2つの教室のお申込みを開始します

本日9時より、以下2つの教室のお申込みを開始します。

  • シンガーソングライター教室
  • ジブンノシゴトのつくり方教室

どちらの教室も、5月から10月まで、毎月第4土曜日の午後に開催します。全6回の講座です。お申込みは1回単位ですので、いつからでも、何回でも、参加できます。

場所は大阪の北浜です。

5月は26日(土)午後の開催です。

月に一回、みんなで一緒に自分の好きを見つめ直してみませんか?

シンガーソングライター教室

「よめない ひけない うたえない」三重苦でも大丈夫!

ワンフレーズからはじめるミニソングづくり

『シンガーソングライター教室 はじめの一歩(超入門)』全6回

※講座内容のご確認とお申込みはコチラ(こくちーずプロ)から。

ジブンノシゴトのつくり方教室

「好きを諦めない働き方を見つける」

キャリア選択前のはじめの一歩

『ジブンノシゴトのつくり方教室』全6回

※講座内容のご確認とお申込みはコチラ(こくちーずプロ)から。

<余談>

プレ講座の時は「RESERVA」と「こくちーず」を併用していましたが、複数回開催の講座だと「こくちーずプロ」が使いやすそうだったので、今回から「こくちーずプロ」に統一しました。こくちーずプロでも、クレジット決済なしなら無料なのがすごい!

どっひー &sing

僕のふつうと世間のふつう

僕のふつうは、世間のふつうとズレている。

そう思ったのは小学校低学年の頃だ。

私は、東京で生まれ、父親の転勤とともに埼玉、神奈川、大阪、熊本、大阪と転々としていた。

熊本から大阪に戻って来たのは、ちょうど小学校入学時だった。幼稚園時代は熊本で過ごした。

小学校低学年の時、僕は変な言葉をしゃべっていた(らしい)。

そりゃそうだ。6歳になるまで、複数の地域を転々としていたのだから。

標準語のアクセントに、横浜弁(なぜか神奈川弁とは言わない)の語尾「じゃん」をつけつつ、熊本弁の「ばってん」などを多用しながら、大阪弁っぽいセリフをしゃべっていたらしい。

