突き詰めて考え中

私がほんとうに学びたいことは何か?

44歳にもなって、こんなことすらわかっていない。できもしない。

だけど、それを絶対わかるようになりたい!絶対できるようになりたい!

自分にまったくもって足りていないもの。

ごっそりと欠けまくっているもの。

それゆえに渇望して止まないもの。

心の渇きを満たさずにはいられないもの。

「学びの場をつくろうとしている土肥さん自身が、何を学びたいのかがはっきりしていないんじゃないの?」

「土肥さん、なんとなく満足しちゃってんじゃないの?」

「上っ面のリーダー論をブログで語っているだけなんじゃないの?」

「このブログ、土肥さんがほんとうにリーダーになって欲しいと思っている人たちに届くものになってんの?」

昨日、ある人たちからそんなことを言われた。

ぼっこり盲点でした。

痛いところをグサーーーーーって突かれました。

ってことで、今日は突き詰めて考えてみます。

考えるというよりも、感じ取ると言った方が正しいかもしれない。

自分の心と対話しながら、見栄のない自分、先入観をもたない自分、正直な自分を取り出してくる。

自分の目を曇らせている一切の余計な価値観を剥ぎ取る。

子どもの頃の純粋な目と心を取り戻す。

私がほんとうに学びたいことは何か?

今日はそれを突き詰めて考えてみる。

そして、そのための学びの場を4月から開講する。

燃えろ燃えろと他人に言うなら、

まずは自分が燃えろ!!!

今日は桜も燃えている^ ^

TAKU &sing

役員報酬額をいくらにするか?

会社設立1年目の役員報酬額をいくらにするか?

いざ自分で役員報酬額を決めるにあたり、困ったことが3点あるので、それを書いておきたい。これから会社を設立しようとする方、これから役員報酬額を決めようとする方の参考になれば幸いである。

私は、2018年2月に会社を設立したが、4月から役員報酬を取ることにした。理由は、4月にならないと売上の入金(収入)がなかったからだ。仮に売上があっても収入がないままに支出をすれば収支がマイナスになる。月次で収支を均衡させることは資金繰りの基本である。

一方で、役員報酬額は、会社設立後3ヶ月以内の臨時株主総会で決定する必要がある。

その点からしても、私は遅くとも4月中には役員報酬額を決める必要があった。

さてさて。では、役員報酬額をいくらにするか?

これを決めるにあたり、私は以下3点の現実にぶちあたり、困った。

1. 役員報酬額は定期同額が基本

2. 社会保険料の会社負担分は15%

3. 初年度の収入は不確定要素だらけ

私は3点とも知識としては知っていた。だが、実際に”自分事として”役員報酬額を決める段になったら、その大変さをひしひしと感じた。

まず1点目。役員報酬額は定期同額が基本ということについて。

なんと、役員報酬額は、一年間、毎月一定額を支給しないといけないのである。月によって多くても少なくてもいけない。その月の業績が良かろうが悪かろうが、毎月一定額を支給し続けないといけない。つまり、月額20万円と決めたら、毎月20万円を支給し続けないといけない。そうしないと、法人税法上、役員報酬額が損金算入されない可能性が出てくる。損金算入されないと、その役員報酬額(の一部)が会社の経費として認められずに利益となり、税金がかかってしまう。したがって、役員報酬額は、毎月一定額で支給することが基本となる。

※この点についての詳細をお知りになりたい方は、国税庁のタックスアンサーをご覧ください。

このことを知った時(正確に言えば、自分事として実感した時)、「マジか!」と思った。正直、役員報酬額がこんなに融通の効かないものだったとは知らなかった。

「今月のことも、来月のこともわからないのに、この先何ヶ月も先のことなんてわかんねえよ!」「にもかかわらず、いまこの時点で、この先何ヶ月間もの役員報酬額を固定せよって鬼や!」と思った。

あっ、決して制度や誰かを批判している訳ではありません。あくまでも現実に直面して素直に感じた心の声を表現しているだけですので、あしからず…

楽観的に考えれば、「もし会社にめっちゃ利益がでたらどうすんねん!」「もっと役員報酬額を多くしておいた方がいいかなぁ」となるし、悲観的に考えれば「思ってるほど売上(収入)が立たなかったらどうしよう…」「もっと役員報酬額を少なめにしといた方がいいかなぁ」となる。

初年度の収入が不確定な中で役員報酬額を決めるということは、想像以上に心の葛藤があるものである。大げさに言えば、未来を創ってやる!という主観と、そこにある現実を直視する客観との戦いである。さすがに、ちょっと大げさな表現すぎるかも知れないが、自分で自分の役員報酬額を決めるということは、なかなか大変なことではある。

次に2点目。社会保険料の会社負担分は15%ということについて。

会社勤めの時や個人事業主の時には、社会保険料の会社負担分はなかった。しかし、会社を設立して、役員報酬や従業員給与を支払うと、役員や従業員が負担する社会保険料と同額を会社が負担しなければならない。

