いつまでインプットし続けるのか?

先生が生徒に教える。

先生は知っている人。

生徒は知らない人。

知っている人が知らない人に教える。

それが、小中高大の16年以上にわたり、私が受けてきた教育であった。

しかし、知識がインターネット上に溢れている現代において、知識を知るだけなら、先生に教えてもらう必要はない。

もはや知識の伝達に価値はない。

一方で、知識を使って実際に「やってみること」や「結果を出すこと」には、ハードルがある。

クックパッドでパエリアのレシピを検索できても、実際に「パエリアをつくってみること」や「おいしいパエリアを食べてもらうこと」には、ハードルがある。

どれだけ沢山の音楽を聞いても、音楽理論を覚えても、実際に「音楽をつくってみること」や「感動する音楽を届けること」には、ハードルがある。

学校で覚える知識の大部分も同様。覚えた知識を使って、実際に「やってみること」や「結果を出すこと」には、ハードルがある。

飼っているロバの体重を測りたい。どうやって体重を測るか?

山の斜面に小屋を建てたい。どうやって床が平行な小屋を建てるか?

どれだけ立派な知識を沢山インプットしたとしても、アウトプットできないのであれば、すべては無用の長物。

逆に、人の役に立つものや人に喜んでもらえるものをアウトプットできるのであれば、たとえ知識量が少ないとしても何の問題もない。

頭でっかちになるくらいなら、たった一つでいいから手仕事ができる方がいい。

インプットが足りないから、アウトプットできないのではない。

アウトプットしようとしないから、インプットが足りないままなのだ。

「いつかやってみたいこと」があるのなら、いまからやってみませんか?

やってみたら、足りないものがわかる。

足りないものがわかれば、それを埋めればいい。

「私にはできない」と思えば、できない言い訳を集めてくる。才能がない、時間がない、お金がない、などなど。

「私にもできる!」と思えば、できる言い訳を集めてくる。ちょっとしたものなら作れる、毎日1-2時間なら時間を取れる、1000円-2000円くらいなら自由になるお金はある、などなど。

「私にはできない」の一言で、自分の可能性の外堀を埋めていくのはもったいない。

「私にはできる!」の一言で、自分の可能性の扉を開いていく方が断然いい。

「やってみること」や「結果を出すこと」へのハードルを取り除き、「私にはできる!」の輪を広げていく。

教える人と学ぶ人。それぞれがはじめの一歩を踏み出すきっかけを得られる。

そこに行けば、どんどんアウトプットできるようになっていく。

どんどん必要なインプットができるようになっていく。

そして、どんどん成果が上がっていく。お金もしっかりといただけるようになる。

アンドシングスクールを、そんな学びの場にしていきたい、と考えています。

もうインプットだけをし続けるのは、終わりにしていいんじゃないでしょうか?

TAKU &sing

口先より、実行動

口先で立派なことを言うのではなく、実際に行動している人は素晴らしい。

そこに困っている人がいる。

なんとかしてあげたいと思う。

理屈じゃないのよ、理屈じゃ。

理屈なんてわからなくてもいいから、いい結果がでるように、やってみる。

試行錯誤してみたら、いい結果も出た!

でも、必ずいい結果が出るわけでもない。

まだ十分でない。

ある人にとっては、いい結果かもしれないが、この人にとっては、まだいい結果が出ていない。

この人は、まだ困っている。

この人にとって、いい結果が出るようにするにはどうしたらいいだろうか?

与える仕事を変えてみたらどうだろうか?

仕事で組む相手を変えてみたらどうだろうか?

仕事の結果に対する声のかけ方を変えてみたらどうだろうか?

もっとやれることがあるはずだ。

どうしたらいいだろう?

こうしてみたらどうだろう?

文句も言わず、偉そうなことも言わず、とにかくやるべきことをやっている人がいる。

頭が上がらない。

口先よりも、実行動。

「はよ、やれやオレ!」

っとイラつき焦りつつ…

人のために、人を応援するために、僕にできることは何だろう?

