKU &sing

死角、盲点、先入観

昨日、ある方から、このURLをご紹介いただいた。

『介護で閉ざされる未来〜若者たちをどう支えるか〜』

介護で将来を見通せない若者たちの例である。例というか、一人一人の現実である。

私は、『ジブンノシゴトのつくり方〜好きを諦めない働き方〜』というタイトルで本を書いた。

しかし、このURLの記事には、好きを諦めない”働き方”を考える以前に、”働く”ための前提となる進学や就職すら諦めざるを得ない人がいる、という現実が示されている。

私は、見るべきところを見ていない。あるいは、見えているはずのことを見ていないことにしているのではないか?と感じた。

かつて、大阪の難波の地下街には、ホームレスの方々が何人も寝ていた。だが、いまはいない。

いや、正確に言えば、”いない”のではなく、”見かけない”だけなのだろう。

つまり、私が難波の地下街をのほほんと歩いている限り、”私が”ホームレスの方々を見かけることはない、ということなのだろう。

ホームレスの方々は、いまどこにいるのだろう?

私は、いまどこにいるのだろう?

何を見て、何を見ていないのだろうか?

何かとても大切なことから、目を背けているのではないか?

いやいや。それ以前に、ごく当たり前のことが見えていないのではないか?

この世の中のことを知っているようなつもりでいるが、実は全く知らないのではないだろうか?

私が見ている世界は、すごく偏っているのではないだろうか?

あるいは、ある部分がズッポリと欠けているのではないだろうか?

今朝は、そんなことを考えている。

見えていないことがある。

わかっていないことがある。

いったんそのまま受け止めてみる。

TAKU &sing

平和ボケを戒め、お金の使い道を再考する

「今日は風が強くて寒いけど、日差しが暖かくて平和だなぁ〜」と感じた。

平和を感じられることは、すごく幸せだ。

一方で、平和ボケになっていないか?とも思う。

昨日、私が出版したことについてのブログを書いた。

数十万円を払って一冊の本を書き上げた。満足している、と書いた。

それはそれでいいのだが、数十万円の使い道を考えた時、ほんとうにそれがベストな使い道だったのか?とふと思った。

私が本を書いた動機は、キャリア選択や進路選択で悩みや不安を持つ人を助けたい。励ましたい。勇気づけたい、ということだった。

進学して就職。

暗黙的に引かれている単線のレールを外れてみたい。でも外れるのが怖い。どうしたらいいんだろう?と悩み、不安を持つ人。それは、かつての私であり、いまの私自身でもある。

悩むということはやってみたい、ということだ。したがって、その後のアクションは、やってみるか、諦めるかの2つに1つしかない。どちらも選ばず、うじうじと悩み続ける時間が一番無駄だ。

思い切ってやってみるか?

やらずにすっぱりと諦めるか?

必ずどちらかを選ばなければならない。

だが、やってみたいことをやらずに、すっぱりと諦めることは容易ではない。なぜならば、実際にやってみて失敗しない限り、心の底から諦めることはできないからだ。やってみない限り、どこまでも「やってみたい」という気持ちと、「できるかも」という希望は消えない。消せない。そして無理に消す必要もない。

ならば、「一度やってみようぜ!」と私は言いたい。

取り返しのつかない失敗は避けるべきだ。だが、取り返しのつく失敗で済むことなら、やってみることだ。あるいは、取り返しのつく失敗で済む範囲で、やってみることだ。

“やりたいことは、やってみることだ”

私は、ただそれだけを言いたいがために、数十万円を支払って本を書いた。

私は、他の人たちに、自分を投影しているのだろう。

他の人たちを助ける、励ます、勇気づけることで、私は私自身を助け、励まし、勇気づけようとしているのかもしれない。

私は会社を辞めて独立した。今回は会社もつくった。

だから、何だと言うのか?

ちょこっとだけ、レールから外れてみただけではないのか?

進学して就職。

その暗黙的な単線のレールは、いまだに、

ドンッ!

と社会のど真ん中にでっかく引かれたままなのではないのか?

教育改革、働き方改革。

理念はいい。

だが、制度は本当に機能するのか?

私を含め、この社会に生きる一人一人の心の中に引かれている暗黙的なレールは単線から複線に切り替わっていくのだろうか?

依然として、極太の単線レールが鎮座し続けていくだけではないのだろうか?

