【過去に囚われない】未来への意思決定と埋没原価についてのお話

かつて意思決定のための会計を学んだ時、埋没原価という概念を学んだ。

埋没原価(サンクコスト)とは、どの選択肢を採用してもそれとは無関連に発生する原価(すでに支払ってしまったお金)のこと。過去の投資などがそれに当たる。

GLOBIS知見録より引用

例えば、資格を取るための授業料として、専門学校に50万円支払ったとする。しかし、残念ながら、資格試験には合格できなかった。来年も資格を取るための勉強を続けるか。それとも、諦めて勉強を止めるか。どちらを選ぶにせよ、過去に支払った50万円が戻ってくることはないとする。

将来に向けた選択肢は2つ。

1. 勉強を続ける

2. 勉強を止める

さて、この意思決定をするに際して、過去に専門学校に支払った50万円をどう考えるか?

この、過去に支払った(戻ってくることのない)お金を埋没原価という。

埋没原価は、将来の意思決定を左右しない。

なぜならば、将来、どのような選択肢を選ぶとしても、変わることのない、すでに終わった話だからだ。

したがって、先の例で言えば、勉強を続けるか否かの意思決定をする際しては、過去に専門学校に支払った50万円(埋没原価)を考慮する必要はない。

過去に支払った50万円のことは、すっぱり忘れて、いまから(いまなら)どうするか?だけを考えて意思決定しよう!ということになる。

しかしながら、だ。

現実の意思決定は、必ずしも論理的ではない。人間の心理が影響するからだ。

「過去の努力を無駄にしたくない」

「ここまでやった以上、いまさら止められない」

「せめて過去に費やしたお金(と時間)くらいは取り戻したい」

などなど。

どうしても過去に囚われてしまう。

失われた過去を取り戻すことはできないにもかかわらず。

特に、時間は未来に向かってしか流れていない。

いまから未来に向けての意思決定は、まさに「いまから」のことだけを考えて意思決定すればいい。

これまでどうだったとか、あの時どうだったとか。

そんなものは考えなくていい。考える必要はない。

とは言え、それでも過去に囚われてしまうのが人間なのかもしれない。

実際、私自身、よく思う。

「ここまで頑張ったんだからなー」

「いまさら止めるのもったいないしなー」

「もうちょっと頑張ってたらいいことあるかもしれないしなー」

「せめて過去に〇〇した分の元を取れるくらいのところまでは続けるか…」

と。

特に、かつて会社を退職する前がそうだった。

このまま会社に居続けるか止めるか。

それを考える時、どうしても過去に囚われていた。

必ずしも、いまから未来のことだけを考えることはできなかった。

過去に自分が費やした努力も時間もお金も。それらすべてが埋没原価であるにもかかわらず。

どうしても過去に囚われてしまっていた。

失ったものに対する元を取ろうと考えていた。

だけど、いま考えると、こう思う。

「失ったものって何?」

「もともと生まれた時には何も持っていなかったはずなのに、いったい何を失ったんだろう?」

「むしろ得てきたものの方が多いんじゃないの?」

「過去に自分が費やした努力と時間とお金のおかげで得てきたもの。頂いてきたもの。それらを未来に活かしていけばいいだけなんじゃないの?」

「失った(ように見える)ものではなく、得てきたものに着目すればいいんじゃないの?」

と。

まぁ、こう言ってみたところで、なかなかそう単純には割り切れないのが自分の心なのではありますが…

でも、過去に失ったものではなく、得てきたものに着目してみるのは、良いと思います。

例えば過去1年間。勉強を続けてきたとしたら、必ず何かを得ているはず。

あるいは、過去1年間。仕事を続けてきたとしたら、必ず何かを得ているはず。

それら得たものは、失ったものではなく、埋没原価でもなく、これから未来に活かせるもの。

これからどんな未来に向かうにせよ、これまでに得てきたものを自覚し、それをしっかりと自分の周りに配置しておくことは、とても有用だと思います。

ぜひ一度、これまでに得てきたものの数々に着目してみてはいかがでしょうか?

ちなみに私の場合は、これまでに得てきたものの大部分は、他者からの戴き物でした。

実際、自分一人の力で得てきたものなんてほとんどないんですよねー

これは私にとって悲しくもあり嬉しくもある真実です。

どっひー &sing

足湯ライブ!