ざっくりいえば、役員報酬あるいは従業員給与(賞与を含む)の15%ほどを会社が負担することになる。仮に、20万円の役員報酬を受け取るとすると、その約15%、3万円程度の社会保険料を会社が負担しなければならない。これは、自己負担分とは別に、である。

つまり、自分で会社を設立して、自分に20万円の役員報酬を支払うとしたら、自己負担分と会社負担分を合わせて全部で約30%、6万円程度の社会保険料がかかる、ということである。結果、会社としての支出は約23万円、自分の手取りは20万円から約3万円を引かれた分以下となる(さらに所得税や住民税が引かれるため)。

以上の例は月額だから大した金額には見えないかもしれないが、年額で考えるとかなりの負担感だ。月額20万円でも年額で240万円。その約15%となると36万円程度。

「うおっ、マジか!」って思いません?

このことも以前から知ってはいたが、いざ自分事として考えて、初めてその大変さに気づいた。

「いやー、会社経営者って、ほんとエライなぁー」と思った。従業員が1人か10人か、100人か、1000人かは関係ない。

たった1人に給与を支払うだけで、約15%も社会保険料を負担している訳でしょ。ほんとすごいな、と思います。そして、自分も頑張らないとな、と思いました。

※こちらも詳細をお知りになりたい方は、全国健康保険協会の平成30年度保険料額表をご覧ください。ちなみに、社会保険料の会社負担分には、健康保険料と厚生年金保険料以外にも「子ども・子育て拠出金」も含まれますので、ご留意ください。

最後に3点目。初年度の収入は不確定要素だらけ、ということについて。

もうかなり長くなってきたし、1点目でも触れたので、簡単に説明して終わりにしたい。

要は、何の実績もない状況下では、売上計画のほぼすべてが不確定である、ということである。そりゃそうだ。いい話はあるかもしれないし、提案の機会もあるかもしれない。だが、実際に受注して契約するまでは、何の売上も立たない。売上が立たなければ収入がない。収入がなく支出をすれば、手持ちの現金預金が減っていくだけ。

売上計画は、楽観的に立てることもできるし、悲観的に立てることもできる。意志を込めて主観的に立てることもできるし、事実にもとづき客観的に立てることもできる。

どちらに行くかは自分の心の持ち方次第。にしても、拠って立つべき事実(実績となる売上)すらほとんどない。

そんな中で、一年間の会社の業績を予測し、役員報酬額を決める。

まぁ、なかなか大変なことだなぁ、と実感した次第です。

また、それと同時に、自らの意志をしっかりと持つことと、現実を直視することの双方が大切なんだなぁ、と改めて感じた次第です。

私はこれを、「右手にビジョン、左手に電卓を」と表現している。以前からそう表現していたが、いまでは、より実感を込めて言いたい。

会社設立1年目の役員報酬額をいくらにするか?

以上、私の経験が、少しでも誰かの役に立てば幸いです。

“右手にビジョン、左手に電卓を”

TAKU &sing

ただただ回を重ねることの大切さ

どうすれば、意識が変わるのか?

全4回シリーズの最終回として、今日は、”小さくとも意義ある成果を積み上げていくこと”の大切さについて書きたい。

その前におさらい。

どうすれば、意識が変わるのか?」について、3月27日のブログに書いた。そこで、以下の内容を書いた。

  • 意識を変えるには継続的な実践が必要
  • 継続的な実践には、ビジョン、仲間、成果が必要

うち、ビジョンについては「問題解決ではなく、ビジョン創造」に書いた。

仲間については、「たった一人の仲間の大切さ」に書いた。

今日は、成果について書く。”小さくとも意義ある成果を積み上げていくこと”の大切さについて書く。

あなたにとって、成果とは何ですか?

何らかの試み、何らかの行動の結果がうまくいったか、うまくいかなかったか?

その成功と失敗を分ける基準は何か?

何を基準にして、ある結果を成功と見るのか?失敗と見るのか?

この基準が誤っていたら、成功を失敗と見誤り、失敗を成功と見誤ることになる。あるいは、そもそも成功が起こっているのにそれが見えない、失敗が起こっているのにそれが見えない。そんな事態に陥ってしまう。

例えば、企業なら利益の損得を基準にするかもしれない。スポーツチームなら勝ち負け。学校なら合否。

しかし、これらは、あくまでも最終の結果に過ぎない。成果ではあるが、その成果を上げるために、どんな努力をするか、どんな行動をするか、何を試みるかの指針にはならない。まして、継続的な実践がうまくいかず心が折れそうになった時に、心の支えになってくれる成果(実績)とは言えない。

成果を何で測るか?