一方で、これからは進学して就職じゃない。起業だ!NPOだ!みたいに、新たな単線レールを引きたくもない。

私は、「一人一人が、それぞれに与えられた天分と才能を最大限に発揮できる仕事(ジブンノシゴト)を自ら創り出していける」状態を理想としている。

つまり、レールを引いていくのは、社会ではなく、一人一人の人であるべし、と考えている。

あるいは、過去の先人たち(いろんな地域のいろんな職業の人たち)が引いてくれた様々なレールの中から、自分の意志と力で自分が進むべきレールを選ぶべし、と考えている。

私は、一人一人が自らの意志と力で自分の進むべき道を選択できる場をつくりたいと考えている。

そしてそれは、アンドシング株式会社による、次世代リーダー輩出のための新たな学校(学びの場)づくりそのものである。

私が数十万円を支払って書いた一冊の本は、そのためのほんの第一歩に過ぎない。

私はまだ、一本も自分でレールを引いていない。

やらなければならないことは山ほどある。

それをやるためには、相応のお金が必要になるだろう。

お金の使い道には気を配らなければならない。

たとえ数十万円、数万円。いや数千円でも数百円でも数十円でも一円でも。

何に、何のために、いくら使うのか?それでどれだけの効果を得るのか?

それらのお金を使った活動や成果は、「ジブンノシゴトづくり」のための「新たな学校づくり」にしっかりと繋がっているのか?

それは「次世代リーダー輩出」に繋がっているのか?

こういうことを、もっとシビアに考えていかないといけない。

平和を感じられることは幸せだ。

だが、平和ボケしてはいけない。

ちょこっとお金があるからといって、余裕をぶっこいていてはいけない。奢ってはいけない。

お金は持ち物ではない。使う物である。使い方次第で、毒にも薬にもなるものである。

たった一円でも使い道を誤れば、そのお金は善でないものの流れを創り出していく。

たった一円でも使い道を正しくすれば、そのお金は善なるものの流れを創り出していく。

死に金を使ってはいけない。

同じお金を使うなら、しっかりと生き金にしなければならない。

お金の使い道は、よくよく考えるべし。

二宮尊徳氏が教えてくれた、「分度」と「推譲」にこだわるべし。

何より、「至誠」「勤労」を忘れるべからず。

そして、「積小為大」。

日々の努力を惜しむべからず。

TAKU &sing

【注意喚起】ギャラクシーブックスでの出版について

私が本を出版した、ということに触発されて、安易に「私も出版しよう!」と思い立つ方がいるのではないか?との意見があったので、今日はその意見に応えるべくブログを書く。

1.はじめに

私個人としてはギャラクシーブックスを誹謗中傷するつもりはありませんが、「借金してまで本を出版しちゃう人もいるらしい」という現状を踏まえ、私の実体験と客観的事実にもとづき、注意喚起をしておきたいと思います。

出版の意思決定にあたっては、必ず自己責任と自己資金で行なってください。くれぐれも「夢の印税生活!」なんて甘い気持ちで意思決定しませんように。

また、私の本を買う、買わないも、必ず自己責任と自己資金でお願いします。決して借金してまで私の本を買っちゃダメですよ!

2.私が、ギャラクシーブックスでの出版を検討するに至った経緯

私は、2015年4月から数ヶ月間、アメブロでブログを書いていた。

2016年6月初め、ギャラクシーブックスの担当者からメールがあった。要件は、出版と取材の依頼。HPとブログを見て、連絡をしたとのこと。簡単に言えば、「あなたのブログを本にしませんか?」ということ。その際、「金額の一部負担」や「審査等」がある旨も記されていた。

その時点では、私は「いつか本を書いてみたいな〜」とは思っていたものの、実際に「本を書こう!」とは決めていなかった。

私には、商業出版の経験のある知人が何人かいたので、その一人に相談した。ギャラクシーブックスの評判や、出版にあたっての金額負担について聞いてみたところ、

・ギャラクシーブックスは知らない。
・商業出版だと、数百冊〜数千冊の初版買取がある。
・そもそも本は簡単には売れない。

ゆえに、
「赤字覚悟で出版の実績を作りたい、紙ベースで出版をしたい」
と思うならいいのでは、との助言をもらう。

一方、当時のギャラクシーブックスは、akippa株式会社の一事業部であり、私自身が同社のことと同社の社長のことを知っていたことから、まずは一度、話を聞いてみることにした。
(同社の出版事業のビジネスモデルを知りたい、という純粋な興味もあった)

※ちなみに、いまのギャラクシーブックス(galaxy株式会社)は、株式会社ショーケース・ティービー(東証一部上場)の100%子会社である。2017年7月に株式譲渡され、現在(2018年4月7日)に至っている。

ギャラクシーブックスの担当者とは、契約前に2-3回お会いして話をした。
その時の勧誘トークについては、実はあまり覚えていない。
(逆に言えば、無理に勧誘された、という記憶はない)

1回目にブログを本にするなら、どんなことを書きたいかの話をした。
2回目にお会いした後に、本の企画案をメールでいただいた。
3回目には、社内で通ったという企画書をワードでいただいた。
そして、6月末にギャラクシーブックスとの出版契約を正式に結んだ。

3.私が、ギャラクシーブックスとの出版契約締結を決めた理由

私は、以下4点を契約前に確認した。

①費用は数十万円(あえて具体的な金額を書くのは控える)

