「この仕事をしたら、お金をいくらもらえますか?」
そんな風に、仕事とお金を直接結びつけて考えるようになったのは、いつからだろうか?
むかしむかし。私が30歳になるまでの頃。仕事とお金は、分けられていた。
仕事は仕事。お金はお金。
喫茶店でのアルバイトにせよ、会計士受験専門学校での非常勤講師にせよ、監査法人での監査業務にせよ。
目の前のお客さんに対して、一番いいサービスをすること。ともに働く仲間と喧嘩しながらも楽しく一生懸命に働くこと。
仕事は仕事として、そういう姿勢で臨んでいた。
お金は、”その結果として”もらうものであった。
“いくらいくらのお金をもらうために”仕事をする、という感覚はなかった。
仕事は純粋に楽しく。お金は困らない程度に入ってくる。そんな感じだった。
仕事とお金が直結し始めたのは、30歳を越えた辺りからだったろうか?
30歳を越えた頃、私は、経営コンサルタントに転身した。東京から大阪へ戻ってきた。第一子を授かった。
職業を変え、職場と住む場所を変え、子どもを持った。少し経つとマネジャーになった。会社に新卒が入ってきて、後輩ができた。
それまでは、自分一人が楽しんで働いていたら、勝手にお金も入ってきた。
でも、子どもができ、後輩ができた頃から、”自分が稼がないと”子どもを養えない、後輩を養えない、という感覚が芽生えてきたように思う。
家族が生活するためには、いくらいくら必要。そのためには、いくらいくらの稼ぎが必要。だから、いくらいくらの売上が必要。なんてことを考えるようになった。
あるいは、新卒で入ってきた後輩に、経験を積んでもらうためには、いくらいくらの仕事(プロジェクト)が必要。だから、いくらいくらの受注が必要。なんてことを考えるようになった。
まぁ、当時はそこまで自覚していた訳ではないです。あえていま、その頃のことを振り返ってみると、そんな気がする、ということです。
でまぁ、何が言いたいかというと、”養う”という感覚が間違っていたな、ということ。特に、会社に新卒で入ってきた後輩たちのこと。
子どもはともかく、新卒入社の後輩たちは、立派な大人だ。社会人だ。”養う”とか”養ってあげる”という感覚が失礼だ。
彼(彼女)らは、20年近く、自分で決めて、何かを経験し、何かを身につけ、ここまでやってきた。この先も、自分で決めて、何かを経験し、何かを身につけていくだろう。
私が、彼らを”養ってあげる”必要などない。彼らが自ら成長していける環境があればいい。彼らを見守ればいい。時に手を差し伸べればいい。何より、私は私で成長していけばいい。そして時に、彼らに教えてもらえばいい。ともに働き、ともに学び、ともに育っていけばいい。
いまは、そんな風に考えている。
だからいまは、仕事は仕事。お金はお金。と再び分けて考えることができるようになってきている。
「この仕事をしたら、お金をいくらもらえますか?」
ではなく、
「この仕事をさせてもらえませんか?」
と
「お金は、いくらいくらでお願いできますか?」
の2つを、いったん別々の話として考えられるようになってきている。
仕事で合意できても、お金で合意できないかもしれない。
逆に、お金で合意できても、仕事で合意できないかもしれない。
だが、上記のいずれにせよ、仕事かお金のどちらかは合意できている。
はじめからその二つを直結させて考えていたら、いい仕事には巡りあえない。
仕事とお金の両方で合意できたら、最高!
たとえお金が多少合わなかったとしても、仕事がぴったりと合意できたのでたれば、それも最高!
ともに働き、ともに学び、ともに育つ。ともに稼ぎ、ともに想いを遂げる。
そんな仕事と仲間に出会えたら、最高だよなー、と思いながら、日々を過ごしています。
今日も、良き仕事と良き仲間との出会いがありますよーに♪
TAKU &sing
貴殿が小説家であれば、仕事とお金に関する上記の見解は、結構ですが、公認会計士として原価計算や経営管理のプロであれば、仕事に関しては、原価と対価の損益計算が原価計算を基礎に一説を述べるべきでしょう。 奥田
奥田様
コメントをいただき、ありがとうございます。
そうですね。最終的には、原価と対価の損益計算(原価計算)の観点から、「仕事」と「お金」の両者を統合すべきと考えております。そうでなければ、活動の継続もその効果の波及も望めないと思いますので。この点については、また日を改めて書きたいと思います。
TAKU &sing