その答えは、人それぞれの中にある。なぜならば、それは自分のビジョンや仲間との関係性により異なるものだからだ。また異なって良いものだからだ。唯一絶対の成果指標などない。自分の心が折れないために、自分の心を支えるために、自分にとって有効な成果指標(あるいは行動指標)を定めればいいのだ。

私は、個人的に読書会を主催し、開催している。毎月実施しており、次回で第27回目となる。

月1回開催なので、第27回目というのは、27ヶ月目、2年と3ヶ月目である。

私は、この読書会の開催については、実施回数にこだわっている。すなわち、実施回数を成果指標としている。

実施回数はわかりやすい成果指標である。なぜならば、これまでに積み上げてきた努力の結果を簡単に人に説明できるからだ。

「私は27ヶ月間にわたり、27回の読書会を開催してきた!」と自信を持って言える。それは自分自身に対して言えることであると同時に、他人に対しても言えることである。だから、自分にとっての強い確信を得ることができるようになる。

加えて、次への努力、行動、試みにとって、明確な指針を得ることができる。27回目の読書会を終えた時には、すでに28回目の読書会への努力が始まっている。27回目の次は28回目。28回目の次は29回目。

ただただ回を重ねていくだけだ。

主催者は私なので、やると決めてやるだけだ。

ただそれだけのことで、自分にとっての確信は高まっていく。回を重ねる過程で沢山の仲間と出会い、知らず知らずのうちに自分のビジョンが断片的に実現されていくのを見ることになる。

そして、もっとも重要なことは、次のことだ。

“ただただ回を重ねることで、自分の自信が積み上がっていくと同時に、自分の無力さを実感していける”

ということだ。

月1回継続することの大変さを知ると、第27回目まで継続できている自分に自信を持てる。しかし、一方では、50回、100回と継続している読書会が存在している。いずれの読書会も月次で実施されているとすれば、私が実施する読書会の開催回数が先の読書会の実施回数を超えることはない。

つまり、先を進んでいる人には、同じだけの努力をしても決して追いつかないことを思い知るのだ。

それは自分の無力さを思い知ることであると同時に、その人のことを尊敬することに繋がる。先人から学ぶべきことが必ずある、ということを知る。それゆえに、つねに謙虚であらざるを得ない。相手は競争相手ではなく、同じ道を歩いている先人なのだ。また、私がその人たちと競争する必要などない。私にできることは、私の道をまっすぐ歩き続けることだけだからだ。

自信を持つと同時に、謙虚になる。

とても素晴らしいことだ。

何かを捨てて、新しい自分に生まれ変わっていく感覚がある。脱皮していく感覚がある。

“素直な心になる”というのは、こういう感覚なのかなぁ、とおぼろげながら感じている。

私にとって、ただただ回を重ねることは、一つの重要な成果であると言える。そしてそれは、私にとっての継続的な実践を可能にするための一つの重要な要素だ。

アンドシング株式会社は、今期設立1期目だ。2期目、3期目とただただ期を重ねていく。経済的成果を上げていくことは当然ながら重要だが、それ以前に回を重ねていくことを重視する。それも進化し続けながら。決して惰性には陥らない。つねに革新していく。

と言いつつも、まだ今期末までは遠い。4月から10ヶ月間ある。1ヶ月、1ヶ月。ただただ回を重ねていくだけだ。

何かを為すことは今日しかできない。いましかできない。

明日は永遠に来ないし、昨日はすでに終わってしまった。

自分の人生において、”いつかやるべきこと”があるのであれば、それは”今日やるしかない”のだ。

TAKU &sing

たった一人の仲間の大切さ

昨日のブログにこんなことを書いた。

  • 意識を変えるには、継続的な実践が必要
  • 継続的な実践には、ビジョン、仲間、成果が必要
  • たった1人でいいから仲間を得ることが必要

今日は、仲間について書いてみたい。

生きる、働く、遊ぶ。

日々充実した人生を送れるか否か。

すべては、良き人間関係を築けるか否かにかかっている、と言える。

人間関係以上に大切なものはない。

独立起業したら、人間関係の大切さをめちゃくちゃ素朴に感じる。

何をするにも、人である。人に始まり人で終わる。そしてまた人に始まる。

中でも、大切なのは、自分の”仲間”だ。

自分の新たな挑戦、その継続的な実践を支えてくれるのは、たった一人の仲間だ。

私は、これまで何か新しいことにチャレンジする時、必ず素晴らしい”仲間”に出会ってきた。

独立起業する時はもちろんのこと、はじめて資格受験に挑む時、はじめて就職する時、はじめて大きなプロジェクトを担う時。その時その時に、必ず素晴らしい”仲間”に出会ってきた。そしてその仲間は、必ず始めは一人だった。最初の仲間を起点にして多くの仲間と出会っていく。大きな仲間の輪の始まりは、たった一人の仲間なのである。

私の言う”仲間”には、こんな意味が含まれている。

  • お互いが共感し合える価値観を持っている
  • お互いが精神的にも経済的にも独立している
  • お互いが対等の関係で意見を言い合える
  • お互いが一期一会の関係である