今週月曜日。個人のfacebookで次のような投稿をした。

大人が好きなことをやろう!応援しよう!みたいなコミュニティをつくるべく、明日5日(火)18時から北浜で「やりたいこと会議」をやるので、ご興味ある方ご一報ください

そして昨日、「やりたいこと会議」をやった。

集まったのは私を含め3人。

場所は北浜のモスバーガー。

18時スタートで、3時間におよぶ、ゆるーい対話。

結果、「足湯ライブ!」をやることに決まった(決めた)。

勝手に想像している場所は、京都の嵐山。嵐電の駅の中にある足湯。

集まっているのは、人種・性別・年齢・職業・肩書きも様々な老若男女。

なんせ足湯ですから。

すべての人をまるっと受け入れてくれる。

そこでライブをやる。ライブは音楽だけじゃない。歌う人もいれば、踊る人もいるし、詩を朗読する人もいる。なーんにもしない、というライブもあるかもしれない。

電車も貸し切りたい。

周りのお店の人たちともコラボしたい。

たまたまそこで出会った人たちと即興で何かをやりたい。生み出したい。

漠と考えているのは、

言葉以前の世界を体感したい

ということ。

ノンバーバルコミュニケーションをベースにした、異文化コミュニケーション。

いや、ノンバーバルというよりは、ハートなコミュニケーション。

なんせ足湯ですから。

はだしをお湯で繋いでくれる。

言葉以前の世界で心を繋ぐことができれば、人種・性別・年齢・職業・肩書きなんて、かるーく超えて人が繋がれるのではないか。

なんとなーくの共感状態が生まれ、そこはかとなーいリズムが流れるのではないか。

それがベースになることで、一人一人が自由に自分を表現できるようになるのではないか。

そんな風に自由な状態になれたら、何か不思議なものが「ぽわっ」と生まれて来るんじゃないか。

生まれて来たらいいなぁー♪

なんて妄想しています。

まぁ、今日のブログで何が言いたいのか、というとよくわかりませんが、

僕は足湯ライブをやりたいと思った!

そしてそう思った時には仲間がいた!

ということです。

何より、「大人が好きなことをやろう!応援しよう!みたいなコミュニティをつくるべく」はじめた「やりたいこと会議」でしたが、よくよく考えたらたら、3人集まった時点で「すでにコミュニティができていた」ということです。

これ、昨日来てくれた方に言われて気づきました。

意外な盲点…

僕は「なんかでっかいコミュニティをつくりたい!」とか、「たくさんの人を巻き込みたい!」と思っていたんでしょうね。所詮は自己顕示欲。

だから、目の前にいてくれる人のことをしっかりと見ていなかった。

そうじゃない。何かがまだ足りないんだ、とぼんやりと思っていた。

でもそうじゃないんですよね。

自分が心からやりたい!と思うこと

そしてそれに共感してくれる仲間

それはもうここにあるんでしょうね。

足湯ライブ!

なぜこれが浮かんだのかは、自分でもまったく意味不明だけど、少なくとも想像するだけでワクワクします。

だって、みんなで集まって、ズボンやスカートの裾をたくし上げて、はだしで足湯ですよ。

絶対、心温まるでしょ♪

これ、成功したら、箕面とか白浜でもやりたい!

いつやるの?

夏でしょ!

協力していだける方、大募集中です!

できるかどうかは後で考える!

どっひー &sing

自分にとって本当に大切なことをやる

昨日一日で、随分と心境の変化があった。

変化のプロセスをすっ飛ばして、結論だけを述べると、

あーだこーだと御託を並べている暇があったら、「自分」と「自分の大切な人」にとって本当に必要だと思うものを創り続けるために時間を割こう!

ということだ。

僕は、なんだかんだ言って、何かを批判していた。

いまの経済の仕組みだとか、社会の仕組みだとか。

あるいは、満員電車だとか、個性を失わせかねない働き方だとか。

何かを批判する、と言うことは、暗黙的に誰かを批判する、ということだ。

そして、その批判に自分の時間を割くということは、その間、自分では何も創り出さない、ということだ。

もしかしたら、何かを批判している自分自身が一番無駄な存在なのかもしれない、と思った。

何かを批判すること、そのものが問題なのではない。

問題は、何かを批判しているその間の時間、「自分は何も創り出していない」ということだ。

ってことで、

あーだこーだと御託を並べている暇があったら、「自分」と「自分の大切な人」にとって本当に必要だと思うものを創り続けるために時間を割こう!

という気持ちになった。

そして、私の大切な友人からこんな言葉をもらった。

みたい世界は 自分でつくる

その人オリジナルの言葉なのか、どこかからの引用なのかはわからない。

でも、すごくいい言葉だなぁー、と思った。

そう。

みたい世界は自分でつくるのだ!

キョロキョロよそ見している暇があったら、いまここから始めるのだ!