とつねに考えつつ、目の前にいる人のために、自分ができることを一つ一つやってみる。

日々その積み重ねあるのみ。

TAKU &sing

誰にも相談できない悩み

「私、めちゃくちゃ困っているのに、誰もそれをわかってくれない…」

なんてこと、ありませんか?

子どものこと。親のこと。仕事のこと。

これまで、何人かの人に相談してきた。

でも、みんな真剣に取り合ってくれない。

「あー、そういうこと、よくあることです。そんなに気にする必要はないと思いますよ。しばらく様子を見てみましょう。また何かあったら、いつでも相談してくださいね」

と言われる。

まるで、「とりあえず1週間分のお薬を出しておきますね。それで様子を見て、また何かあれば来てください」とお医者さんに言われるような対応。

「えっ?すでに”何かあった”から相談に来てるんですけど…」

「問題が起こっているからこそ、相談してるんですけど…」

「また”何かあったら”と、あなたは言うけど、問題はすでに起こっているです…」

「私は、まさに”いま”問題を抱えているんです…」

「じゃあ、いったい私は誰に相談したらいいんですか…」

“誰にも相談できない悩み”

そういう悩みがある、ということを今更ながら知りました。

これまで、講師、会計士、経営コンサルタントとして、沢山の人たちの相談に乗って来ました。

勉強に関すること。キャリアに関すること。仕事に関すること。経営に関すること。もちろん、会計に関すること。

でも、気づいていませんでした。”誰にも相談できずに悩み続けている”という状態がある、ということに。お恥ずかしい限りです。

  • 解決したい問題があるのに、誰も真剣に取り合ってくれない
  • 問題解決に協力してくれる人が見つからない
  • 誰もが人ごとだと思っている
  • これ、誰に相談すればいいのかがわからない
  • そもそも自分でも何が問題かすらわからなくなっている

もし、そんな風に思っていることがあれば、一度、私に相談してください。

仕事のこと、会社のこと、キャリアのこと、家族のこと。もちろん、会計やお金に関わること。

私がその問題を直接解決できるかどうかはわかりませんが、その問題を共有することならできます。

その問題を解決するために、どうしたらいいのかを一緒に考えることならできます。

問題解決に必要なチームを形成するためのお手伝いならできます。

もちろん、私に直接解決できる問題もあるかもしれません。

非常事態がどうかはわからないけれど、”通常ではない状態”が続いており、かつ、その状態が好転しそうな見通しが立たない方。

SOSを上げてください。

一人で抱え込んでいると、自分がつらくなるだけですから。

責任感の強い人であればあるほど、苦しくなると思っています。

お問い合わせはコチラから。

TAKU &sing

何があっても、食っていける力を身につける

昨日はネガティブなブログを書いた。

日本の社会と経済の行く末についての猛烈な危機感

そこで私はこう言った。

「会社を去る人、これまでに身につけてきた経験や技能を直接は活かせない仕事につく人も出てくる」

「誰か偉い人が解決してくれるのではなく、一人一人が自立し、自ら考え、実践しながらしか答えの見つからない課題である。」と。

だからこそ、私は、次世代リーダー輩出のための新たな学校(学びの場)をつくろうと決意したのだ(と改めて思い出した)。

私たちの思い』をその気持ちを込めて書いたのだ(と改めて思い出した)。

「リーダーとは、他の誰でもない。

あなた自身であり、わたし自身であり、わたしたち自身なのです」と。

これからの時代。これからの10年、20年。日本の社会も経済も大きく変化していく。いや、すでにもうその変化は身近なところで起こっている。

例えば、こんなことが起こっている。

父が要介護状態になった。母がその面倒を見ている。両親は地方に住んでいる。一方、私は東京で働いている。結婚して子どもも持って暮らしている。はてさて、東京を離れ、地元に戻るか。だが、地元には仕事がない。あるいは、東京ほどの給料をもらえる仕事がない。でも、親のことは心配だ。父のことは母に任せるとしても、母が要介護状態になったら、どうするのか。私が面倒を見るしかないのだが、地元に戻って、どう生活と仕事を両立させるのか?時間的にもお金的にも肉体的にも精神的にも。一方で、配偶者のこと、配偶者の両親のこともある。もちろん、自分たちの子どもの教育や就職のこともある。そもそも子育て自体が大変だ。手当をもらっても子どもを預ける場所がない。塾や習い事に通わすのにもお金がかかる。共働きを続けるのも一苦労だ。

