不自由だと自由を求める。
自由だと不自由を求める。
完全なる自由はないし、完全なる不自由はない。
自由も不自由もすべては程度の問題である。
そして主観の問題である。
例えば、「学校には、自由がない」と言ったとする。だが、学校には自由時間がある。学校は不自由だが、その中には自由もある。
一方で、「この学校では、何を学ぶかを自由に決めていい」と言ったとする。はたして、人は何を学ぶべきかを自由に決めることができるのだろうか?
もっと具体的に言えば、例えば図画工作の時間。先生が「好きな絵を自由に描いてみましょう!」と言ったとする。はたして、何のとっかかりもない状態で、絵を描き始められる人は何人くらいいるのだろうか?
花の絵を描きましょう。このチューリップの絵を描きましょう。絵の具で描きましょう。写実的に描きましょう。
そんな一定の前提条件というか、ルールみたいなものがないと、描けないのかもしれない。
少なくとも私は、一定のルールがないと悩んでしまうだろう。
問題は、一定のルールを誰が決めるのか?だ。
先生が決めちゃうのか。生徒が自分で決めるのか。
他人が決めたルールである限り、不自由を感じてしまうだろう。
なんで、いま花の絵を描かなあかんねん。なんで、チューリップやねん。ダサいわ。オレはパンジーをクレヨンで描きたいねん。抽象的に描きたいねん。
みたいに。
不自由を強いられると、自由を求める。
じゃあ、「なんでもいいから、自分が好きな絵を自由に描いてみましょう」と言われると、それも嫌になる。
なんでもいいって何やねん。そんなんなんも描かれへんは。何を描くかぐらいは決めてくれや。と言いたくなる。
自由を与えられると、不自由を求める。
結局のところ、完全なる自由もなければ、完全なる不自由もない。
自由と不自由を決めるのは、ルールである。
大切なことは、そのルールを自分で決めることである。
少なくとも自分が納得してルールを受け入れることである。
日々、”自分でルールを決める訓練”が必要なんだと思う。
TAKU &sing