年齢も性別も人種も関係ない。まして社会的な地位や肩書きなんて、まったく関係ない。

大切なのは、お互いのその時その時の関係性だけである。

過去がどうだったとか、未来がどうだとか、あまり関係ない。

私が、心から「仲間だなぁ」と感じている人とは、ある意味でサバサバした関係になっている。

今日会って、もう一生会わないかもしれない。もしかしたら、また明日会うかもしれない。そんな感覚。

お互いに義務も責任もない。権利も権限もない。

お互い、会う時に会う。会わない時には会わない。

「友達なんだから!」「親友なんだから!」「家族なんだから!」「恋人なんだから!」こうあらねばならない!なんて思うとしんどい。お互いが自由でいられない。お互いが自由でなければ、お互いがお互いに対して最高の形で貢献し合うことなどできない。

自分がやりたいと思うことに、「いいね」と言ってくれる。「やってみたらいいやん」と言ってくれる。決して否定しない。悩んだ時には相談に乗ってくれる。「こうしてみたらもっと良くなるんじゃない」と助言をくれる。場合によっては、具体的な手助けをしてくれる。でも、「やるのはお前やんね」「リーダーはお前やんね」と自分のことを尊重してくれる。

寄りかかったり、寄りかかられたり、もたれ合ったり。

ではなく、

お互いが自分の足で立ち、お互いが自分の道を歩き、それでいて時にお互いがお互いを支え合える。

そんな仲間と、たった一人の仲間と出会えたら、それだけで人生は豊かになる。

仲間がいれば、継続的な実践が可能になり、自分の意識を変えていくことができる。

だが、それ以前に、仲間を得て実践すること自体に、素晴らしい喜びがある。やりたいことに挑戦し、それを楽しめる自分に出会える。

自己変革であれ、組織変革であれ、その過程を楽しみながら、成功するまで諦めずに実践を継続させていくためには、”たった一人の仲間と出会うこと”がとても重要な鍵を握る。

私は強くそう信じています。

TAKU &sing

どうすれば意識が変わるのか?

意識が変われば世界が変わる。すべては心の持ち方次第。

この結論は正しい。

だが、難題はその次にある。

どうすれば意識が変わるのか?

心の持ち方を変えるには、どうすればいいのか?

自分の意識や心の持ち方を自分で変えるには、継続的な実践が必要になる。

私は、”自分が挨拶をしたら、相手も挨拶を返してくれる”と信じている。

なぜならば、これまでに幾度となくそういう経験をしてきたからだ。例えば、過去に100人と出会ったとしたら、そのうち80人は挨拶を返してくれた、という経験をしてきたからだ。

だから、時に挨拶を返してくれない人がいても平気である。挨拶を返してくれない人は例外であり、世の中には挨拶を返してくれる人の方が多いんだよ、と知っているからだ(事実かどうかはわからないけど)。

一方、”自分が挨拶をしても、相手は必ずしも挨拶をしてくれるとは限らない”と感じている人もいるかもしれない。

おそらく、そういう人は、相手が挨拶を返してくれる時と相手が挨拶を返してくれない時とを半々くらいの割合で経験してきたのだろう。例えば、過去に100人と出会ったとしたら、そのうち50人は挨拶を返してくれたが、50人は挨拶を返してくれないという経験をしてきたのだろう。もしかしたら、挨拶を返してくれた人の数の方が少なかったのかもしれない。

そういう人の中には、「なぜ自分は挨拶をしているのに、相手は挨拶を返してくれないのか?」と苛立っている人がいるかもしれない。あるいは、悲しんでいる人がいるかもしれない。事実、過去に職場で鬱になったことのある人がそう言っていた。

そういう人に対して、「いやいや、要は心の持ち方次第だよ。意識が変われば世界は変わる。”人は挨拶を返してくれるものである”と信じてごらん。そして、そう信じて自分から積極的に挨拶をしてごらん。そうすれば、必ず相手は挨拶を返してくれるから」と言ったとして、はたしてその人は意識を変えられるのだろうか?心の持ち方を変えられるのだろうか?

その時は、「そっか。そう信じてみよう!やってみよう!」と思うかもしれない。しかし、翌日、実際に職場や家庭で自分から挨拶をしたとして、相手から挨拶が返ってくるだろうか?

おそらく、一日でガラッと変わることはないだろう。やはり今日は昨日と同じなんだ、という印象を持つだろう。

しかし、そこで諦めたら終わりだ。毎日毎日、自分から挨拶をすることを続けるしかない。そのうち、職場や家庭で1人、2人と挨拶を返してくれる人が増えてくるだろう。そこまで行くのに何日かかるのかはわからない。だが、継続的な実践なくして、結果が変わっていくことはない。これまでの経験値を塗り替えるほどの実績が上がっていくことはない。100人と出会えば、80人は挨拶を返してくれる、という事実は生まれてこない。

実践を続け、これまでの経験値を塗り替えるほどの実績が上がってはじめて、”自分が挨拶をしたら、相手は挨拶を返してくれる”と信じられるようになる。

意識を変えよう!心の持ち方を変えよう!という決意はいますぐにできる。

しかし、意識がほんとうに変わるには、心の持ち方がほんとうに変わるには、継続的な実践が必要である。ある程度の期間、試行錯誤を続ける必要がある。その間、いかに諦めずに実践を続けるか?試行錯誤を続けるか?が重要な鍵を握る。