で、その当時の私にとって、そうやって話をしていることは、いたって「ふつう」だった。

だが、同じ大阪の小学校に通う友達には、「僕のふつう」の言葉は、通じないことが多かったようだ。

一言で言えば、変なのだ。

彼らからすれば、「僕のふつう」の言葉は、「世間のふつう」の言葉ではなかったのだ。

その時、私は、「僕のふつう」は、「世間のふつう」とズレている、と感じた。

この出来事は、私の心の中にずっと残っている。

取り立てて、悲しいとか憎いとかという感情もない。言葉を笑われた記憶もなければ、いじめられた記憶もない。

だけど僕は、妙に転校生を気にする子だった。小学校の時も、中学校の時も、そして社会人になってからも。

別の場所から不慣れな環境にやってくる人のことが、妙に気になってしまうのだ。

それはたぶん、「世間のふつう」が「その人たちのふつう」を封じ込めたり、暗黙的に排除してしまうことを恐れているからなのだと思う。

そして、自分自身もつねに恐れている。「僕のふつう」が「この人のふつう」を封じ込めたり、暗黙的に排除してしまってはいないだろうか?と。

だから僕は、いつも不安定なんだと思う。

不安というよりも不安定。

「自分のふつう」を決めつけないようにする努力は、一方で「自分の軸」を揺らがせる。

だが一方で思う。

「自分のふつう」なんてあるのか?と。

自分もつねに(複数の)他人との関係において、「ふつう」と「ふつうでない」を色分けしていった結果として、「自分のふつう」らしきものがあるだけなのではないか?と。

私は、以前、東京で働いていた時に、ある人からこんなことを言われた。

「土肥さんは、いつになったら関西弁を直すの?」と。

その時、僕は、正直、すごくムカっとした。

「直すって何やねん!」と。

「オレ、なんか間違ってんのか!」と。

もちろん、そんなことは言わなかった。だが、僕はすごくムカっとした。

そんなかんなある中、僕は東京で5年間、働いた。

大阪に戻れば、すっかり東京の人やなぁー、江戸の香りがするなぁーと言われ。

東京に行けば、「こんにちは」の一言だけで大阪の人ってわかりますねー、と言われ。

オレ、いったい何者やねん!と、悲しくもあり嬉しくもあり。妙に複雑な心境になった記憶がある。

いまでも、小学校低学年の頃の記憶は、僕の心の底に横たわっている。

自分はいったい何者なんだ?と。

だから時々思う。

オレはオレ様なんだ!と。

そして時々思う。

僕はいったい何者なんだろう?と。

ってことで、僕は、どちらかと言えば「自分は自分でいいじゃない!」という想いを強く抱く人です。

「僕のふつう」は、「世間のふつう」とズレている。

まぁ、それはそれで良いではないか。

世間なんてもんは、実態のないもんなんだし。

「僕のふつう」が、「あなたのふつう」とズレていてもそれはそれで「ふつう」のことだし。

もしも「僕のふつう」が、「あなたのふつう」と一致したならば、そんなめでたいことはない。

そして、「あなたのふつう」と「僕のふつう」が重なり、「私たちのふつう」が自然に生まれたら、そんな素晴らしいことはないな、と思っています。

だからなのかはわかりませんが、僕は「We are the world」が好きです。

どっひー &sing

才能を開花させよう!

一人一人に才能の種がある

その種が開花したら

どんなに素敵だろうか?

才能の種は得意を生み出す

だけどその前に

才能の種は好きを指し示す

色とりどりの花を見た時

ある人は赤い可憐な花を好きになる

ある人は黄色い大きな花を好きになる

ある人は花畑全体を好きになる

ある人は花に舞う蝶を好きになる

ある人は花の匂いを好きになる

一人一人に才能の種がある

それは同じ景色を見ても

異なる箇所に着眼する力

だから世界は面白い

社会は面白い

人は面白い

あなたとわたしが

違っているからこそ

わたしたちは幸せになれる

より素晴らしい

より大きな全体を

ともにつくりあげることができる

一人一人に才能の種がある

その種が開花したら

どんなに素敵だろうか?

どっひー &sing

贈り物と交換と労働について

もうすぐ母の日。

今年は5月13日。

お母さんに何を贈りますか?

花を贈る。ケーキを贈る。手紙を贈る。写真を贈る。絵を贈る。歌を贈る。

贈り物とは、物のようでいて、物でない。

物の形を借りた心。

贈り物は、心を贈っているのだろう。

だからこそ、贈り物をする時には、綺麗な箱を用意する。リボンをつける。いつ渡すかのタイミングも計る。手から手へと手渡す。

贈り物は、心を贈るものであるからこそ、その物以上に、贈り方が重要になるのだろう。心がまっすぐ届くようにするために。

そんな心を尽くした贈り物。

それを受け取ったのは、いつだろうか?

それは何だっただろうか?

私の人生にとっての最大の戴き物。

それは、私自身。

母と父が、私を生んで育ててくれたからこそ、私はいま生きている。

いま、こうしてスマホでブログを書いている。

私が生まれたての時。きっと何か柔らかい布で、その身体を包んでもらっていただろう。

母と父は、きっと私を贈り物のように、あるいは何かからの戴き物のように、大切にくるんでくれていただろう。

私が生まれたのは1974年の1月。母曰く、石油ショックでトイレットペーパーがなかなか手に入らなかったという。私は下痢気味だったらしく、いくつものお店を回ってトイレットペーパーを買い備えていたらしい。

その間、私は無邪気に寝ていただろう。笑っていたかもしれない。泣いていたかもしれない。先の話を母から聞かされたところで、私にはまったく記憶はない。そうやって、私は生まれ育てられて来たのだ。

私は、自らの意思で生まれて来てはいない。母と父、さらには人知を超えた大いなる何者かの意思により、生まれて来た。

私が、いまここにあることは、それ自体が贈り物であり、戴き物である。

母と父がいなければ、私は存在していない。

この世に生まれて来ることもなければ、44歳になることもなかっただろう。そしてこの先の人生もなかっただろう。

もし私の母や父に何か困った事があったとしたら、私は無条件で何かを返さなければならない。なぜならば、私がいまここにあるのは、私の母と父のおかげだからだ。

しかし一方で、どんなに尽くしたところで、母や父の恩に報いることはできない。恩を返し切ることは決してない。なぜならば、その恩の大きさは計り知れないほどに大きいからだ。計り得ないものを返し切ることはできない。

