「雇われ社長になるくらいなら、自分1人で社長をやった方がいいよ」
3年前、私がある人から言われた言葉だ。
この言葉は、その後の私の意思決定と行動に大きな影響を与えてくれている。
当時、私は社長を経験してみたい、と思っていた。
「人を雇うことが苦手だと思っているが、実際にやってみたらどうなのだろうか?」
「実際にやってみたら、結構やれるんじゃないか?」
「社長として経営できるんじゃないか?」
なんてことを思っていた。そして、その人に相談した。
「私、社長をやってみたいんです。どこか社長を募集している会社を知りませんか?」と。
いま思えば、すごく恥ずかしい。ずうずうしい以前に、向こう見ずというか、無責任というか。当時の私は41歳。にも拘らず、まるで子どものような質問を無邪気にしていた。
この無謀な質問に対して、その人が優しく答えてくれたのが、一番最初の言葉。
「雇われ社長になるくらいなら、自分1人で社長をやった方がいいよ」
この言葉には、後がある。
「私も社長を経験したけど、雇われて社長をやるとのと、自分で社長をやるのとでは、まったく違う。No.1とNo.2との間には、大きな壁がある。絶対自分でやった方がいいよ」
「それに、腰掛けで社長をやりたいという人に、社長をお願いする会社もないと思うよ。きっと」
そりゃそうだわな…
「私、ちょっと社長やってみたいんですー」「できるかどうかはわからないんですけど、一度やってみたいんですー」なんていう甘っちょろい考えを持っている人に、自分たちの会社の意思決定を託そう!なんて考える人たちがいるはずがない。自分だったら、絶対そんな人には任せない。
まぁ、そんな訳で、いま、私は自分で社長をやっている訳です。有難いことです。
いざ、自分で社長をやってみるとよくわかる。その人の言いたかったことが。
何かを意思決定する時。すべての責任は、自分に降りかかって来る。いい結果が出ても、悪い結果が出ても。すべての意思決定から生じる責任は、自分に降りかかって来る。もっと言えば、”自分が意思決定しなかったことによる責任”すら降りかかって来る。いわゆる不作為による責任である。
今日、人に会わなかった。営業しなかった。採用しなかった。システムを入れなかった。出張しなかった。シリコンバレーに行かなかった。月へ行かなかった。
実は、これらすべてが、いま、意思決定していることである。
誰かに、あれやれ、これやれ。あれどうなった?これどうなった?いつまでにやっとけ。と言われることをやること。それは、とても簡単。それさえやっておけばいいから。
大変なのは、誰もやれとは言わないが、いまやっておいた方がいいことをやること。
「いまやっておいた方がいい(かもしれない)こと」は無数にある。
先の例で言えば、今日、月に行った方がいいのかもしれない。もっと卑近な例で言えば、今日、歯医者に行っておいた方がいいのかもしれない。
自分で全責任を持って意思決定しようとすると、それはもう膨大な量の意思決定と直面する。とにかく無数の選択肢があるのだ。
No.1とNo.2の大きな違いは、”意識している責任の範囲”の違いにある。といまの私は考えている。したがって、No.1とNo.2の違いは、立場の違いではない。意識の違いである。
作為にのみ責任を持つのか?
不作為にも責任を持つのか?
アンドシング株式会社が考える次世代リーダーは、
“不作為の意思決定の結果についても責任を持てる人”
であって欲しい。
そして、自分もそんな人でありたい。
まだまだひよっこ社長ではありますが、いまそんなことを考えています。
TAKU &sing