自分と配偶者とお互いの両親と自分たちの子どもたち。たったこれだけの人間関係、家族関係のことですら、頭を悩ましかねない状態。

その一方で、会社に勤めていれば一生安泰とは言えない。会社に残れるか否かが自分の努力次第であればまだいいが、必ずしもそうとは言えない。会社は人手不足の解消や固定費の削減のために、AI、IoT、ロボットを活用し始める。正社員以外の雇用形態や在宅勤務を模索し始める。いつ、会社を辞めることになるかはわからない。いつ、正社員でなくなるかもわからない。

ただ、これはこれでチャンスでもある。

自分で生活と仕事を切り開く力があれば、場所に囚われずに、住み、働くことができるようになる。自分の生活と仕事を充実させることができるようになる。家族との関係をより良くしていけるようになる。複数の会社で働けるようになる。あるいは、プロジェクトベースで働けるようになる。副業を持ったり、複数の事業を持って働けるようになる。様々な場所で、様々な人たちと関わり合うことができるようになる。自分、家族、仕事仲間、友人、地域の人たちとの関係をより豊かにしていくことができる。

分散的で不安定。だがそれゆえに安定している生活と仕事を実現できるようになるかもしれない。

一本足で立つより、二本足。あるいは、三本足。

三本足が一番安定するらしい。グランドピアノも三本足で立っている。

一人一人が、自分で生活と仕事を切り開いく力を身につける。

何があっても、食っていける力を身につける。

これは、従来の学校では教えてくれなかったこと。

自分たちで実践しながら身につけていくしかないこと。

先人の実体験からヒントを得ながらも、”自分で”試行錯誤していかなければならないこと。

だからこそ私は、次世代リーダー輩出のための新たな学校(学びの場)を開く。

一人一人が、ジブンノシゴトをつくる。

それは、個人の、家族の生活と仕事にとって。地域の、日本の、世界の社会と経済にとって。そして、子どもたちの未来にとって。

真に意味のあることだと信じています。

また、「できるかどうかはわからないけど、やってみるべきことだ」と信じています。

You can do it!

I can do it!

We can do it!

TAKU &sing

日本の社会と経済の行く末についての猛烈な危機感

私は、あまりネガティブなことを言わないし、書かない。つねにそう意識している。

できない、とは言わないようにしている。

だから、基本的には、やりたいことはやればいい。やればできる。You can do it!と考えている。

だけど、私には大きな心配事がある。

それは、日本の社会と経済の行く末に関する心配事だ。

10年、20年後の生活と仕事に関する心配事とも言える。

そしてこの心配事にどう対処していくかが、私たち世代の老後はもとより、子どもたち世代の生き方や働き方に大きな影響を与えていくことだろう。

この心配事の解決については、私は「できないかもしれない…」という気持ちを持っている。

「テーマが大きすぎて、手に負えない」「どうしたらいいかがわからない」という感じ。

だけど、「何とかしないといけない」と思っている。

そして、「解決策なき問題提起はいけない」「小さくてもいいから、早く解決策らしきものを創り出さなければならない」と焦っている。

でも、昨日ふと思った。

「オレ、なんでこんなことを一人で抱え込んでるんだ?」と。

たぶん、私は自己過信が過ぎるのだろう。そして、スーパーマン願望があるのだろう。

「オレは、スーパーマンだ!」「みんなにできないことをやってやるぜ!」「どうだ、すごいだろう!」みたいな。

でも、全然イケてない。

いまだにまだ、なーんにもできていない。はじめてもいない。

情けない…

以下の文章。私が2015年2月6日に書いた文章の一部です。

ただただ私の危機感を書き綴っただけの雑文ですが、今日、陽の光に当てます。

わかりづらい文章だし、事実誤認も多々あろうかと思いますが、私がこの件に関して、猛烈な危機感を持っていることは確かです。

一方で、なーんの解決策もありません。

そして、いま、次世代リーダー輩出のための新たな学校づくりを目指しています。

ほんのちょっとだけでも共感していただける方がいらっしゃれば、とても嬉しいです。

「できないかもしれないけど、何とかしないといけない」と思っています。

===

(2015年2月6日の雑文より)

