僕のふつうは、世間のふつうとズレている。
そう思ったのは小学校低学年の頃だ。
私は、東京で生まれ、父親の転勤とともに埼玉、神奈川、大阪、熊本、大阪と転々としていた。
熊本から大阪に戻って来たのは、ちょうど小学校入学時だった。幼稚園時代は熊本で過ごした。
小学校低学年の時、僕は変な言葉をしゃべっていた(らしい)。
そりゃそうだ。6歳になるまで、複数の地域を転々としていたのだから。
標準語のアクセントに、横浜弁(なぜか神奈川弁とは言わない)の語尾「じゃん」をつけつつ、熊本弁の「ばってん」などを多用しながら、大阪弁っぽいセリフをしゃべっていたらしい。
で、その当時の私にとって、そうやって話をしていることは、いたって「ふつう」だった。
だが、同じ大阪の小学校に通う友達には、「僕のふつう」の言葉は、通じないことが多かったようだ。
一言で言えば、変なのだ。
彼らからすれば、「僕のふつう」の言葉は、「世間のふつう」の言葉ではなかったのだ。
その時、私は、「僕のふつう」は、「世間のふつう」とズレている、と感じた。
この出来事は、私の心の中にずっと残っている。
取り立てて、悲しいとか憎いとかという感情もない。言葉を笑われた記憶もなければ、いじめられた記憶もない。
だけど僕は、妙に転校生を気にする子だった。小学校の時も、中学校の時も、そして社会人になってからも。
別の場所から不慣れな環境にやってくる人のことが、妙に気になってしまうのだ。
それはたぶん、「世間のふつう」が「その人たちのふつう」を封じ込めたり、暗黙的に排除してしまうことを恐れているからなのだと思う。
そして、自分自身もつねに恐れている。「僕のふつう」が「この人のふつう」を封じ込めたり、暗黙的に排除してしまってはいないだろうか?と。
だから僕は、いつも不安定なんだと思う。
不安というよりも不安定。
「自分のふつう」を決めつけないようにする努力は、一方で「自分の軸」を揺らがせる。
だが一方で思う。
「自分のふつう」なんてあるのか?と。
自分もつねに(複数の)他人との関係において、「ふつう」と「ふつうでない」を色分けしていった結果として、「自分のふつう」らしきものがあるだけなのではないか?と。
私は、以前、東京で働いていた時に、ある人からこんなことを言われた。
「土肥さんは、いつになったら関西弁を直すの?」と。
その時、僕は、正直、すごくムカっとした。
「直すって何やねん!」と。
「オレ、なんか間違ってんのか!」と。
もちろん、そんなことは言わなかった。だが、僕はすごくムカっとした。
そんなかんなある中、僕は東京で5年間、働いた。
大阪に戻れば、すっかり東京の人やなぁー、江戸の香りがするなぁーと言われ。
東京に行けば、「こんにちは」の一言だけで大阪の人ってわかりますねー、と言われ。
オレ、いったい何者やねん!と、悲しくもあり嬉しくもあり。妙に複雑な心境になった記憶がある。
いまでも、小学校低学年の頃の記憶は、僕の心の底に横たわっている。
自分はいったい何者なんだ?と。
だから時々思う。
オレはオレ様なんだ!と。
そして時々思う。
僕はいったい何者なんだろう?と。
ってことで、僕は、どちらかと言えば「自分は自分でいいじゃない!」という想いを強く抱く人です。
「僕のふつう」は、「世間のふつう」とズレている。
まぁ、それはそれで良いではないか。
世間なんてもんは、実態のないもんなんだし。
「僕のふつう」が、「あなたのふつう」とズレていてもそれはそれで「ふつう」のことだし。
もしも「僕のふつう」が、「あなたのふつう」と一致したならば、そんなめでたいことはない。
そして、「あなたのふつう」と「僕のふつう」が重なり、「私たちのふつう」が自然に生まれたら、そんな素晴らしいことはないな、と思っています。
だからなのかはわかりませんが、僕は「We are the world」が好きです。
どっひー &sing