どこかにいる誰かを探すのではない。

いまここにいる自分と

いまここにいる自分にとって大切な人と

ともに

始めることだ。

いつかできたらいいなぁー、と願っていることは、いまから始めないとでき上がることはない。

僕は、いつか自作の歌を人前で歌えたらいいなぁー、と願っている。

だから、シンガーソングライター教室を始めた。

そして、自分の子どもたちのために、いつか実践を通じてビジネスの立ち上げ方を学べる場をつくれたらいいなぁー、と願っている。

だから、私はそういう場をつくり始める。

願いは叶えられるのを待っている

あとは行動するだけだ。

どっひー &sing

区分、区別、差別。くだらない言説。

昨日の学ぶログに対して、こんなコメントをくれた方がいた。

あなたのように、区分、区別、差別するような人間がいるから、マジョリティだマイノリティだの、くだらない議論が生まれる。

*詳細は、昨日の学ぶログ『パンダとレッサーパンダ。マジョリティとマイノリティ。』のコメント欄をご覧ください。

このコメントをいただいて、「確かに!」と思った。

パンダとレッサーパンダを区分、区別、差別していたのは、僕自身なのだ。

また、マジョリティとマイノリティを区分、区別、差別しているのも、私自身の心なのだ。

ってことで、私自身としては、誰かや何かを見る時に、「その人そのもの」「その物そのもの」を「何ものとも比較せずに」ただ「あるがままに観る」ように心がけよう!と改めて思いました。

パンダはパンダ。レッサーパンダはレッサーパンダ。

もっと言えば、同じパンダであっても、上野動物園のシャンシャンはシャンシャン。アドベンチャーワールドの結浜(ゆいひん)は結浜。レッサーパンダも一匹一匹が異なる。

誰かや何かを見る時。ついつい、すでに知っている何かと比較してしまう。あるいは、すでに知っている枠組みで、ついつい、区分、区別(場合によっては差別)してしまう。それも知らず知らず、無意識のうちに。

いやー、よっぽど気をつけていないと気づけないんでしょうね。自分が無意識に持ってしまっている思考の枠組み、って。

その人そのもの、その物そのものを、ただあるがままに観る。

「ほんと、そんなことできるんかなぁー」と思う一方で、つねに「そうありたい」と思う。

人は、一人一人異なる。

人種・性別・年齢・職業・肩書きなどにもとづく定義は、所詮は一般的な枠組みにもとづく定義に過ぎない。その人そのものを説明する定義にはなり得ない。

僕の大好きな『星の王子さま』には、こんな文章が出てくる。少し長くなるが、岩波少年文庫版より引用する。

おとなというものは、数字がすきです。新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。<どんな声の人?>とか、<どんな遊びがすき?>とか、<チョウの採集をする人?>とかいうようなことは、てんできかずに、<その人、いくつ?>とか、<きょうだいは、なん人いますか>とか、<目方はどのくらい?>とか、<おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか>とかいうようなことを、きくのです。そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです。

だけれども、ぼくたちには、ものそのもの、ことそのことが、たいせつですから、もちろん、番号なんか、どうでもいいのです。

僕は、いつもこの文章を読むたびに感銘を受ける。

そして思う。

本当に大切なものが見える大人になれているのだろうか?

と。

あなたは、どんな声の人ですか?

あなたは、どんな遊びが好きですか?

あなたは、チョウの採集をしますか?

あなたは、どんな人ですか?

わたしは、どんな人ですか?

つねに「ものそのもの、ことそのこと」を大切にできる人でありたいなぁー、と思います。

そして、できうる限り、無用な区分、区別、差別をしない人でありたいなぁー、と思います。

マジョリティでもなく、マイノリティでもなく。

ただただ一人の人間として、そう思っています。

感謝!

どっひー &sing

パンダとレッサーパンダ。マジョリティとマイノリティ。

小学生の頃、上野動物園にパンダを見に行ったことがある。ものすごい行列だったと記憶している。

そのせいなのか、僕は動物園に行くたびに思う。

パンダには人だかりができるのに、なぜレッサーパンダには人だかりはできないのだろうか?

と。

レッサーパンダ、可愛いですよ。顔も動きもカラーリングも。

でも、なぜかパンダ(正式には、ジャイアントパンダ)ほどには人気がない。

僕にとっては、すごい不思議。

パンダは並ばないと見られない。

レッサーパンダは並ばなくても見られる。

「パンダの何が人を興奮させるのだろう?」といつも考えてしまう。

私なりの仮説は3つ。

1. パンダの顔はキャラクターっぽい

2. パンダは希少性があるっぽい

3. パンダはみんなが好きと言っている

これをレッサーパンダに当て嵌めてみると、実は1も2も該当する。むしろレッサーパンダの方が絶滅危機度は高いようだ。

となると、レッサーパンダがパンダに負けるのは、3のみ。

みんなが好きと言っているかどうか。

ということで、私の仮説にもとづけば、もし今日からみんなが「レッサーパンダ好き!」と言うようになれば(例えば、ツイッターでバズれば)、レッサーパンダにも行列ができるようになるはず。