②販売価格は1冊1000円ちょっと

③印税は10%
つまり、1冊売れて100円ちょっと。
ゆえに、費用回収のためには、数千冊が売れる必要がある。

④出版形態はAmazonでのプリント・オン・デマンド(POD)
Amazonで注文したら印刷され、本になって顧客に届く。
つまり、本は書店には並ばない。ギャラクシーブックスは在庫を抱えない。
ゆえに、何千冊も売れる可能性はかなり低い。

つまり、本を出版しても費用を回収できないだろうことはわかっていた。

一方で、私は、出版するなら、と以下の目的と目標を掲げた。

<目的>
「日々のブログに書きなぐっていた内容を一冊の本として形にする」
つまり、目的は出版ではなく、一冊の本を書き上げること(執筆)にあった。

<目標>
①私自身が持つ(暗黙的な)思想や考え方を言語化し、体系化する
②従来、断片的に人に伝えていたことを本で読んでもらえるようにする
③40歳で独立した後に感じていることを現在進行形で記録に残す

とは言え、私一人で黙々と執筆していても本は完成しなさそうという感覚があった。それはずっとブログを書き続けていて感じていたこと。

一方で、章ごとに、締め切りを定め、人から助言をもらいながら執筆すれば、一冊の本を書けるだろう。そのパートナーとして、ギャラクシーブックスの担当者は適任そうだ。「この人となら一冊の本を書き上げられそうだ」と思った。

以上より、私は、ギャラクシーブックスと出版契約を結ぶことを決定した。

4.私が、ギャラクシーブックスで出版したことによる満足と不満
(2018年4月7日現在での評価)

上述の通り、私の目標は「一冊の本を書き上げること」であった。
一方で、課題は、章ごとに締め切りを定めて書き上げること。さらに、各章を全体としてまとまりのある形に仕上げること、であった。

その点を踏まえ、まず満足している点について書く。

<満足している点>

①「一冊の本を書き上げた」という事実
この点については、私自身は非常に満足している。ギャラクシーブックスの担当者とは、ほぼ毎月、計12回以上にわたり打ち合わせを実施した。1回2時間程度ではあるが、それ以外にも、適宜、メールでやりとりしていた。

費用が数十万円で、打ち合わせ回数が12回とすれば、1回数万円。これを高いと思うか、安いと思うかは人それぞれだとは思う。

しかし、私にとっては、ギャラクシーブックスの担当者の助言がなければ、一冊の本を書き上げることはできなかっただろう、と感じている。そういう意味では、決して高い金額ではなかった、と思っている。一種のコンサルティング料みたいなものである。

もしかしたら、ある人からすれば「ありえない」と言われる金額を払っているのかもしれない。そればかりはわからない。人には人の判断があるからだ。

②一冊の本として人に読んでもらえるようになった
私は、過去にも個別のキャリア相談を受ける機会があったが、一冊の本が完成したことで、まずはこれを読んでもらうことが可能になった。

一冊あたり税込1350円が適正価格かどうかは読者の判断次第だが、私自身は、決して高い価格ではない、と思っている。

仮に、個別のキャリア相談を無料で行ったとしても、対面なら費用はかかる。もし大阪市内の喫茶店で話をするとしたら、お互いに飲食代と交通費がかかる。飲食代(コーヒー代)が300円、交通費が往復1000円として、1人1回1300円。

それも私が本で書いた内容をすべて伝えるとしたら、1回1-2時間では済まない。すると、もしかしたら相談回数は複数回に及ぶかもしれない。そう考えると、税込1350円で読める本があることは、相談者にとっても、私にとっても、費用対効果のあることなのではないかと思っている。

もちろん、本だけでは一人一人の個人的な相談にしっかりと答えることはできない。だが一方で、本を読むだけで不安や悩みを解決する糸口を見つけられる人もいるのではないか、とも思う。
(そういう効果のある本になっているかどうかは、わからないが)

一方で、不満もなくはない。

<不満を感じている点>

①外表紙がないため、見栄えが良くない
まあ、これは初めからわかっていたことではあるが、実物を手にした時の多少の残念感は否めない。大切なのは中身だ!と思いつつも、やはり見た目も重要だとは思うので。

この点は、電子書籍でなく、実際に手にとってペンで書き込める紙の本に私がこだわった以上、仕方がないと割り切っている。

②ギャラクシーブックスには、販売促進力がない
これもある程度は想定していたが、正直、想定以下という感じ。どうも会社としてリーチできる顧客数はかなり少なそうだ。販促チャネルとしては、ギャラクシーブックスのHPとメルマガくらいしかないと思う。

販売チャネルがAmazonだけとは言え、やはり本にした以上は、もともと私と関わりのない人にも読んでもらいたい。少なくとも、「このままこの会社にいていいんだろうか?」と現在の職や会社に不安や悩みがある方、なぜか一歩を踏み出せない方には届けたい。

その点からすれば、本を届けられる人が、私自身(と知人)の繋がりを超えない、というのはかなり残念ではある。

この点、ギャラクシーブックスには頑張ってもらいたい。

5.どういう人なら、ギャラクシーブックスで出版したらいいのか?

