昨日の学ぶログでは、『これまでの学校では学べなかったことを学べる新たな学校とは?』について書いた。
が、かなり不完全な内容であったため、今日の学ぶログでは、その内容を大きく改訂する。
基本的な改訂点は、以下2点である。
①「自分にとって必要なものは、自分の手でつくり出す」という視点を「三方よし」の視点から統合した。
②これに伴い、全体の話の流れを大きく改訂した。
正直、この改訂版でも、まだ不完全さが拭いきれない。また、依然として大きな方向性を指し示すだけに留まっている。
が、それでも、これから開講していく講座の目的とその意義、アンドシング スクールに学びに来てもらいたい人、講師を務めてもらいたい人のイメージが(昨日の学ぶログに比して)少しでもより良く伝わるものになっていれば幸いである。
1. 新たに学ぶべきことは何か?
アンドシング では、「次世代リーダー輩出のための新たな学校(学びの場)づくり」を目指している。
新たな学校である以上、アンドシング スクールは「これまでの学校では学べなかったことを学べる学校」である必要がある。
では、「これまでの学校では学べなかったこと」とは何か?
それは、「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動だ。
①自分にとって必要なものは、自分の手でつくり出す(自分よし)
②自分の手でつくり出したものを、ある人にとって役立つものにする(相手よし)
③それをさらに、より多くの人にとって役立つものにする(世間よし)
それゆえ新たな学校は、「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動を学べる場である必要がある。
そのためには、そこに集う人同士が、目的を共有し、異なる立場から視点を補い合い、ともに学び、実践し、協働していける場である必要がある。
それゆえ、必然的に、そこに学びに来る人は、「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動を身に付けたいと願う人である。
また、そこで講師を務めてくれる人は、「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動を身に付けている人である。
2. 新たな学びはなぜ必要か?
これまでは、「三方よし」を強く意識する必要はなかった。世間(=自分や他人を含む社会全体の人々)にとって必要なものがわりと明確であったからだ。
かつては、世間として必要なものは、おおよそ(最大公約数的なものとして)共通化されていた。
食べもの、着るもの、住むところ。移動手段や通信手段。それを支える水道、電気、通信、ガス、道路、鉄道、金融などの社会インフラなどなど。
あえて極言すれば、「必要なものは何か?」「つくり出すべきものは何か?」を突き詰めて問う必要はなかった。
すでにどこか(の国)にあるもので、世間として必要なもの(足りないもの)を埋めていけば良かった。
それゆえ、世間として必要なものをつくり出すために必要とされる知識や技術もおおよそ明確であった。
先行するどこか(の国)から、すでにある知識や技術を学べば、世間にとって必要なものはつくり出せた。
それゆえ、これまでの学校では、すでにどこかにある知識や技術を学ぶことを中心とする教育が施されてきた。
そしてそこで学んだ知識や技術をもとに、世間にとって必要なものがつくり出されてきた。
その結果として、「三方よし」も何となく満たされてきた。
そしていまや、世間として必要なもの(足りないもの)は、だいたい埋められ終わった。
だが、ここで言う世間とは、あくまでも一般的な(と想定される)人々でしかなかった。
一人一人の個人やその集まり、地域などに目を向けると、いまだに必要なもの(足りないもの)は存在している。
とは言え、一人一人の個人やその集まり、地域などの中には、必ずしも人数規模が大きいとは言えないところ(マーケティング用語で言えば「セグメント」)がある。
そういうところ(小さなセグメント)では、企業にとっては、十分な市場があるとは言い難いため、そこに参入しない、あるいはこれまでは参入していたが撤退するということが起こっている。人口の少ない地域から大手のスーパーが撤退するなどはその典型である。
また、国や地方自治体も、そういうところ(小さなセグメント)に、限られた財源を振り向けるだけの余力もなくなって来ている。
一方で、幸運なことに、インターネットをはじめとする情報通信技術は大きく発達している。
(過去に蓄積された)大量の知識を容易に入手することができ、ある程度の技術も動画などを活用しながら習得することができる。
また、時間や空間の壁を超えて、人と人とが文字・音声・動画などでコミュニケーションすることもできる。
さらに、食べもの、着るもの、住むところ、移動手段や通信手段、それを支える水道、電気、通信、ガス、道路、鉄道、金融などの社会インフラなどなど。それら物理的なモノも一部で余っている状態にあり、その余剰部分を低コストで借りて使うことも可能な状態にある。
したがって、これからの時代において重要なことは、すでにある知識や技術を学ぶことではない。すでにある物理的なモノをつくり続けることでもない。
これからの時代において重要なことは、一人一人の個人やその集まり、地域などにおいて「必要なものは何か?」「つくり出すべきものは何か?」を問うことである。
その上で、「すでにある知識、技術、あるいは余剰となっているモノなどを活かしながら、いかにして新たに必要となるものをつくり出すか?」を問うことである。
そしてその問いに対する答えを見つけ出し、それを現実のものとしてつくり出していくことである。
そのためには、「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動を一人一人が学び、お互いに実践し合いながら協働していく必要がある。
3. 新たな学びで何が良くなるのか?