じゃあ、どうすれば今日からみんなが「レッサーパンダ好き!」と言うようになるか?と言うと…

まずはじめに立ち上がるべきは、「隠れレッサーパンダ好き」だろう。

いまインストグラムで「#レッサーパンダ」のハッシュタグを検索してみたら、「118,635件」と出てきた。ツイッターだと「920Tweets」と出てきた。

まずスタートはここから。

これまで、「パンダ好き」(の方が一般的だ、という世の中の風潮)の影に隠れて言えなかった一言。

「私は、パンダよりもレッサーパンダの方が好きなんだ!」

この一言を言えるか否か。

レッサーパンダ、さらにはレッサーパンダ好きが市民権を得られるかどうかは、サイレントマジョリティが声をあげて団結できるかどうか?にかかっているのではないだろうか。

なーんてことを、僕は子どもの頃からずっと考えていた。

サイレントマジョリティという言葉を知ったのは大学生の頃だったような気がする。

マイノリティは、サイレントである限りでマイノリティである。たとえマイノリティであっても、一人一人が声をあげて団結すれば、それはある一定規模のマジョリティになりうる。

僕は、ずっとそういうことを考えてきた。

とは言え、一方で、自分でもよくわからないことがある。

僕は、なぜマイノリティにこだわるのか?ということである。

おそらく僕は、世間一般に言う、いわゆるマイノリティではない、と思う。一応、Wikipediaの「社会的少数者」マイノリティのURLを挙げておく。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/社会的少数者

だが一方で、僕は、マジョリティだとも思わない。

マイノリティでもなく、マジョリティでもない僕は、いったい何なんだ?

これはこれで、まぁ、そこそこの悩み、というか自己のアイデンティティの収まりの悪さを感じる訳です。

でもまぁ、それでも最近は、「自分は自分だし。マイノリティでもマジョリティでもいいじゃない!」と考えるようになってきた。

だって、マイノリティとマジョリティの間には、とてつもないグラデーションがある訳だし。ある人たちの集まりでは自分がマイノリティだったとしても、別の人たちの集まりでは自分がマジョリティになることがある訳だし。

とどのつまり、みんな一人一人違うし!

ってことは、マイノリティだのマジョリティだのという括り方は便宜的な括りに過ぎないってこと。

誰かが何かを意図して、「こう括ろう!」とするから、ある種の括りができる。そして、マイノリティとマジョリティができる。レッサーパンダ好きは、パンダ好きの影に隠されることになる。

レッサーパンダだって、パンダだって、どっちも可愛いですよ。

ちなみに、僕はツキノワグマも好きです。カマキリとカタツムリも好きだし。

自分の好きなものくらい、自由でいいやん!

他の人と違うものを好きでもいいやん!

誰に迷惑をかけるでもなし。

自分が本当に好きなものを「好きだ!」と言える。

ただそれだけのことで、世界は変わるんじゃないかなぁー、なんて思っています。

どっひー &sing

地獄の運動会

今日は息子の運動会。

運動会といえば、『天国と地獄』。

かけっこの時に流れる定番曲だ。

一方、嘉門達夫さんの替え歌の一つに、『地獄の運動会』という曲がある。

原曲は『天国と地獄』。歌詞は、「運動会なんてクソくらえ!」という内容。運動が苦手な子の運動会に対する恨みつらみが歌詞になっている。

とても面白い。

替え歌って面白いなぁー、と改めて感じる。

で、運動会の話。

私にとって運動会は、行進させられる。並ばされる。立たされる。団体行動させられる。競争させられる。何かと我慢させられる。というようなイメージ。

とにかく「型に嵌められてやらされる感」がたっぷりある。

運動会は嫌いではなかった。

だが、団体行動は嫌いだった。

長い時間をかけて、行進の練習をして。

いったい誰のための運動会なんだろう?と思った。

行進って、何のためにやるんですか?

大人になってから、いったい何の役に立つんですか?

なーんてことを、大人になった今でも思う。

子どもの頃に運動会をやるなら、「子どもたちの」「子どもたちによる」「子どもたちのための」運動会をやればいいんじゃない?と思う。

行進するかしないかも子どもたちが自由に決める。やっぱオリンピックの開会式に憧れるから、行進しようぜい!となれば行進すればいい。ユニフォームも揃えたらいいし、聖火リレーをやるならそれも良し。

運動会の出し物も全て子どもたちが自由に決める。組み立て体操よりも、パラパラがいいならパラパラを踊る。100m走は、あえて123m走にしてみる。リレーのバトンはチクワ。チクワを受け渡ししていって、最後はゴボウに刺す!みたいな。

せっかく長い時間をかけて練習するのであれば。

せっかく出し物としてみんなに見せるのであれば。

自分たちが「本当にやりたい!」と思えることに取り組む方が断然いいのになぁー、と思う。

かけっこの音楽も『天国と地獄』にこだわる必要もない。

スポーツ科学を駆使すれば、子どもたちの走るスピードを最速化してくれるような音楽も見つかるだろう。

いっそ、123m走にちなんだ、自分たちのオリジナルソングをつくったっていい。例えば、BPM(Beats Per Munite)123で。

もしBPM123だとスピードが遅すぎるなら、一番ノリノリで走った人が優勝!みたいな競技にしちゃってもいい。

重要なことは、「誰の」「誰による」「誰のための」運動会なのか?だ。

決して、父兄のための運動会ではないだろう。まして先生のための運動会でもないだろう。

子どもの頃から。

型に嵌めるか。

自由な発想を伸ばしてあげるか。

できることなら、自由な発想を伸ばしてあげたいなぁー、なんて思っています。

もっと自由に!