その鍵をこじ開けるには、自分がほんとうに望んでいる状態(ビジョン)は何かを知ることと、たった1人でもいいから仲間を得ることだ。ビジョンと仲間が得られれば、あとは小さくとも意義ある成果を積み上げていくことだ。予期せぬ成功に気づくことだ。過去の経験値を塗り替えるだけの実績を上げることだ。

TAKU &sing

問題解決ではなく、ビジョン創造

いくらがんばっても問題が解決されない時。その時は、アプローチを変えるべき時かもしれない。

教育ではなく、開学

この言葉を、問題を解決する、という視点から見れば、

問題解決ではなく、ビジョン創造

と言い換えることができる。

一般的な問題解決アプローチは、”問題”に着目する。問題を見つけ、問題構造を見つけ、解決すべき原因(課題)を見つける。そして、その原因を解消する手段を見つけ、その手段を講じ、問題を消滅させる。

このアプローチは、”問題”に着目する。

それゆえに、”問題の定義”を間違うとうまくいかない。特に、”問題”という言葉は、”良くないこと”というニュアンスを持つ。

プロジェクトで、「まずは問題を列挙してみましょう!」と言うと、プロジェクトメンバーから沢山の”良くないこと”が上がってくる。10も20も上がってくる。参加者が増えれば増えるほど、問題の数も増えていく。100も200も上がってくる。中には、他者への誹謗中傷みたいなものも上がってくる。

しかし、それは本当に”良くないこと”なのか?

逆に、”良いこと”とは何か?

“良いこと”がわかっていないのに、”良くないこと”を列挙していないか?

列挙されてきた問題は、ほんとうに解決すべき問題なのか?

これを検証することなく、そこにある問題を解決しようと取り組むことは時間と労力の無駄である。なぜならば、解決する必要のない問題は、解決する必要がないからだ。詭弁のような言い方だが、そうとしか言いようがない。

一方、ビジョン創造アプローチは、問題に着目せずに、”ビジョン”に着目する。

ビジョンとは、未来のありたい姿。理想とする姿。実現したい姿。まだ見えないけど、見たいと願っている姿。それを可能な限り、見えるように表現したもの。

ビジョンに着目することで、問題解決のための幹をつくることができる。枝葉末節の問題探しに陥るのを防止することができる。

ここでは、すごく簡単な例で説明する。

アンドシング株式会社のビジョンは、&sing、ともに歌う、安心する。である。

なのでものすごく割り切って言えば、2人以上の人が、安心して、ともに歌えばオッケー!である。

もちろん、当社としては、”次世代リーダー輩出のための新たな学校づくり”という事業を通じて&singなビジョンを実現する必要があるのだが、ビジョンの原形はいたってシンプルである。

それゆえに、社内外で起こる出来事を捉える時にも、”2人以上の人が、安心して、ともに歌う”状態にあれば、問題なし。すなわち、”良い状態”であり、そこで行われていることは”良いこと”である。

逆に、”2人以上の人が、安心して、ともに歌う”状態になければ、問題あり。すなわち、”良くない状態”であり、そこで行われていることは”良くないこと”である。

このように、ビジョンが明確になると、問題とそうでないものをシンプルに峻別できるようになる。

また同時に、すでにある”良い状態”や”良いこと”が見えてくるようになる。自社の強みも見えてくるようになる。ビジョン創造アプローチの利点は、むしろこちらの方が大きい。

すでに”良い状態”や”良いこと”があるのであれば、その芽や種を育てていけばいい。強みを活かして伸ばしていけばいい。

枝葉末節な問題を解決している時間と労力がもったいない。

その時間と労力を、”良い状態”や”良いこと”を育てて開花させることに使った方が断然いい。

一般的な問題解決アプローチは、”問題”に着目し、”良くない状態”や”良くないこと”を見つけ出す。

ビジョン創造アプローチは、”ビジョン”に着目し、”良い状態”や”良いこと”を見つけ出す。

いくらがんばっても問題が解決されない時。その時は、アプローチを変えてみるといいかもしれません。

TAKU &sing

「決め方」を決める

リーダーは決める。意思決定する。意思を決定する。DecisionをMakingする。決定を創り出す。「決め方」を決める。

仕事に限らず、日常生活でも、なかなか決められないことがある。

「今日、何を着ていこうかなぁ?」とか、「お昼に何を食べようかなぁ?」とか。意外とつまらないことで悩む。

つまらないことではあるが、決めなければならない。決めなければ、次に進めない。服を着ないと出かけられない。注文しないと食べられない。

これは仕事でも同じだ。

「フォントをどれにしようかなぁ?」とか、「色は何色にしようかなぁ?」とか、「表紙のタイトルは何にしようかなぁ?」とか。

どんなにつまらないことでも、決めないと次に進めない。いや、つまらないことであればあるほど、決めないと次に進めない。

では、どうやって決めるのか?