ギャラクシーブックスでの出版=夢の印税生活となる可能性は極めて低い。

費用を印税で回収できる可能性もかなり低い。

なぜならば、費用回収には何千冊も本が売れる必要があり、そのためには何千人もの人に買ってもらう必要があるから。そしてその基礎となりうる販売促進力をギャラクシーブックスは持っていない(と現時点では思われる)から。

したがって、自らの努力なしでの顧客拡大や収入拡大は期待しづらい。
ゆえに、借金してまでギャラクシーブックスで出版するのは論外。

なら、「どういう人ならギャラクシーブックスで出版したらいいの?」というと。

①一冊の本を書き上げたいが、自分一人では書き上げられないため、誰かの助言が欲しい人
→自分一人で(あるいは知人に協力してもらえば)一冊の本を書き上げられる人ならいらない。

②どうしても紙の本をつくりたい人(加えて、印刷もしてもらいたい人)
→電子書籍でいいなら、電子出版にすればいいし、販売価格も安くできる。
→紙の本でも、自分で印刷して製本するなら、それでOK。

③販売チャネルはamazonだけでいいと割り切れる人
→書店に本を並べたい、多様なチャネルで販売したいなら、要望に合わない。

④もともと個別相談等でかかっている相手と自分の費用や時間を削減したい人
→売上拡大、顧客拡大以前に、コスト削減、時間削減効果が見込めるなら悪くない。

⑤上記の要望を満たすためだけに、数十万円のお金を払ってもいいと考える人
→当然ながら、相応のお金を払えない、払いたくないなら止めるべき。
→まして印税で費用を回収しよう、あわよくば儲けようと考えるのは論外。

以上より、結論。

ギャラクシーブックスで出版したらいいと思える人は、

「赤字覚悟で出版の実績を作りたい、紙ベースで出版をしたい」

という人だ。

まさに、私が最初に相談した知人の言葉が的を射ていると言える。

もっとシンプルに言えば、

「金にモノを言わせて一冊の本を書き上げたい!」

と思える人だ。

(こう書いちゃうとなんですが、僕もつまりはそういう人だった、ということなんでしょうね…)

6.最後に

しつこいようだが、冒頭の言葉を再掲してこのブログを終わりにしたいと思う。

私個人としてはギャラクシーブックスを誹謗中傷するつもりはありませんが、「借金してまで本を出版しちゃう人もいるらしい」という現状を踏まえ、私の実体験と客観的事実にもとづき、注意喚起をしておきたいと思います。

出版の意思決定にあたっては、必ず自己責任と自己資金で行なってください。くれぐれも「夢の印税生活!」なんて甘い気持ちで意思決定しませんように。

また、私の本を買う、買わないも、必ず自己責任と自己資金でお願いします。決して借金してまで私の本を買っちゃダメですよ!

追伸:
こちらの記事も、なかなか公正な記事だと思いますので、ご参照ください。
『ギャラクシーブックスの出版オファー(執筆依頼)についての見解

“右手にビジョン、左手に電卓を”

TAKU &sing

自由と不自由とルール

不自由だと自由を求める。

自由だと不自由を求める。

完全なる自由はないし、完全なる不自由はない。

自由も不自由もすべては程度の問題である。

そして主観の問題である。

例えば、「学校には、自由がない」と言ったとする。だが、学校には自由時間がある。学校は不自由だが、その中には自由もある。

一方で、「この学校では、何を学ぶかを自由に決めていい」と言ったとする。はたして、人は何を学ぶべきかを自由に決めることができるのだろうか?

もっと具体的に言えば、例えば図画工作の時間。先生が「好きな絵を自由に描いてみましょう!」と言ったとする。はたして、何のとっかかりもない状態で、絵を描き始められる人は何人くらいいるのだろうか?