もっと楽しく!

どっひー &sing

【作詞作曲の原点】自分オリジナルの曲をどうやってつくり出すか?

私は、小学生の頃から、漠然とシンガーソングライターに憧れていた。

過去、何度も何度も自作の曲づくりに挑んできた。

だが、一度も人前で披露できる曲は完成しなかった。

「これは自分で作った曲だ!」と自信を持って言える曲を生み出すことができなかったからだ。

例えば、ふとメロディーが浮かんだ時。

「このメロディー、どこかで聴いたことがある気がするなぁー?」と思ったり。

「こんなメロディー、どこでも聴いたことがないけど、大丈夫かなー?」と思ったり。

似てて不安。似てなくて不安。

自分オリジナルをつくりたいからこそ、何かに似ていると不安になる。

一方で、自分オリジナルをつくりたいくせに、何にも似てなくて不安になる。

自由になりたい。でも、何か拠り所がないと不安。

私が自作の曲づくりに挑む過程は、自分との戦いであった。

そして、これまでずっと自分との戦いに負け続けてきた。

「私には、自分オリジナルの曲はつくれないのかもしれない」

そう思い続けてきた。

だが、私にとって、自分オリジナルの曲をつくることは、私のアイデンティティを確立することと直結している。

したがって、私が自分オリジナルの曲づくりを諦めることは、自分自身を諦めることであり、私自身を生きることを諦めることに直結してしまう。

だからこそ、私はいまだに自分オリジナルの曲づくりにこだわっている。

シンガーソングライターであることにこだわっている。

そして、シンガーソングライター教室にこだわっている。

たかが曲づくり。されど曲づくりである。

そんな中、先日、ようやく自作の曲が完成した。

長さはちょうど60秒。亡き父に贈る曲。

ようやく「自分オリジナルだ!」と言い切れる曲を書けた。

なぜならば、「私が」「私の父を想って」「私の父に伝えるために」書いた曲だからだ。

この曲は、他の人には絶対に書くことができない。

もし仮に、私以外の人(例えば、私の母や兄妹)が「私の父を想って」「私の父に伝えるために」曲を書いたとしたら、まったく別の曲が生まれるだろう。なぜならば、私と私以外の人とでは、私の父に対して抱いている想いや思い出がまったく異なるからだ。

私が私の父に対して抱いている想いや思い出は、私の心の中にしかないものである。その想いや思い出は、私だけが持っているものであり、私にしか表現できないものである。

ゆえに、私が私の亡き父に贈る曲は、私にしかつくれない曲であり、自分オリジナルの曲である。

逆に言えば、

誰もが自分オリジナルの曲をつくれる

ということだ。

誰を想い、どんな思い出をもとに、何を伝えるかは、自由。

大切なことは、「具体的な」相手を想定することだ。

「その人」のことをしっかりと想定し、想像することだ。

「その人」は、父でも、母でもいい。妻でも、夫でも、子どもでも、友達でもいい。あるいは、ペットでも、大切な物でもいい。

「その人」のことを想い、「その人」との思い出をもとに、「その人」に伝えたいことを言葉にし、それを詩にし、曲にする

これが、いまの私が掴んだ「自分オリジナルの曲づくり」のコツである。

私はずっと、「売れそうな曲をつくりたい!」とか、「カッコいい曲をつくりたい!」とか、「みんなが認めてくれそうな曲をつくりたい!」と漠然と思い続けてきたような気がする。

だが、「何のために自作の曲をつくるのか?」をよくよく考え直してみると、

「自分」と「自分にとって大切な人」との「関係」をより良くしたいから

というのが私なりの答えなのではないか、という気がしてきた。

であれば、私は、これからどんどん自分オリジナルの曲をつくっていける!

だって、少なくとも「自分にとって大切な人」の数だけ曲をつくることができるから。

さらに、「その人」への「想い」「思い出」「伝えたいこと」がたくさんあればあるほど、曲をつくることができる。

なんて素敵なんだ!と素直に思う。

これであれば、私は死ぬまで曲づくりのネタに困ることはなさそうだ。

仮に曲づくりのネタに困る時が来るとしたら、それは、

私が私以外の誰のことをも大切に想わなくなった時

である。

怒っても、泣いても、苛立っても、喧嘩をしても、

誰かのことを想える自分である

ということは、とても素敵なことだと思います。


次回の『シンガーソングライター教室(超入門)』は6月23日(土)16時00分〜17時30分。テーマは、「お祝いミニソングをつくろう♪」です。

「自分にとって大切な人」の誕生日や結婚式などのお祝いに。

「その人」のことを想って、一緒にミニソングをつくってみませんか?

