昨日の学ぶログに対して、こんなコメントをくれた方がいた。
あなたのように、区分、区別、差別するような人間がいるから、マジョリティだマイノリティだの、くだらない議論が生まれる。
*詳細は、昨日の学ぶログ『パンダとレッサーパンダ。マジョリティとマイノリティ。』のコメント欄をご覧ください。
このコメントをいただいて、「確かに!」と思った。
パンダとレッサーパンダを区分、区別、差別していたのは、僕自身なのだ。
また、マジョリティとマイノリティを区分、区別、差別しているのも、私自身の心なのだ。
ってことで、私自身としては、誰かや何かを見る時に、「その人そのもの」「その物そのもの」を「何ものとも比較せずに」ただ「あるがままに観る」ように心がけよう!と改めて思いました。
パンダはパンダ。レッサーパンダはレッサーパンダ。
もっと言えば、同じパンダであっても、上野動物園のシャンシャンはシャンシャン。アドベンチャーワールドの結浜(ゆいひん)は結浜。レッサーパンダも一匹一匹が異なる。
誰かや何かを見る時。ついつい、すでに知っている何かと比較してしまう。あるいは、すでに知っている枠組みで、ついつい、区分、区別(場合によっては差別)してしまう。それも知らず知らず、無意識のうちに。
いやー、よっぽど気をつけていないと気づけないんでしょうね。自分が無意識に持ってしまっている思考の枠組み、って。
その人そのもの、その物そのものを、ただあるがままに観る。
「ほんと、そんなことできるんかなぁー」と思う一方で、つねに「そうありたい」と思う。
人は、一人一人異なる。
人種・性別・年齢・職業・肩書きなどにもとづく定義は、所詮は一般的な枠組みにもとづく定義に過ぎない。その人そのものを説明する定義にはなり得ない。
僕の大好きな『星の王子さま』には、こんな文章が出てくる。少し長くなるが、岩波少年文庫版より引用する。
おとなというものは、数字がすきです。新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。<どんな声の人?>とか、<どんな遊びがすき?>とか、<チョウの採集をする人?>とかいうようなことは、てんできかずに、<その人、いくつ?>とか、<きょうだいは、なん人いますか>とか、<目方はどのくらい?>とか、<おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか>とかいうようなことを、きくのです。そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです。
だけれども、ぼくたちには、ものそのもの、ことそのことが、たいせつですから、もちろん、番号なんか、どうでもいいのです。
僕は、いつもこの文章を読むたびに感銘を受ける。
そして思う。
本当に大切なものが見える大人になれているのだろうか?
と。
あなたは、どんな声の人ですか?
あなたは、どんな遊びが好きですか?
あなたは、チョウの採集をしますか?
あなたは、どんな人ですか?
わたしは、どんな人ですか?
つねに「ものそのもの、ことそのこと」を大切にできる人でありたいなぁー、と思います。
そして、できうる限り、無用な区分、区別、差別をしない人でありたいなぁー、と思います。
マジョリティでもなく、マイノリティでもなく。
ただただ一人の人間として、そう思っています。
感謝!
どっひー &sing