お金の使い方は表裏一体。

誤用すれば、夢を失わせ、仲間を失わせ、一人一人の勇気や自信を失わせることになる。

無数の企業、家計、政府が、悪意で繋がりあった場合には、悪の循環が広がっていく。

一人の限界を遥かに超えた被害を、沢山の共犯者たちと実現していくことになる。

また現代では、この繋がりは国を超えており、グローバル化している。

このように高度にネットワーク化された仕組みの中では、始点と終点がどこにあるかは非常にわかりづらい。

結果として、自分たちがやっていることが、無数の網の目に吸収されてシステム全体に何の影響も与えないことなのか、無数の網の目に波及し発展してシステム全体に何らかの影響を与えることなのかの判断が付きづらい。

このため、無自覚あるいは諦めによりシステム全体に悪影響を与えている場合もある。

これまでにプロジェクトで関わった数々のクライアント、私が勤めていた会社でも、お金を得ること、売上を上げることが目的化していた。

企業が存続・成長していくためには、人が必要である。そして給料を支払う必要がある。

だから、その原資を稼ぎ出す必要がある。

それは売上から仕入代を引いた、付加価値である。

そこで、企業は、売上を増やそうとするが、なかなか売れない。

一般論かつ日本に限って言えば、人口が増えず、お財布も増えない。

結果、市場規模は頭打ちになる。

多数の企業がいる上に、外資参入や輸入品により、競争が激しくなる。

消費税率も増加。これにより販売価格は低下。

一方で、仕入代は、上昇。

これは、エネルギーや原料の供給に制約があるのに対して、 需要は世界的に増加するため。

結果、売上から仕入代を引いた付加価値は減少。

給料を支払う余力も減少。

結果、残業を抑え、採用を抑え、退職は奨励する。

でも、いま以上に、 売上を上げ、仕入代を減らすための努力を止めることは許されない。

結果、従業員1人あたりの仕事量は増加。

忙しいけど、給料は増えない。

新しいことを試みないといけないけど、 失敗は許す余裕はない。

お金的にも、時間的にも。

従業員はますます疲弊し、鬱になる人が続出。

若手はそんな上司の姿を見て、管理職にはなりたくないと思う。

でも、新しくチャレンジングな仕事は任せてもらえないままに育っていくので、転職したり独立してやっていけるだけの経験もスキルも身に付かない。

そんな状態に陥った会社では、従業員、特に若手(20代~30代)は、その会社で夢を見ることもなく、仲間意識を感じることもなく、 外に飛び出す勇気も自信もないまま、悩んでいる。