*講座内容のご確認とお申込みはコチラ(こくちーずプロ)から。

一人一人の心の中に眠る自分オリジナルの想い。それが曲になったら素敵だろうなぁー♪

なんて思っています^ ^

どっひー &sing

昔の常識、いまの常識。知らず知らずの思い込み

最近、鼻歌を録音したら、"勝手に"コード、ベース、ドラムをつけてくれるアプリを見つけた。

『Music Memos』

無料のiPhoneアプリだ。

*どんなアプリかは、このURLの記事とかをご参照ください。

https://app-liv.jp/1036437162/

このアプリ。実際に使ってみると、なかなかすごい!

ただの鼻歌が曲になる!

どんな鼻歌でも曲になる!

歌う鼻歌は、自分が奏でる必要があるけど、それさえできればあとはそれっぽい曲になる。

「すげーっ!」と思った。

『Garage Band』をはじめて使った時にも、「げげっ!スマホ一台でここまでできるのか!」とびっくりしたけど、それはむしろ機能性の高さに感動した。

でも、『Music Memos』は、曲づくりのあまりの手軽さにびっくりした。

いつのまにかアプリはここまで進化しているんですね。いやはや。

私が、はじめてシンセサイザーを買ったのは高校入学前。ちょうど消費税が導入される直前だった。

そのシンセサイザーはYAMAHAV50というオールインワンシンセ。

たしか、15万円くらいした。当時の私からしたら破格の値段だ。いま思えば、そのお金をどうやって捻出したかの記憶はないが、自分でお金を出して買ったと思う。

友達と一緒に大阪心斎橋のMIKI楽器まで買いにいって、めちゃくちゃ重い(10kg以上ある)のに、えっちらおっちらと抱えて持って帰ってきたことを覚えている。

そのV50でできることといえば、

  • 鍵盤で何種類もの音を鳴らせる(キーボード機能)
  • ドラムを打ち込んで自動で鳴らしてくれる(リズムマシーン機能)
  • ドラム、ベース、ピアノなどの音を順に打ち込んでいくことで曲をつくれる(シーケンサー機能)
  • できた曲は自動演奏してくれる
  • その曲と一緒に、キーボードを弾くこともできる
  • 音そのものを新しくつくり出すこともできる(サンプリングではなく波形をつかった音づくりのみ)

などなど。

それが当時は15万円。

でもいまは、上記のすべてを『Garage Band』だけでできる。つまり、スマホ一台だけでできる。そしてアプリは無料。加えて、『Music Memos』みたいなアプリまである。

しかも、つくった曲は、簡単に他のアプリと共有できる。友達と共有することもできる。友達と共同でさらによい曲をつくり出すこともできる。

いや〜、時代はとてつもなく進化していますね。

まぁ、私の高校時代から30年経っているから当然なんでしょうけど。それでも40歳を過ぎて音楽の趣味を再開するまでは、そんなことに気づきもしていませんでした。

先日、「最近の中高生は、学校の授業なんて聞いてない。知識は、もっぱらyoutubeで手に入れている。ゲーム、音楽、料理などの趣味に限らず、学校の勉強もすべてそう。勝手にyoutubeを検索して勝手にできるようになっている」と聞いた。

たしかに、youtubeの方が便利でわかりやすく自分のペースで学べるから良さそうだ。

下手に学校や塾に行くくらいなら、『スタディサプリ』の方がいいのかもしれない。

これからの時代。学ぶ内容にせよ、学び方にせよ、昔の常識に囚われていると、損ですよね。

だって、鼻歌が簡単に曲になるんですから。これ、誰でも曲をつくれる。幼稚園児だってつくれる。いや、産まれたての赤ちゃんの泣き声だって、『Music Memos』に録音したら曲にしてくれる。

ドレミがどうとか、四分音符がどうとか、ト音記号がどうとか。そんなことを学ぶ前に、自分が鼻歌を歌ったら曲になるのだ。

「もっといい自分の曲をつくりたい!」という熱意を持って音楽の授業を受ける子と、「自分とは関係ないのになぁー」と思って音楽の授業を受ける子。

どちらが同じ授業から多くの学びを得られるかは明らかだろう。

作曲は特別な人がやることという時代から。

誰でも自分の曲をつくれる時代へ。

ゲームも音楽も料理も学校の勉強も。

学び方だけでなく、学ぶ内容も。

昔の常識に囚われず。

知らず知らずの思い込みに囚われず。

せめて、いまの常識くらいはキャッチアップしておきたいなぁー、と思います。

それは自分のためでもあり、子どもたちのためでもある。

そして願わくば、新しい常識を生み出す側になれたらいいなぁー、とも思います。

まずは、

アンラーニング!