直感で決めることは重要である。

論理で決めることも重要である。

だが、より重要なことは、「決め方」を決めることである。

ふだん着る服やお昼ご飯。実際、そんなに悩むようなことではない。何を着ても、何を食べても致命傷になることは、まずない。

では、なぜ悩むのか?

それは決め手に欠けるからだ。

ある意味、どれに決めてもいいからだ。割り切って言えば、どんぐりの背比べ。

であれば、決め手を決めればいい。

意思を決定するための基準を自ら創り出せばいい。

自らのDecisionをMakingすればいい。

その基準は何でもいい。自分が納得できれば何でもいい。

一番おもしろいと思えるもの!

一番喜んでもらえそうなもの!

一番ネタになりそうなもの!

一番速いもの!

一番安いもの!

一番高いもの!

一番インスタ映えするもの!

一度も選んだことのないもの!

何を基準にするかは人それぞれでいい。

自分が納得できる基準を一つ決める。

そしたら、意思を決定する基準が生まれる。決め手が見つかる。どれにするかを決められる。

日々、意外とつまらないことで悩んでいる。

この悩みの時間。毎日積み上げていくと一年で膨大な時間になる。一生だととんでもない時間になる。

それより何より、決めないことは前に進まないこと。すごろくで、ずっと同じマス目に留まり続けていること。

些細ないことを決められない限り、大きなことは決められない。

日々の選択ができない限り、いざという時の決断はできない。

決めるための基準は一つではない。最終的には、複数の基準をバランスよく満たす必要がある。

だが、その中でも”自分にとって”第一の基準があるはずだ。絶対に外せない基準。迷いに迷った時、最後の決め手となる基準。

そんな基準が見つかると、決めることが楽しくなる。無駄な時間を過ごさずに済む。次への行動が速くなる。

「決め方」を決める。

リーダーとしての決断力を養うために、とても大切なことだと思います。

TAKU &sing

会社設立手続を自分でやってみて感じたこと

会社設立手続は、自分でやるべきか?税理士等の専門家に任せるべきか?

今回、私が会社設立手続を自分でやってみて感じたことを書いてみたい。

まず結論。

“会社設立手続は、税理士等の専門家に任せるべきである”

なぜならば、会社設立手続を自分でやることには、デメリットが多いからだ。

私が感じたデメリットは3点。

1. 時間の無駄

2. 後で役に立たない

3. 不安が残る

もちろん、メリットもある。

1. お金を節約できる

2. 面倒臭さを実体験できる

3. 体験談を人に語れる

しかし、私個人的な感想としては、メリットよりもデメリットの方が多い。

何より、時間の無駄である。そして、不安である。

会社設立時に、社長がやるべきこと、考えるべきことは、たくさんある。

また何よりも、社長が”不安を抱えること”は、一番よくない。一人社長なら尚更だ。不安を抱えると、心配事が頭の中を占拠するようになる。

なんせ、会社設立手続は、沢山ある。書類提出先だけでも、法務局、税務署、都道府県や市町村の税事務所、年金事務所など多岐にわたる。情報は、インターネットを検索すれば、いくらでも出てくる(例えば、『創業手帳』など)。だが、実際の手続きは、実際に手足を動かさないと進まない。単純な話、いろんな書類を書いて、いろんな場所に提出しないといけない。それをやっているうちに、とても面倒臭くなってくる。

「あれ、必要書類はこれだけかな?」

「この書類の書き方、これでいいのかな?」

「この書類の提出先は、ここで合ってるのかな?」

「そもそも、やらなアカンことはこれで全部かな?」

「なんかやり忘れていることないかな?」

なんてことばかりを考える。

しかし、いくら考えても経験したがないことだから確信を持てない。

すると、いつまでも同じことを考えてしまう。私はこれを”ぐるぐる回転”と呼んでいる。

頭がぐるぐる回転に陥ると不安だけが募る。

心配事は解消されることがない。

場合によっては、提出が終わったはずの書類についてすら不安が残る可能性がある。なんせ、行政の窓口の人が頼りないケースもあるからだ。

ある時、私が書類に不備がないかの確認を窓口の人にお願いしたところ、こんなことを言われた。

「えーっと。おそらくこれでいいかと思います。もし書類に不備があれば、またご連絡がいくと思います」

正直、「えっ、マジか!」「そんなんでいいの?」「適当やなぁー」「案ずるより産むが易しやなぁー」と思った。

ただ、そうは言っても間違いがあったら、責任を取るのは私だ。まだ訂正の可能性が残っているかもしれない、と思ったらいつまでも落ち着かない。不安を抱えたままの状態になる。ある種の心配事がしこりのように頭の片隅を占拠し続けるようになる。こうなると、頭の中がスッキリしない状態になる。頭の中がスッキリしなければ、心の中にモヤモヤが発生してくる。私は、「こりゃアカンわ…」と素直に思った。

