知識偏重教育に物申す

「どんだけもったいぶるねん!」

これまでの教育に対して私が抱いてきた感情だ。

なお、『これまでの教育』とは、厳密に言えば、「私が実際に受けてきた教育」であり、「私が世の中の教育とはすべてこんなもんだろうと思っている教育」のことを指す。

したがって、私が『これまでの教育』と呼んでいるものは、実際には日本の教育全般を説明するものではない。

とは言え、その話をしていると今日のブログを書き終えることはできないので、ざくっと定義だけしておく。

ここで私が言う『これまでの教育』とは、「知識を与えるだけで何の実践も伴わず、ゆえに何の作品をも生み出さない教育」である。

ものすごく単純化して言う。

私は、幼稚園から大学まで学校に通ったが、朝昼晩のご飯のつくり方は、両親とバイト先の人たちから学んだ。

つまり、いくら学校に通っても、毎日のご飯を自分でつくれるようにはならなかった、ということだ。

何か不思議な気がする。

今日は卵焼きをつくってみよう!

今日はご飯を炊いてみよう!

今日はおにぎりを握ってみよう!

今日は味噌汁をつくってみよう!

今日はリンゴの皮を剥いてみよう!

これを毎日毎日繰り返していたら、誰もが自ずと毎日のご飯をつくれるようになるのではないだろうか?

少なくとも小学校を卒業するまでには、かなり多くの料理レパートリーを持てるようになっているのではないだろうか?

そうなれば、中学校以降は、自分で弁当をつくって持っていくこともできる。時々、家族にご飯をつくってあげることもできる。友達にご飯をご馳走してあげることもできる。中には、中学生時代から、ランチ会を開催する人が出てくるかもしれない。あるいは、自分でおにぎり屋さんを開く人が出てくるかもしれない。店舗を持てなくても、宅配したり、弁当を売ればいい。

もちろん、毎日のご飯を自分でつくれるようになることだけが、教育の目標ではないだろう。

だが、毎日のご飯を自分でつくれるようになることは、人として毎日を生き抜く上でかなり基本的な能力なのではないだろうか?

人として毎日を生き抜く上で基本的な能力すら身につかない教育。

それでいて、やたら長きにわたって受けされる教育。

「そんなもんいるか?」と思う。

もちろん、素晴らしい教育の機会が開かれていること自体は喜ぶべきことだ。

だが、その教育を受けることを長年にわたり強制される必要はないのではないだろうか?

知識を与えるだけで何の実践も伴わず、ゆえに何の作品をも生み出さない教育。

「いつまで知識だけ与えるねん!」

「どんだけ頭でっかちにすんねん!」

「九九が言えても、分数のかけ算ができても、家族の人数分のご飯をつくられへんねやったら何の役に立つねん!」

なーんてことを思う。

これ、別に料理に限った話ではない。

何年も英語を習ってきたのに、英語で外国人と話せない。

ずっと国語を習ってきたのに、想いを伝える手紙すら書けない。

たくさんの算数の公式を覚えてきたけど、小屋一つすら立てられない。

「ほんま、長年、何やっててん?」と思う。

ってことで、私はこれまでの教育に対して思う訳です。

「どんだけもったいぶるねん!」

「はよ、自分でやらせろやー」

「はよ、自分の作品をつくらせてくれやー」

と。

ってことで、そんな想いを形にすべく、シンガーソングライター教室を開いている訳です。

そりゃ、知識も大切ですよ。

でも、知識なんて後で埋めて行けばいいでしょ。

大切なことは、やってみること。

そして、「もっとやってみたい!」と思えるものを見つけること。

まずはそこからだし、そこがないと何も始まらない。

絶対に諦めたくない「自分の好き」すら手に入れることができない。

それがないままでいくら膨大な知識を得ても、何の使い道もないと思うんですよね。

ま、そんな訳で、細々ではありますが、アンドシングスクールをやっています。

よろしければ、今週土曜日の講座。

覗きに来て頂けると嬉しいです。

どっひー &sing

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