ですね。

よろしければ、アプリもお試しあれ♪

どっひー &sing

感情はどんな姿形をしているのか?

音楽は感情を表現したものである

と仮定したとすると、

音楽を創り出すためには、その元になる感情を掴み取る必要がある

ということになる。

いわば、音楽が花で、感情が種と言えるだろう。

では、感情とは、どんなものなのだろうか?

好きな人が喜んでいる顔を見た時。

好きな人が悲んでいる顔を見た時。

他人を誹謗中傷する愚痴を聞いた時。

相手を怒鳴りつける声を聞いた時。

ヘドロだらけの川の臭いを嗅いだ時。

かぐわしい花の香りを嗅いだ時。

どんな感情が心に現れるのだろうか?

その感情はどんな姿形をしているのだろうか?

色で例えると、赤色?青色?黄色?

形で例えると、四角?丸?三角?

言葉で例えると、おっ?げげっ?うわーっ?

流れで例えると、上り?下り?フラット?

音で例えると、キラキラ?ガシャガシャ?ゾワゾワ?

これまで、「感情そのもの(の姿形)を掴み取ってみよう!」という発想がなかった。

だが、音楽のメロデーづくりを考える上では、どうしても感情そのものを掴み取る必要があるような気がする。

ってことで、今日は、

感情はどんな姿形をしているのだろうか?

という問いを掲げながら、一日を過ごしてみたいと思っています。

今日も良い一日を!

今日も良い感情を!

どっひー &sing

「自分の好きを諦めないこと」は、「自分を脱ぎ捨てていくこと」

自分が好きだと思っていることは、本当に自分の好きなことなのか?

先日の『ジブンノシゴトのつくり方教室』第一回:自分の好きを見つめ直そう♪では、この問いを掲げるところからスタートしました。

今日は、先日の講座の模様を簡単にレポートしながら、冒頭の問いに対する「答えらしきもの」と「日々自分が取り組んでいけば良さそうなこと」をお伝えしたいと思います。

1. はじめの問いを掲げる

参加者の方から冒頭の問いが投げかけられた時。正直、私はこう思いました。

「えっらいところからスタートするなぁ〜」

「今日は、みんなで自分の好きを出し合いながらワイワイガヤガヤ話をするイメージだったのに…」

「この問いって、そもそも論やん!」

「それも今日の講座の話の前提をひっくり返しかねない問いやん!」

と。

だって、「自分が好きだと思っていることは、本当に自分の好きなことなのか?」と問うということは、「自分の好きを疑う」ことになる訳ですから。

私自身の例を挙げれば、「私は歌を歌うことが好きだと思っている」けど、「それは本当に私の好きなことなのか?」と問うこと。それって「私はシンガーソングライターになりたいと思っているけど、それは本当に私のなりたい職業なのか?」を問うことに繋がってしまう。これは、「私自身が思っていること」の根底を揺るがしかねない問いである。

でもまぁ、出てきたものは仕方がない。

しかもこの講座は、お越しいただいた方のためにある。

私がイメージした通りに講座を進めることが目的ではない。

「よし!今日は、このそもそも論からスタートしようじゃないか!」

ということで、冒頭の問いを掲げるところから講座はスタートしました。

2. はじめの問いについて対話する

冒頭の問いについて、「みんなが(と言っても3人ですが)思うところ」を話し合いました。この内容自体にはプライベートな内容を多く含むため、詳細をここでは書きませんが、対話を通じて以下のようなキーフレーズが出て来ました。