あるいは諦めている。

企業は、一度、しっかりと屈まなければならない。

無駄な活動は止める、という生半可なことではなく、自分たちが絶対にやりたい、やらなきゃいけない活動以外はやらないという覚悟をしなければならない。

お金は中途半端に使ってはいけない。

惰性で流してはいけない。

それには強いリーダーシップが必要だし、血を流す覚悟もいる。

会社を去る人、これまでに身につけてきた経験や技能を直接は活かせない仕事につく人も出てくる。

対話には手間をかけなければならない。

何よりも、この会社は何のために存在するのか、それはなぜなのかをクリアに示し、語り尽す必要がある。

環境、社会の持続可能性も危機に瀕している。

空気・水・土地の汚染、森林の消滅、食糧資源の枯渇、生物種の絶滅、貧困、不十分な教育、児童労働、不衛生の蔓延、食糧配分の不均衡。

身近なところでは、地域の高齢化を支える人材の不足、教育の質低下、スーパーや商店街の廃業などなど。

この背景には、自己増殖し続ける経済の仕組みがある。

それを資本主義と呼ぶのかもしれないが、金本位制から変動相場制に移行し、お金が実物資産から切り離された瞬間から始まった可能性が高い。

この悪循環を好循環に変えるために何をするか?は、現代に生きる我々が解決しなければならない最大の課題である。

しかも誰か偉い人が解決してくれるのではなく、一人一人が自立し、自ら考え、実践しながらしか答えが見つからない課題である。

===

TAKU &sing

英語を学んで何の役に立つの?

You can see some Japanese people there.

この文章。なぜか44歳になったいまでも覚えている。おそらく中学校の英語の教科書に載っていた文章だったと思う。

なぜ、私はこの文章を覚えているのか?

ずはり、リズムがカッコ良かったから。

英語の先生が発音していたリズム感がカッコ良かった。それを真似して発音していたら、ノリノリになってきた。

You can see some Japanese people there!

ユーキャン シーサム ジャパニーズ ピーポー ゼア!

タンタン タンタン タタタン タンタタ タタ!

妙にリズムが身体に馴染んだ。

何度もこのフレーズを繰り返した。

ますますリズムが身体に馴染んだ。

この時に私は悟った。

「そうか!会話はリズムだ!」と。

結果、先の文章が妙に私の記憶に残っている。

もう一つ。先の文章を覚えている理由がある。

それは、記述が妙に客観的だったことだ。

You can see some Japanese people there.

“あなたは、あそこにいる日本人たちを見ることができます”

こんな言い方、日本語(の口語)では絶対にしない。

日本語だったらこんな感じだろうか。

“あそこに日本人がいるでしょ”

You can seeという言い方が、すごく相手目線で、客観的な印象を受けた。

I can seeでもなく、We can seeでもなく、You can see。

でも語り手は、I(わたし)。

“ほらご覧。あそこに、日本人がいるのが見えるでしょ?ね?見える?”

と語りかけるような優しさがある。

自分目線から相手目線への転換。

実際に英語を話す外国人がそういう気持ちを持っているのかどうかはわからないが、少なくとも私は「英語っていいなぁ」とその時に思った。

英語と言えば、もう一つ気に入った言い回しがある。

それは、

It makes me happy.

これも、おそらく中学校の英語の教科書に載っていた文章だったと思う。

この文章は、私にとって革命的な文章だった。

I am happy.

ではなく、

It makes me happy.

“私は幸せ!”

ではなく、

“それが私を幸せにしてくれている!”

という言い方。

おーっ!そうか!

私が幸せを感じているのは何かのおかげなのか!

と衝撃を受けた。

いわば、天動説が地動説になるくらいの革命!

自分目線から世界目線への転換。

それ以来、私は、

「何が私をそうさせているのだろうか?」

「何が彼(女)をそうさせているのだろうか?」

「何が人を動かしているのだろうか?」

「何が会社を動かしているのだろうか?」

という思考をするようになった。

I am angry!

と感じた時には、

What makes me angry?

と考える。

I am sad…

と感じ時には、

What makes me sad?

と考える。

もちろん、

I am happy!

と感じた時には、

What makes me happy?

と考える。

すると、ちょっとずつわかってくる。

自分は、何に向き合った時、誰と向き合った時に、怒るのか?悲しむのか?嬉しくなるのか?

ちょっとしたことだけど、それは自分の生活や仕事や趣味を豊かにするための大きな鍵になると思います。

以上、私が英語を学んで役に立ったことのご紹介でした。

英語自体を学ぶ上での参考には全く役に立たないとは思いますが、何かの参考になれば幸いです^ ^

いやー、英語ってホントいいもんですねー(淀川長治さん風)

What makes you happy?

TAKU &sing

ちゃんとちゃんとは後でいい!

「ちゃんとしないと」「ちゃんとしないと」と考え過ぎて、しんどくなることってありません?