花の絵を描きましょう。このチューリップの絵を描きましょう。絵の具で描きましょう。写実的に描きましょう。

そんな一定の前提条件というか、ルールみたいなものがないと、描けないのかもしれない。

少なくとも私は、一定のルールがないと悩んでしまうだろう。

問題は、一定のルールを誰が決めるのか?だ。

先生が決めちゃうのか。生徒が自分で決めるのか。

他人が決めたルールである限り、不自由を感じてしまうだろう。

なんで、いま花の絵を描かなあかんねん。なんで、チューリップやねん。ダサいわ。オレはパンジーをクレヨンで描きたいねん。抽象的に描きたいねん。

みたいに。

不自由を強いられると、自由を求める。

じゃあ、「なんでもいいから、自分が好きな絵を自由に描いてみましょう」と言われると、それも嫌になる。

なんでもいいって何やねん。そんなんなんも描かれへんは。何を描くかぐらいは決めてくれや。と言いたくなる。

自由を与えられると、不自由を求める。

結局のところ、完全なる自由もなければ、完全なる不自由もない。

自由と不自由を決めるのは、ルールである。

大切なことは、そのルールを自分で決めることである。

少なくとも自分が納得してルールを受け入れることである。

日々、”自分でルールを決める訓練”が必要なんだと思う。

TAKU &sing

応援したくなる人

昨日、甲子園に行った。第90回選抜高校野球の決勝戦。大阪桐蔭対智辯和歌山。

笑顔で、重い物を背負って、汗をかいている人を応援したくなる、ということを知った。

私は、まったく野球に興味がない。子供たちが「甲子園に行きたい」と言うので一念発起して出かけた。それでも甲子園の空気にひたるとワクワクした。スタジアムには魔法がかかっているのだろう。

大きな大きなスタジアムで、小さな小さな人間があらん限りの力を発揮して頑張る。人間のちっぽけさと偉大さを感じる。

そして、私は思う。いつかスタジアムでコンサートを開きたいな、と。高校野球を観ていても、どうしても考えてしまうのは歌のことだ。

高校球児のみなさん、ごめんなさい。でも、いい試合でした。感動しました。

野球は筋書きのないドラマ。とは、いい表現だな、と思う。

試合を結果から見るのではなく、ライブで観ると面白い。すごく感情移入しちゃう。

「うわっ、アウトになった」「もうツーアウトか」「頑張れ!」「うわーっ、打ち上げた…」「次行こ、次!」

一応、大阪桐蔭を応援していたのだが、いつのまにか智辯和歌山を応援していたりする。

現在進行形で、頑張る人を応援するのは、面白い。

さて、やたら前置きが長くなったが、本題に入る。

正直に言う。私が昨日、一番気になって応援していたのは、ビールの売り子さんたちだ。

1人だけ男性もいたが、大部分は女性。ピンクの帽子とユニフォームを着ていた。私が座っていた3塁側内野スタンド席の周りで活動していたのは、だいたい10人くらいだろうか。

すごく重そうなビールサーバーを背負って、スタンドの階段を上ったり降りたりしている。チューハイを売っている人は、肩からチューハイの缶が入った箱をぶら下げて、やはりスタンドの階段を上ったり降りたりしている。チューハイをカップに注ぐ時にはしゃがみ、そしてまた立ち上がる。すごい重労働。それを2時間近く続けていた。

でも、みんな笑顔。すごくいい笑顔。「私は、あなたのために、ビールを注ぎますよ」と語りかけてくるような笑顔。

昨日はすごーく暑かった。座っているだけで暑かった。鼻もほっぺたもヒリヒリするくらい暑かった。

彼女(彼)たちも、きっと暑かっただろう。彼女たちの方が、もっと暑かったはずだ。私は座っている。彼女たちは歩き回っている。その証拠に、彼女たちは、明らかに汗をかいている。

でもね。それでも笑顔なんだ。

しかも、ビールサーバーやチューハイの缶が入った箱を重そうに持ったりはしない。「もう、めっちゃ肩が痛いんですけど」みたいな仕草すらしない。

あくまでも笑顔で、スタンドに座っている観客を見て(決して試合は観ていない)、もくもくと「ビールどうですかぁ?」と言いながら歩き続けている。

なんか、素敵だなぁ。応援したいなぁ、という気分になった。

ビールの売り子さんが、私の座っている席の横を通るたびに、「あー、ビール飲もうかなぁ」「チューハイ飲もうかなぁ」と思わされた。すごい力。

昨日は家族がいる手前、2杯しか飲みませんでしたが、もっと応援したい気持ちで一杯でした。

以上、甲子園まで行って、いったい何を応援しとんねん!という話でした。

笑顔で、重い物を背負って、汗をかいている人って、なぜか応援したくなりません?

TAKU &sing

本を出すことの怖さについて

本を出版した。書店には売っていない。amazonで買える。amazonで注文したら印刷されて本になって届く。プリント・オン・デマンド(POD)という出版形態である。

4月2日にfacebookで告知した。友達から「amazonで注文したよ」「4月4日に届くよ」と教えてもらった。

今日がその4月4日だ。私が書いた本が人の手に渡り、読まれる。

正直、怖い…

「なんと言われるのだろうか?」という恐怖がある。

“自分が思っていることを本にして世に出す”