  • 「自分が好きだと思っていること」は、「他者からの期待」や「これまでにやってきたこと」に囚われているのではないか?
  • 「自分が嫌ではないこと」はできているが、それが「本当に自分の好きなことか?」と聞かれると、そうかどうかはわからない
  • そもそも「本当に自分の好きなこと」が「どこかにあるはず」と思って追求する必要はないのではないか?
  • 「TO DO」(何をするか?何になるか?)よりも、「TO BE」(どうありたいか?)を追求することが大切なのではないか?
  • 「TO BE」を追求することは、自己を開示することであり、他者をねぎらい、応援し、支援することではないか?
  • その先に、(心からの)「好き」とか「幸せ」のようなものがあるのではないか?
  • 自己を開示するためには、まず自分の欠点(弱さやダメさ)も含めた「ありのままの自分」「何もつけていないままの自分」を受け入れることが大切なのではないか?
  • そのためには、自分の「見栄、欲、恐怖心、不安…」と向き合う必要があるのではないか?
  • だが、それは無意識の自分と対峙することになるので、なかなか手強いのではないか?
  • 座禅や瞑想は、無意識の自分と対峙するための一つの方法なのかもしれない
  • 自分の欠点(弱さやダメさ)を受け入れられないのは、「頼りになる自分であらねばならぬ」という自己像(思い込み)にあるのではないか?
  • それゆえに、「頼る自分になってはいけない」という自己像(思い込み)に囚われているのではないか?
  • それゆえに、いざという時でも人を頼れず、孤立する不安を持ってしまうのではないか?
  • それは、仕事でも同じかもしれない
  • 「部下を食わせられる自分であらねばならない」という自己像(思い込み)があるがゆえに、「部下を頼らない」「部下に任せない」という行動を取るのではないか?
  • その結果、「私はこれだけ頑張っているのになんで認めてくれないんだ!」「なんで協力してもらえないんだ!」という思いに囚われてしまうのではないか?
  • また一方で、部下を頼らず、任せないがゆえに、「頼りない部下」や「任せられない部下」を生み出してしまうのではないか?
  • 逆に言えば、自分の自己像(思い込み)を脱ぎ捨てれば、「頼りになる部下」や「任せられる部下」はすでにそこにいるのではないか?
  • また、「会社は右肩上がりで成長しなければならない」「会社は従業員を食わせていかなければならない」という自己像(思い込み)が、会社と従業員の関係や上司と部下の関係を「相互に依存しあう関係」にしてしまっているのではないか?
  • 会社経営においても、自己像(思い込み)を脱ぎ捨てれば、「自立した個人が協力しあう関係」をつくれるのではないか?
  • 一人一人が「組織に依存しなくても自分で(も)食っていける」という自信を持てれば、お互いが自立した個を保ちつつ、組織としても協力し合える関係を築けるようになるのではないか?
  • とは言え、会社を辞めて独立してみる(あるいは副業してみる)ということには、勇気が必要になる
  • 一方で、いくら準備をしても準備が整うことはない
  • どこかのタイミングで、「自分で食っていく!」という覚悟を持って、一歩を踏み出すしかないのかもしれない
  • そのためには結局のところ、自分の「見栄、欲、恐怖心、不安…」と向き合い、それを脱ぎ捨てていくことが必要なのではないか?

などなど。

非常に多岐にわたる話し合いになりました。

3. はじめの問いに対して答える

以上のように話し合いは非常に発散したのですが、残り時間があと10分くらいになったので、はじめの問いに対する答えらしきものを出すことにしました。

冒頭の問いを再掲すると。

自分が好きだと思っていることは、本当に自分の好きなことなのか?

この問いに対する答えらしきものはこちら。

自分が好きだと思っていることは、本当に自分の好きなことではないかもしれない

じゃあ、どうすればいいか?というと。

本当に自分の好きなことを追求していくことは、自分の幸せを追求すること。

「自分の好きを諦めないこと」は、「自分を脱ぎ捨てていくこと」

そのためには、

「自分が好きだと思っている(思い込んでいる)こと」に囚われず、

自分が日々(心から)「好きだな〜」とか「幸せだな〜」と感じられる状態(TO BE)を感じ取ると同時に、

自分が日々(心から)「嫌だな〜」「不安だな〜」と感じていることを自覚して受け入れていくこと

が大切なのではないか?

という結論らしきものに辿り着きました。

なんか難しそうな書き方になってしまいましたが、要は、

自分の弱さやダメさを含めて「自分に素直であろう!」「正直であろう!」

ということですね。

私も改めて、自分の弱さやダメさを含めて「自分に素直であろう!」「正直であろう!」と思いました。

4. 「最後に」と「後日のまとめ」

で、さっそく私自身の弱さやダメさについて話をすると…

そもそも、ジブンノシゴトのつくり方教室の定員は16名でした。

が、結果としてお越しいただいたのは、ゲストスピーカーのモッチーさんと参加者のお一人だけ。

「全然、定員ガラガラやん!」

とほほ…です。

正直に言えば、会議室賃借料を払ったら赤字です。

まあ、これがいまの私の実力であり、現実です。

とは言え、先日は3人ですごく意義のなる話し合いができたし、すごく大きな学びを得ることができました。

何より、楽しく充実した90分間を過ごすことができました。

それは私にとってすごく幸せなことです!

お越しいただいたお二人にとっても、楽しく充実した90分間になったのであればいいな〜と思うばかりです。

心より、感謝申し上げます。

ありがとうございました!

で、せっかくなので、先日の対話で出て来た話をチャートにまとめてみました。

そのチャートが、この学ぶログの写真(アイキャッチ画像)になっています。

「自分の好きを見つめ直してみたい♪」と思われている方にとって、何か一つでも考えるヒントになれば幸いです。


次回は、6月23日(土)13時30分〜15時00分。

テーマは、「自分の好きを職業に転換しよう♪」です。

好きを諦めない働き方を追求するために、「どんな働き方をすればいいのか?」「どんな職業を選べばいいのか?」「好きを仕事にするための架け橋をどうやって見つければいいのか?」について一緒に考えていきたいと思っています。

もしご興味とご都合があえば、ぜひお越しいただけますと幸いです。

*講座内容のご確認とお申し込みはコチラ(こくちーずプロ)から。

お待ちしております♪

どっひー &sing