私の今年のプライベートの目標は、自作の曲を3曲つくってライブをすること。

これを7年間続けて全21曲を完成させ、2025年に武道館ライブをすることが私の(当面の)夢だ。

今年初めに、この夢と目標を掲げ、「オレはついにシンガーソングライターになるぜ!」と意気込んでみたのもつかの間。

「今年中に3曲つくらなきゃ!」と思えば思うほど、曲が浮かばなくなってきた。まだ何ヶ月もある、と思っていたらもう4月。あと8ヶ月ちょっとしかない。

夢を具体的な目標に落として現実化しようとした途端、「ちゃんとやらなきゃ」病が発症した。

ってことで、昨日、シンガーソングライターである歌の先生に相談。

「曲をつくらなきゃ、つくらなきゃと思うと、曲が浮かばないんですよー」と私。

「いやー、やらなきゃ、やらなきゃって思ってたら、曲、できないですよ」

「作曲はノリです。ノリ!」と先生。

「そっか、ノリか…」

「そう言えば、この前、こんな歌詞がパッと頭に浮かびました。曲付きで。こんな感じのラップ。

“オレのゴロゴロ 取っ手がボロボロ”

(ノリノリで歌う私)

久しぶりにキャリーバックを使おうとしたら、取っ手がボロボロで(しかも、ゴム臭い…)。その時に、こんな歌詞が浮かんだんです。そしたら、ここから派生して、いろんな語呂合わせの歌詞が出てたんです。

“おなかゴロゴロ こころボロボロ”

“床にゴロゴロ なみだボロボロ”

(ふたたび、ノリノリで歌う私)

みたいな感じで。

(で、歌っているうちに気づく)

僕は、やっぱラップがやりたいんですよ!

韻を踏むの好きだし。歌詞がわからなくてもリズムだけあれば、みんなでノリノリになれるし」と私。

「おなかゴロゴロ…

いいですね!

タイトルは牛乳ですね!」と先生。

「おーっ、マジですか!牛乳!ダサ!

でもいいなぁ。肩肘張ってなくて。斬新!」と私。

ってな感じで、当初は自分でつくろう!と思っていなかった曲(メモすら取っていなかった曲)のイメージが大きく膨らみ、タイトルまで付いた。

「ちゃんとしないと、ちゃんとしないと」って思い過ぎると良くないんでしょうね。少なくとも”自分の”アイデアをカタチにする段階では。

自分のエナジーを放出したければ、まずノリで!

肩肘張らずに、自分の好きをカタチにしちゃう。

ダサくてもいいじゃない。

モノマネっぽくてもいいじゃない。

だって自分がまだちゃんとしてないんだから(少なくとも私はそう)。

だったら、まだちゃんとしてない自分の作品も素直に認めてあげようよ。

ダサくてモノマネっぽい自分も認めてあげようよ。

そこからなんじゃないかな。

守破離の「破」ができるようになるのは(あんま詳しく知らんけど…)。

赤ちゃんだって、文法を学ぶ前から、声を発し、言葉を話す。

だったら大人だって、テクニックを学ぶ前から、声を発し、言葉を話すことができるはず。

ちゃんとちゃんとは後でいい!

カッコつけなくていい!

まずはノリで!

何より自分に正直に!

TAKU &sing

どうやって食っていくのか?