会社設立手続の大部分は行政手続だ。正確性が求められ、間違っていたら後で面倒なことが起こる(ような気がする)タイプの業務だ。

一方で、行政手続は大部分が定型業務だ。この業務に慣れている人であれば、速く、無駄なく、正確にできる。

私は、会社設立手続に慣れていない。だから、遅くて、無駄だらけで、不正確。ゆえに、時間の無駄で、不安が残る。しかも、ここでがんばった経験は(直接的には)後で役に立たない。

一方で、税理士等の専門家は、会社設立手続に慣れている。もちろん、会社設立後の税金や社会保険等に関わる業務にも慣れている。そんな業務を沢山の人に大量に実施している。後で困らないようにするために、何は押さえておくべきで、何は適当でいいかを経験的に知っている。だから、その業務は、速くて、無駄がなく、正確。ゆえに、お金はかかるが、その分、時間を節約でき、何より不安がなくなる。

頭がスッキリ。心もスッキリ。

つねに、そんな状態を保とうとするなら、不安の種は極力抱え込まないようにすることだ。

そのためには、餅は餅屋。

なので、

“専門的なことはお金を払ってでも専門家に頼む”

のがいい、と私は思います。

そっちの方が不安がないだけでなく、よりよい結果を得ることができますし。

ちなみに、私は、公認会計士ではありますが、税理士ではありません。なので、私は、税金やそこから派生する社会保険等の業務にはまったく精通していません。もちろん、ちょっとした知識はあります。ですが、実務は知りません。なので、自分がたまたま公認会計士であったとしても、税務は税理士、社会保険は社会保険労務士に任せるのが一番!

というのが私なりの経験にもとづく私なりの意見です。

TAKU &sing

いかに早く問題に気づくか?

私は、長きにわたり、「学ぶ」ということについて考えてきた。

そして、「学び方」について、大きな影響を受けた本が2冊ある。

1冊は、野中郁次郎氏と竹内弘高氏の『知識創造企業』(原題: The Knowledge-Creating Company)

もう1冊は、ピーター・センゲ氏の『学習する組織』(原題: The Fifth Discipline)

※私が読んだ本は『最強組織の法則』という邦題

中でも、『学習する組織』にある「システム思考」という考え方には、大きな衝撃を受けた。

おそらくその時からだろう。私がしつこいくらいに自己を客観視するようになったのは。そしてそれは同時に、自己が暗黙的に受け入れているメンタルモデルを克服する試みでもある。

『学習する組織』では、”コップ1杯の水を入れる”という行為を例にとってシステム思考を説明している。

ふだん、私たちは、何気なく水道の蛇口をひねってコップ1杯の水を入れる。

1. コップを蛇口の下に持っていく

2. 蛇口を開けて水を出す

3. コップから水が溢れる前に蛇口を締める

ただこれだけ。

しかし、大きな疑問がある。

「なぜ一定量の水だけがコップの中に入るのか?」

「なぜ水はコップから溢れないのか?」

重要なポイントは、2と3の間にある。蛇口を開けて水を出し始めてから、蛇口を締めて水を止めるまでの間。

この間、私たちは、コップの中の水位を観察し続けている。それと同時に、水流を観察し続けている。

狙いはどこか?

目標地点はどこか?

それは、”コップ1杯の水”と言えるだけの水位だ。

仮にその水位を、コップの高さの80%地点とする。

私たちは、コップの高さの80%地点に達するまで、水位を観察し続ける。だが、水位がコップの高さの80%地点に達するまで観察し続けていてはいけない。なぜならば、蛇口を締めようと思ってから実際に手で蛇口を締めるまでの間にも、水は蛇口から流れ続けるからだ。したがって、水位がコップの高さの80%地点に達する少し前に、気づき、動き始めなければならない。

では、いつの時点で、気づき、動き始めればいいのか?

それは、「蛇口から流れ出ている水の量と速さ」、そして「”私が”いまの水位に気づいてから蛇口を締め切るまでのスピード」に依存する。

蛇口を締め始めるタイミングが遅ければ、水はコップから溢れてしまう。こうなると失敗。

逆にタイミングが早ければ、水はコップに対して少なくなってしまう。これは失敗だがリカバリー可能。

ぴったりのタイミングであれば、コップ1杯の水が完成する。大成功。

この例を読んだ時、私は非常に大きな衝撃を受けた。

なんせ、コップ1杯の水を入れるだけの話だ。ただそれだけの話なのに、なんて大げさなんだ!と。

だが同時に、こうも思った。

たったこれだけの話の中に宇宙がある。世界の本質がある。人間の本質がある、と。

要は、成功も失敗も、自分自身が引き起こしているのだ。

水がコップから溢れた。悪いのは、水ではない。コップでもない。もしかしたら水道や蛇口のせいではあるかもしれないが、それだけではない。

何を隠そう、水がコップから溢れるまで”放置した”のは、自分自身なのだ。

水道や蛇口の具合が悪ければ、その”具合を加味して”蛇口を締め始めれば良かったのだ。

つまり、”想定よりも”低い水位の段階で蛇口を締め始めるか、”いつもよりも”速いスピードで蛇口を締めるかすれば良かったのだ。

成功も失敗も、自分自身が引き起こしている。

成功したければ、失敗から学ぶこと。

誰もが初めは失敗する。なぜならば、コップ1杯の水を入れることですら、簡単なことではないからだ。少なすぎたり、多すぎたり。醤油でもマヨネーズでも、ちょろっとしか出なかったり、かけすぎたり。