ということが、ここまで怖いものだとは思っていなかった。

私は、つねに自分に正直でありたい、と思っている。

自分の思いや考えを素直に表現したい、と思っている。

でも、それがなかなかできない。

いつもどこかに、自分の思いや考えとは異なるものが混じり込んでしまう。

それは、見栄とか打算とか言われるようなもの。

「こう言った方がカッコいいだろう」とか、「こう言っておいた方が無難だろう」みたいなもの。

でも一方で、「そんなもんいるか?」と問う自分がいる。

「お前が自分の思いや考えを素直に表現せずして、いったい誰がお前の人生を生きるんだ?」と問う自分がいる。

だが、そうは言ってもなかなかできない。

自分の思いや考えを素直に表現すること。

ただそれだけのことが、なかなかできない。

人が私を見てどう思うのかはわからないが、少なくとも私は、”自分の思いや考えを素直に表現することができていない”と感じている。

なかなかできないからこそ、私は、自分の思いや考えを素直に表現することに、大きな憧れを抱いている。

だから、本を書いて、出版したのかもしれない。

だから、シンガーソングライターになりたい、と熱望しているのかもしれない。

“自分の思いや考えを素直に表現したい”

ただただそれだけのことを、実現したくて、実現したくて、恋い焦がれているのかもしれない。

私は、「できない」とか「難しい」という言葉を意識的に使わないようにしている。

思考が停止してしまうからだ。

自分の可能性を自分で閉じてしまうからだ。

だから、「できない」とか「難しい」という言葉を使いそうになってしまった時には、「容易ではない」とか「難易度が高い」とか「かなりの工夫が必要」などという言葉を使うようにしている。

「どうしたらできるだろうか?」という可能性をつねに開いておくようにしている。

しかしながら、私は。

自分の思いや考えを素直に表現することは、なかなか”できない”

と先に書いた。

「お前、できない、って何や!」

「お前、そんなんでいいんか!」

「お前は、他人の受け売りで生きるんか!」

「お前は、自分を生きる気がないんか!」

と問う自分がいる。

だから、私は本を書いた。そして本を出版した。

わりと、自分の思いや考えを素直に書けたのではないかと思っている。

だが、それでも見栄や打算がちょろちょろと混じっている。

本に書いたことが、「どう読まれるのだろうか?」「どう伝わるのだろうか?」という不安がある。

いやー、なんなんでしょうね。この不安。この怖さ。

これじゃ、シンガーソングライターになんてなれないし、まして武道館単独ライブなんて実現できっこないやん。

いやー、この恐怖。克服せねばならんですね。

ま、そんなかんなで、本を出しました。そして怖がっています。

でも、せっかく書いたんだから、読んでもらいたい、という気持ちもある。

いやー、人の気持ちって、なかなか複雑ですね。

ってことで、もしよろしければ、私が書いた本。読んでいただけると幸いです。

特に、こんな人に向けて書きました。

“「このままこの会社にいていいんだろうか?」現在の職や会社に不安や悩みがある方、なぜか一歩を踏み出せない方”

そして、その人がこんな風に感じてもらえる本にしたい、と思って書きました。

“現在の仕事を捉え直し、未来への一歩を踏み出す勇気を与えてくれる一冊”

正直、この思いをうまく実現できたのかどうかはわかりません。

でも、そうありたい、と思って書きました。

もし上記のような不安や悩みをお持ちの方が身近にいらっしゃいましたら、ぜひご紹介いただけますと幸いです。

今回、本を出してみたことでわかったことがあります。

怖い、こわい…

と感じている先にこそ、自分がほんとうに言いたいこと、やりたいことがある、ということ。

自分の可能性に挑戦したい。でも怖い…

そんな”前向きな恐怖”を克服するためのお手伝いができれば幸いです。

僕もまだまだ何千、何万という恐怖を克服していく必要があります。

それでも前に進みたい!

という方と一緒に、一つ一つの恐怖を克服していけたら、めちゃくちゃ楽しいだろうなぁ〜、と思っています。

迷った時は、怖い方の道を進め!

TAKU &sing

===

追伸:本のタイトルとURL

『ジブンノシゴトのつくり方 〜好きを諦めない働き方』

https://amzn.to/2GTfCik

毎日が元旦だったら

毎日が元旦!

そんな風に思えて毎日を生きられたら、どんなに楽しいだろうか。

私は、いつも元旦には初日の出を拝み、今年の抱負を動画に撮っている。そしてyoutubeにアップしている。私はとても目立ちたがり屋さんなのだ。

その時の気分はこんな感じだ。

昨年一年間、思い通りにできたこともあれば、できなかったこともあったなぁー

どちらかと言えば、できなかったことの方が多かったっけなぁ…

でも、今日から気分一新!

心新たに、今年一年、がんばるぞ!

ってな感じ。

過去を反省しつつも、気持ちを前に向け、未来への希望を抱負として掲げ、今日の新たな一歩を踏み出す!

