教育ではなく、開学

私は、世の中を大きく2つに切り分けて観ている。

開学とそうでないもの。

開学と対立する概念をあえて挙げれば教育。

それゆえ、私は学校づくりを志しているが、教育家とは称してはいない。

開学家と称している。

教育ではなく、開学

これが、私が世の中を変えるために掲げているコンセプトだ。世界観とも言える。

教育とは、教えて育てること

開学とは、学びを開くこと

教育は、相手を受動的な存在として扱う。

開学は、相手を能動的な存在として扱う

教育では、先生が生徒を教えて育てる。

開学では、先生が生徒の学びを開く。(ほんとうは、先生にも生徒にも新しい呼び名を付けたいのだが、いまはまだない)

教育と開学の違いを経営学の世界で例えれば、ダグラス・マクレガーのX理論・Y理論が挙げられる。

X理論の人間観を前提とするのが、教育。人は強制や命令がないと学ばないという前提に立っている。

Y理論の人間観を前提とするのが、開学。人は強制や命令がなくとも、自発的に学ぶという前提に立っている。

心理学の世界では、アドラー心理学が開学と親和性を持っていると考えている。

教育学の世界では、福沢諭吉のこの言葉がすごく気に入っている。

「学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくそれを発育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。」

いずれにせよ、私は、世の中を大きく2つに切り分けて観ている。そしてこの切り口を持ってして、教育の世界を変えたいと思っている。

また、それは同時に企業における人材育成の世界を変えることでもあると信じている。

とはいえ、アンドシング株式会社の定款の事業目的には、開学という言葉はどこにも見当たらない。定款を認証してもらうために、教育とか、育成という言葉を使っている。いま振り返ってみれば、ひよってしまった感が否めない。認められるために合わせに行ってしまっている。情けない…

このブログやホームページの中にも、教えるとか、育てるとかの言葉が安易に混じり込んでいる。先生と生徒という言葉もまだ再定義できていない。悲しくも辛くもあるのだが、ある意味、やむを得ないとも思っている。

開学というコンセプトは、まだまだ生まれたばかりなのだ。

このブログを読まれた方は、よーわからんなー、という気がするかもしれませんが、どうかご容赦ください。

まずは『開学』という言葉だけでも、頭の片隅に留め置いていただけますと幸いです。

また、もし『開学』のコンセプトにひっかかりそうな実例や理論やビジネスなどがあれば、ぜひ教えてください!

『開学』で教育の世界を変えたい

心よりそう思っています。

TAKU &sing

“教育ではなく、開学” への1件の返信

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