私は、中学生の頃から、この言葉に悩まされてきた。

「それで、どうやって食べていくの?」

義務教育は中学校までである。高校や大学は自分の意思で行くところである。つまり、高校や大学に進学するか否かは、進路の”選択”であり、意思決定なのである。

まして、会社に就職するか否かも、進路の”選択”であり、意思決定である。

しかしながら、その選択肢はいびつだった。

「どこの高校を受験しますか?」

「どこの大学を受験しますか?」

「どこの会社を受験しますか?」

すごく不思議な質問である。

高校に進学すること、大学に進学すること、会社に就職することが(暗黙の)前提になっている。

「高校には行かない」

「大学には行かない」

「就職しない」

私がこういうと、必ず親や先生にこう言われた。

「それで、どうするの?」と。

「働く」「バイトする」と答えると、こう言われた。

「それで、どうやって食べていくの?」と。

これって「すごくズルイ!」と私は思ってきた。

私が、親や先生に対して、「ズルイ!」と思ってきたことは3つある。

1. 進学や就職以外の選択肢を教えてくれなかったこと

2. 食っていくための方法を教えてくれなかったこと

3. “私の”やりたいことが何かを聞いてくれなかったこと

一方で、いまや大人になり、親になってしまった私は思う。

私は、子どもたちに対して、先の3つのズルイを解消できているのだろうか?と。

1. 進学や就職以外の選択肢を教えてあげる

2. 食っていくための方法を教えてあげる

3. “その子(その人)の”やりたいことが何かを聞いてあげる

いまだ、いずれも満足にできているとは言えない。

いや、まだどれも全くできていない。

私は、44歳にもなって、自分の子どもたちに対して、気の利いたことを何一つアドバイスしてあげられない。

もちろん、どうするかを決めるのは子どもたちだ。

進路を選択するのも、子どもたち自身だ。

しかも、その選択肢は、進学か就職かの二社択一でもない。

学びながら働く。働きながら学ぶ。そういう選択肢だってある。

この世の中で食っていくための方法。

それは無数にあるはず。

なぜならば、とても沢山の人たちが、この世の中でしっかりと食って生きているのだから。

「どうやって食っていけばいいのか?」

親として、一個人として。この質問に対してしっかりと答えられるようになりたいと思っています。

「こういう方法もあるよ」「こういう人もいるよ」と子どもたちに伝えられるようになりたいと思っています。

TAKU &sing

やりたいけど、できない。なぜならば…

学びたいけど、学べない。なぜならば…

働きたいけど、働けない。なぜならば…

変わりたいけど、変われない。なぜならば…

理想と現実。その狭間には何があるのか?

なぜならば…の部分には、どんな理由が入るのか?

それは単なる言い訳なのか?

対処すべき課題なのか?

対処すべき課題だとしたら、それは自分の課題なのか?社会の課題なのか?

理想と現実。その狭間にあるものを、現実的に変える。

変えたいけど、変わらない。

それでも変えるために、変わりたい。

変わりたいけど、変われない。

それでも、変わる!と決意する。

わたしの変わる!があなたを変える!

あなたの変わる!がわたしを変える!

そんな世界というか、場をつくりたいな、と思っています。

TAKU &sing

死角、盲点、先入観

昨日、ある方から、このURLをご紹介いただいた。

『介護で閉ざされる未来〜若者たちをどう支えるか〜』

介護で将来を見通せない若者たちの例である。例というか、一人一人の現実である。

私は、『ジブンノシゴトのつくり方〜好きを諦めない働き方〜』というタイトルで本を書いた。

しかし、このURLの記事には、好きを諦めない”働き方”を考える以前に、”働く”ための前提となる進学や就職すら諦めざるを得ない人がいる、という現実が示されている。

私は、見るべきところを見ていない。あるいは、見えているはずのことを見ていないことにしているのではないか?と感じた。

かつて、大阪の難波の地下街には、ホームレスの方々が何人も寝ていた。だが、いまはいない。

いや、正確に言えば、”いない”のではなく、”見かけない”だけなのだろう。

つまり、私が難波の地下街をのほほんと歩いている限り、”私が”ホームレスの方々を見かけることはない、ということなのだろう。

ホームレスの方々は、いまどこにいるのだろう?

私は、いまどこにいるのだろう?

何を見て、何を見ていないのだろうか?

何かとても大切なことから、目を背けているのではないか?

いやいや。それ以前に、ごく当たり前のことが見えていないのではないか?

この世の中のことを知っているようなつもりでいるが、実は全く知らないのではないだろうか?

私が見ている世界は、すごく偏っているのではないだろうか?

あるいは、ある部分がズッポリと欠けているのではないだろうか?

今朝は、そんなことを考えている。

見えていないことがある。

わかっていないことがある。

いったんそのまま受け止めてみる。

TAKU &sing