なかなかいい気分になる。

だけど、1月も2日、3日と日が経っていくと、だんだんその気分も平常モードに変わっていく。

あの時にあった高揚感がなくなり、”日常”の感覚になっていく。

そんな時、ふと思う。

元旦にいた自分と、いまの自分。どっちがホンモノなんだろうか?と。

答えは、どちらもホンモノなのだろう。

未来に希望を持って意気揚々と前進する自分

日常にまぎれて日々淡々と居心地よく過ごす自分

どちらも心地よい。

では、どちらを大切にするのか?

私は、こう考えたいと思っている。

毎日が元旦なんだ!と。

日々是新

私の好きな松下幸之助さんの言葉だ。

毎日が元旦なんだ!と思えれば、

昨日を反省しつつも、気持ちを前に向け、明日への希望を抱負として掲げ、今日の新たな一歩を踏み出す!

ことができる。

要は、気持ちの持ち方次第。

ただそれだけのこと。

ただそれだけのことを実現するために何をするか?

毎日修造カレンダーならず、毎日元旦カレンダーをつくる。

毎日、年賀状を書く。

毎朝、日の出を拝む。

毎朝、(日があけまして)おめでとうと言う。

毎日、お年玉をあげる。

毎朝、家族で集まってご飯を食べる。

やれることは沢山ある。

毎日が元旦!

でも、いきなりそこまで一気には思えない。思い込めない。

ならば、少しずつ進めばいい。

毎月1日が元旦!

これなら月に1回から始められる。

月に1回くらいならできるかも。

それができるようになったら、

毎週月曜日は元旦!

を始めたらいい。

もちろん、始まりの日は1日じゃなくても、月曜日じゃなくてもいい。

毎月8日(すえひろがり!)でもいいし、毎月15日(私の誕生日の日にち!)」でもいい。

毎週火曜日(なんか燃えて来そう!)でもいいし、毎週日曜日(現実的に落ち着いた時間を取れる!)でもいい。

定期的に、元旦を迎える。

自分を振り返って明日への活力を得る。

そんな日を、毎月、毎週でも持てたらいいんじゃない?

ってなことで、私は月次で読書会を開催し、だいたい隔週で歌とピアノのレッスンを受けている。

そして毎朝ブログを書いている。

毎日が元旦!

日々是新

無理せず自然とそんな風に思える自分でありたいものである。

追伸:

こちらは、私が今年の元旦に撮った動画「新年のご挨拶2018」です。

いま聴くと、ぼやーっとした声で、ぼやーっとしたことを言っているなぁーと思います。まだDOHIXだし。

ま、それもこれも私だってことで。

2018年の元旦は元旦!

今日は4月3日!

私の人生において、2018年4月3日が訪れる日は今日しかない!

日々是新

TAKU &sing

自分で決めて、自分で動いて、自分で結果を出す

自分で決めて、自分で動いて、自分で結果を出す。

それがリーダーである。生きている人間である。

他人に決めてもらって、他人に動いてもらって、他人に結果を出してもらう。

それはリーダーではない。生きる屍である。

たとえベッドに寝たきりになったとしても。

必死に自分で決めて、必死に自分で動いて、必死に結果を出していたら、それはリーダーである。

ご飯を食べて必要十分な栄養を摂取する。

トイレまで歩いて行って便器の中に用を足す。

酸素を取り込み、口から声を出して想いを伝える。

ふだん私が何気なくやっているようなことであっても、ベッドに寝たきりになった人にとっては、なかなかできないようなことがある。

それでも、その人は必死にがんばっている。

その人にはその人なりの現状があり、その人なりの理想があり、その人なりの頑張りがあるのだ。

自分で決めて、自分で動いて、自分で結果を出す。

昔から、心のどこかで母親ってエライなぁ、と思っていた。

毎日毎日。誰に言われるでもなく。家族のために、ご飯をつくり、洗濯をし、掃除をし、買い物をする。誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝る。

家族みんなが、お腹が空いて疲れてしまわないように。服が臭くて嫌われないように。 部屋が汚くて病気にならないように。必要なものが必要な時になくて困らないように。

自分で決めて、自分で動いて、自分で結果を出す。

僕は、果たして、自分で決めて、自分で動いて、自分で結果を出しているのだろうか?

私なりの現状から、私なりの理想に向けて、私なりに頑張っていると言い切れるのだろうか?

子どもたちの父親として。

妻の夫として。

父と母の息子として。

地域社会の一員として。

公認会計士の一人として。

そして何より自分自身として。

自分で決めて、自分で動いて、自分で結果を出す。

いつからでも、どこからでも、どんな状態であったとしても、新しい理想を掲げ、現状に安住せず、いま一歩前に進む。

マジでツライ!