一人一人の個人やその集まり、地域などにおいて「必要なものは何か?」「つくり出すべきものは何か?」を問うのは誰なのか?
そこに答えを見つけ出し、それを現実のものとしてつくり出していくのは誰なのか?
その行動主体は、一人一人の人でしかありえない。
その人が、企業にいるのか、国や地方自治体にいるのか、NPOにいるのか、一個人なのかは関係ない。人種・性別・年齢・職業・肩書きなども関係ない。
「自分にとって必要なものは、自分でつくり出す」
「自分たちにとって必要なものは、自分たちでつくり出す」
ここからはじめるしかない。
誰か(企業や国)が何とかしてくれるだろう、と待っていてもはじまらない。
とは言え、個人が孤軍奮闘し続けるのは、大変だ。
たった一人で、自分にとって、あるいは自分たちにとって必要なものをつくり出すのは大変だ。
また、それをつくり続けていくことは、もっと大変だ。
時間も労力もお金もかかる。
何よりかなりの熱意が必要になる。
もしかしたら途中でお金が尽きるかもしれない。
いや、それ以前に、心が折れるかもしれない。
ならば、自分にとって、あるいは自分たちにとって必要なものを、別のある人にとっても役立つものにはできないのだろうか?
相手の視点に立ってみれば、ちょっとした工夫を加えることで、自分にとって必要なものが、別のある人にとっても役立つものになるかもしれない。そうなれば、その人は喜んでくれるだろう。
さらに工夫を加えれば、その人は、商品としてお金を払ってくれるかもしれない。
そうなれば、自分(たち)にとって必要なものをつくり出すためにかかった時間と労力に対する見返りが得られるだけでなく、お金の面でも助かる。
それでいて相手も喜び、助かる。
これがさらに、より多くの人にとって役立つものになるならば…
より多くの人が喜んでくれ、より多くの人がお金を払ってくれるようになるだろう。
自分よし、相手よし、世間よしの「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動の結果として。
必要なものがつくり出され、それが一人でも多くの人の手に渡り、役立ち、喜ばれるようになる。そしてお金が流れるようになる。
また必要なものがつくり出され、それがさらに一人でも多くの人の手に渡り、役立ち、喜ばれるようになる。そしてより多くのお金が流れるようになる。
この循環は、はじめは小さなものかもしれないが、徐々に大きく、速くなっていく。
これからの時代において重要なことは、一人一人の個人やその集まり、地域などにおいて「必要なものは何か?」「つくり出すべきものは何か?」を問うことである。
その上で、「すでにある知識、技術、あるいは余剰となっているモノなどを活かしながら、いかにして新たに必要となるものをつくり出すか?」を問うことである。
そしてその問いに対する答えを見つけ出し、それを現実のものとしてつくり出していくことである。
そして必要なものがつくり出され、一人でも多くの人の手に渡り、役立ち、喜ばれ、お金が流れるようにしていくことである。
この循環をより大きく速くしていくことである。
それゆえ、新たな学校は、
①自分にとって必要なものは、自分の手でつくり出す(自分よし)
②自分の手でつくり出したものを、ある人にとって役立つものにする(相手よし)
③それをさらに、より多くの人にとって役立つものにする(世間よし)
という「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動を学べる場である必要がある。
そのためには、そこに集う人同士が、目的を共有し、異なる立場から視点を補い合い、ともに学び、実践し、協働していける場である必要がある。
すべてのはじまりは、一人一人の個人である。自分である。その集まりが自分たちである。
個人が自立してはじめて、地域が自立する。
地域が自立してはじめて、国家が自立する。
学校とは、「個人が自立する必要性」を自覚する場である。
その上で、「個人が自立するための手段」を学ぶ場である。
私たちは、すべての人がリーダーたりえる、と信じています。
どっひー &sing