私は、甘納豆は好きだが、ふつうの納豆は嫌いだ。
そこに理屈はない。
納豆は臭い。ネバネバする。糸引く。
私が納豆を嫌いな理由。いろいろと挙げることはできる。
だが、その理由はすべて後付け。
私は納豆が嫌いだ(と感じている)。
以上!!!
とは言え、一方で、
「私は納豆が嫌いだ」と他者に表明することは、また別の話。
あえて、「私は納豆が嫌いだ」と公言する必要はない。
黙って自分の心の中にしまっておけばいい。
あえて公言するとすれば、そこには何らかの意図があるはず。
「あっ、私も納豆嫌い〜」と共感してもらいたいのかもしれない。
「あっ、だったらオレ、納豆食うの止めるわ」と行動を変えてもらいたいのかもしれない。
単に「えっ、私は納豆好き!セロリは嫌いだけど」と他愛のない会話のネタにしたいだけなのかもしれない。
あるいは現実的に、「あっ、じゃあ納豆以外のメニューがあるお店を予約しておきますね」と言ってもらいたいのかもしれない。
いずれにせよ、「自分の嫌い」を他者に表明することには、何らかの意図がある。狙いがある。
それはモノだけに限らない。
人についても同じではないだろうか。
「私はあなたが嫌いなんです」
「私はこういうタイプの人が嫌いなんです」
そう他者に表明する以上、そこには何らかの意図がある。狙いがある。
いったいどんな狙いがあって、「自分の嫌い」を他者に表明しているのか?
あるいは、「自分の好き」を他者に表明しているのか?
「私は歌を歌うことが好きだ!」
と、(このブログ上でも)私がそう表明する狙いは何か?
歌好きの人に集まって来て欲しいのかもしれない。
歌をビジネスにしていきたいから協力してもらいたいのかもしれない。
はたまた、2025年に夢見ている武道館ライブに来てもらいたいのかもしれない。
武道館ライブをより楽しくするために「あっ、私はダンスを踊りたい!」と言ってもらいたいのかもしれない。
あるいは、単に「あっ、私も歌を歌うの好き〜」と共感してもらいたいだけなのかもしれない。
もしかしたら、「一緒に歌を歌うことで、世界にたくさんの幸せを創り出していきませんか?」という提案に乗ってもらいたいのかもしれない。
実際には、これらすべてと、さらにそれ以上の狙いが私にはあるのだろう。
いずれにせよ、私が「自分の好き嫌い」を表明するのは人に対してだ。
ということは、人に対して、何らかの感情、思考、行動の変化を起こしてもらいたいと思っているはずである。
それは、私の利己心から出ているものかもしれない。
もしかしたら、私の利他心から出ているものかもしれない。
まぁ、実際のところは、自分でもあまりわかってはいないのですが…
できれば、利己心と利他心、両心のバランスがしっかりと取れていることを願ってはいます。
みなさんは、何が好きですか?
何が嫌いですか?
もしそれを他者に表明するとしたら、その狙いは何ですか?
どっひー &sing