と思った時こそ、踏ん張り時。自分の限界を超えるチャンス。

たった1mmでいいから、境界線を超える一歩を踏み出す。

自分で決めて、自分で動いて、自分で結果を出す。

そんな人でありたいと思います。

そして、そんな人でありたい人のための学びの場をつくります。

アンドシングスクールを開講します。

自分で決めて、自分で動いて、自分で結果を出したい人のための学びの場。

自分で決めて、自分で動いて、自分で結果を出している人を講師にお招きします。

講師には、多種多様な職業の方々をお招きしていきたいと考えています。もちろん、人種、年齢、性別などは一切問いません。

アンドシングスクールでは、自分で決めて、自分で動いて、自分で結果を出している方であれば、誰もが先生です。

4月中に開講します。

講座の内容は、後日改めてお知らせします。

ともに学んでくれる人も募集します。

自分で決めて、自分で動いて、自分で結果を出したい!

そう思われている方は、誰もがアンドシングスクールの生徒です。

乞うご期待♪

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仕事の醍醐味、生きる醍醐味とは?

いま「生きてる!」って感じていますか?

死んでいないからと言って、

「オレは生きてるぞーーーーっ!」

って叫べるとは限らない。

僕は時々、叫びたくなる。

水平線の見える海に向かって。

山の上から地平線に向かって。

身体全身で、腹の底から、すべてを振り絞って。

「うおーーーーーーーっ!」

と叫びたくなる。

魂の叫び。

「うおーーーーーーーっ!」

と叫びたくなる。

だから、僕は歌を歌う。

だけど、いまだにその歌は魂からの叫びにはなっていない。

中途半端なのだ。

仕事でも同じだ。

仕事を完遂して、

「うおーーーーーーーっ!」

「オレはやったったぞーーーーっ!」

と叫べたことはない。

どうなんだろう?

見渡す限り一面の畑を耕し終わったら、真っ赤な夕日に向かって、

「うおーーーーーーーっ!」

と叫べるのだろうか?

それとも、見渡す限り一面の田んぼに、黄金の稲を実らせたら、真っ赤な夕日に向かって、

「うおーーーーーーーっ!」

と叫べるのだろうか?

僕が子どもの頃。幼稚園の頃。小学生の頃。高校生の頃。(なぜか中学生の頃の記憶はない)

地平線に沈んでいこうとする、でっかいでっかい、真っ赤な真っ赤な夕日を見ながら、

「うおーーーーーーーっ!」

と叫んでいたような気がする。

実際に叫んだかどうかはわからないけど、そんな気分だったことは間違いない。

「うおーっ、今日一日生きたぞーっ!」

というような満足感。充実感。

その日一日を思う存分に生きたという感覚を手にしていたのだろう。

私は、これまでに仕事でそんな感覚を手にしたことがあったのだろうか?

仕事を完遂した満足感。充実感。

「オレはやったったぞーーーっ!」

と叫びたくなるような高揚感。

仕事の醍醐味をほんとうに感じたことがあるのだろうか?

おそらく、どんな仕事にもその仕事なりの醍醐味があるのだろう。

むかーしむかし。小学生の頃。ばあちゃん家の酒屋の手伝いをして、妙な充実感を味わっていた。そのタイミングは、店のシャッターの開け閉めと関わっていた。

店の開店前。まだ店内は薄暗い。シャッターを手で少し引っ張りあげる。地面とシャッターとの隙間から、強い光が差し込んでくる。日の光を浴びているシャッターは熱い。そこから一気にシャッターを押し上げる。その時、店の世界と外の世界が繋がる。「開店したよ!」と道行く人たちに宣伝したくなるような気分になった。

閉店する時は、それとはまた逆の感覚。シャッターを閉める時、「今日一日、ありがとうございました!」という気分になる。店内では、その日の売上の精算をしている。先端がカギ状になっている長い棒を持ってシャッターをグッと引き下げ、ガラガラガラっとシャッターを閉めていく。シャッターが完全に閉まると、また店の世界は外の世界と区切られる。「今日も一日お疲れ様でした」「いやー、今日もがんばったなぁー」という気分になる。

実際には、小学生にやれることは少なかったはずだから、大した仕事はしていなかったはず。だけど、店の一員として、自分にできることは一緒懸命やっていたのだろうし、何よりお客さんに喜んでもらいたい、と真剣に思っていたような気がする。

なんせ、半人前どころか、0.1人前にも満たないのだ。やれることはほとんどない。だからこそ、一生懸命に働いていた。いや、たぶん一生懸命に働くくらいしかやれることはなかったのだろう。だからこそ、シャッターを開けるとともに気合が入り、シャッターを閉めるとともに充実感を味わったのだろう。無我夢中で仕事をしていたのだろう。

仕事の醍醐味

どんな時に感じますか?

生きてる!

ってどんな時に感じますか?

どんな時に、

「うおーーーーーーーっ!」

「オレはやったったぞーーーっ!」

「私はやったったぞーーーっ!」

って感じますか?

44歳にもなっていまさらなんですけど。

子どもみたいなことを聞いてもいいですか?

仕事の醍醐味、生きる醍醐味って、何ですか?

会社名。&singでなく、&shoutでも良かったかも。なんて。

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