大切なことは、いかに失敗から学ぶか、ということ。そして、いかに失敗しそうな状況に早く気づくか、ということ。

早く気づけば、早く動き出せる。

たとえ身体の動きが遅くても、早く動き出せれば、必要な時までに必要な行動を終わらせることができる。そのたまには、早く気づくことだ。

だが、事はそう簡単ではない。

なぜならば、人が問題に”気づく”ことは容易ではないからだ。それも、早く気づくことが困難なのではない。そもそも”現状に問題がある”ことに気づくことが容易ではないのだ。それは、人が暗黙的なメンタルモデルを持っているからだ。

この本の原題は、『The Fifth Discipline』である。

学習する組織(ラーニング・オーガニゼーション)を創るために必要な5つのディシプリン(規律)が記されている。

1. システム思考

2. 自己マスタリー

3. メンタルモデルの克服

4. 共有ビジョン

5. チーム学習

「学び」や「学び方」について、興味・関心をお持ちの方には、ぜひご一読をオススメします。

圧倒的に世界観が広がり、人間観が深まります。

っていうか、単純に勿体ないです。

システム思考やメンタルモデルという概念を知っているだけで気づけることが山ほどあります。

そんな素晴らしい武器、あるいは世界や人間を見通すメガネを持たずして、人生を生きるのは、勿体ない!

と私は、心底思っています。

とは言え、これはあくまで私個人としての意見です。

その意見を採用するかしないかはあなたの自由です。

人の意見を鵜呑みにしないこと。

それは、とても大切なことです。

一方で、早く失敗することも大切です。

“いいと思ったら24時間以内にやってみる”

かつて私の上司に教えてもらった言葉です。

いまも私にとって、非常に重要な行動指針となっています。

TAKU &sing

世界を変える必要なんてないんだ!

『開学』で教育の世界を変えたい。

私は、2月14日のブログ『教育ではなく、開学』でこう書いた。

しかし、昨日(3月21日)の夜に、ふと思った。

「世界を変える必要なんでないんじゃないか?」と。

私は、従来型の教育を否定しようとしてきた。あるいは、従来型の教師を否定しようとしてきた。それゆえに、従来型の教育、あるいは従来型の教師を変えたいと思っていた。

だけど、それってすごく大変。だって、相手は「この教育のやり方がいい!」という信念を経験的に築き上げているから。そして、その信念を全面的に否定することなどできない。必ず何らかの成果を上げているはずだから。でなければ、その人はその信念とやり方にこだわり続けるはずがない。

だから、その人の信念ややり方を否定する必要などない。

いや、そもそも否定すべきでない。

その人にはその人なりの、私には私なりの、信念とやり方があるのだ。

選ぶのは、教育を受ける人だ。

Aさんの信念とやり方が自分に合う、と思えば、Aさんから学べばいい。同じく、BさんがよければBさんから、CさんがよければCさんから学べばいい。

その信念ややり方を『教育』と呼ぼうが、『開学』と呼ぼうが、はたまた『自己学習』と呼ぼうが関係ない。

選ぶのは、教育を受ける人だ。

何らかの目的のために、何かを知りたい、学びたいと熱望している人だ。

だから、私は世界を変えようとする必要なんてない。

「従来型」(と私が呼んでいるだけ)の教育や教師を敵対視する必要などない。すでにそこにある世界を変えようとする必要などない。

私は、”私が望ましいと考える”教育の世界を創り出せばいい。小さくとも実際の学び場(まなびば)を創ればいい。それに賛同してくれる学び人(まなびと)と開学家(かいがくか)に集まってもらえばいい。

私は、”私が望ましくないと考える”教育の世界を変えようとする必要はない。すでにある教育の場を変えようとする必要はない。すでにそこにいる生徒と教師を変えようとする必要はない。

従来からある狭い範囲の領土の中で、つばぜり合いをする必要などない。

外に目を向ければいい。

そこには、広大な領土が広がっている。

争う必要などない。

私は、”私なりに望ましいと考える”新しい教育のあり方を打ち立てればいい。

選ぶのは、教育を受ける人だ。

競い合えばいい。

望ましい教育のあり方は一つではない。

それぞれの教育も相互排他的ではない。

“あらゆる人が、いまの自分にとって、もっとも望ましい形で、望む教育を受けられる。”

そんな世界を創りたい、と思っています。

ってことで。

教育ではなく、開学

『開学』で新しい教育の世界を創る

ただただ自分が”いい”と信じる道を歩き続けて行きたいと思います。

行動あるのみ!実践あるのみ!

先人から学ぶべきことはすべて学ぶ!

我以外皆我師也

TAKU &sing