母や父からの戴き物は、どんなに贈り物を贈り続けたとしても、返し切ることはない。

もしかしたら私の人生の最大のモチベーションは、母や父からの戴き物に対する返報性の原理(心理)なのかもひれない。

先にGIVEしてもらった以上、GIVEし返さなければならない、という心理が強く働いているのかもしれない。

だからこそ、自分が父となったいま、子どもたちに対しても、無条件にGIVEしなければならない、と思っているのだろう(なかなかそうはできないことの方が多いのだが)。

贈り物と交換と労働の関係について、面白い記述がある。

以下、少し長くなるが、『下流志向 学ばない子供たち 働かない若者たち』内田 樹(講談社文庫)の文章を引用する。

交換は何かを「贈り物」として認識するという動作と同時に開始される。

贈与はすでに行われている。それゆえ、受け取ったものは反対給付の義務を負う。

でも、そもそも最初に受け取ったものの価値がよくわからないので、それに対して反対給付をしても原理的に等価交換は成り立たない。

サラリーマンの労働も、もしそれを人間的活動たらしめたいと思ったら、交換の基本ルールに従わなければなりません。「働く義務がある」ということをあらゆる人間社会がその基礎的な倫理としてきたのは、「働くことで、すでに受け取ったものを返さなければならない」という反対給付の義務感が僕たちの社会生活のすべての始点にあるからです。この義務感・負債感を抜きにして労働のモチベーションを基礎づけることはできません。「働かなくてはならない」というのは、労働についての装飾的に追加されたイデオロギーではなくて、労働の本質なのです。

誰かに何かを差し出す時。

すでにもらったものを返す。

そのために贈り物をする。

そんな気持ちになるためには、”すでにもらったものがある”ということをまず認識する必要があるのだろう。

この気持ちがないままに、誰かに何かを差し出し続けていると、「何でこんなことしなアカンねん!」「絶対わりに合わんわぁー」「めっちゃ損してるわぁー」という気分になるような気がする。

労働の本質は、

「戴き物を返すために贈り物をすること」

なのかもしれない。

母や父に歌を贈ってあげる。

ってのも、悪くないかもなー、なんて思いつつある今日この頃です。

かなりこっぱずかしいですけどね…

どっひー &sing

あなたは英語をしゃべれますか?

中学から大学まで10年以上。学校で英語の授業を受けて来た。

にもかかわらず、

「あなたは、英語をしゃべれますか?」

と聞かれたら、私は自信を持って「はい!」とは答えられない。

なぜなのか?

なぜ10年以上も英語の授業を受けて来たにもかかわらず、私はいまだに英語をしゃべれるとは言えないのか?

そもそも、英語をしゃべれる、しゃべれないの基準はどこにあるのか?

今日は、できる、できないの基準について考えてみたい。

まず、

「あなたは、日本語をしゃべれますか?」

と聞かれたら、迷わず「はい!」と答えるだろう。

では次に、

「あなたは、日本語をうまくしゃべれますか?」

と聞かれたらどうだろうか。

私は、「はい!」とは答えられない気がする。

なぜならば、「うまく」という言葉には、「自分の気持ちや意図が、相手に正しく伝わるように、正しい言葉を選び、正しい文章を組み立てて…」という意味合いが込められているように感じるからだ。

ゆえに、

「あなたは、うまく(=相手に伝わるように、正しく言葉や文章を選んで)日本語をしゃべれますか?」

と問われると。

「いやー。そこまでは日本語をしゃべれません…」という答えになってしまう。

これは、決して謙遜している訳でも、恥ずかしがっている訳でもない。

ただ純粋に、「うまく(=相手に伝わるように正しく)」日本語をしゃべれてはいない、と自分の実力を評価しているだけだ。

ここで冒頭の質問に戻る。

「あなたは、英語をしゃべれますか?」

と聞かれた時、私は暗黙的に「うまく」という言葉を挿入してしまっているように感じる。

すなわち、

「あなたは、うまく英語をしゃべれますか?」

という質問に置き換えてしまっている気がする。

その結果、日本語の時と同じように、「うまく(相手に伝わるように正しく)」英語をしゃべれてはいない、という形で自分の実力を評価してしまっている気がする。

基本的な英単語は知っているし、単純な文法なら扱えるし、海外旅行にも行って帰って来られるにもかかわらず。私は英語をしゃべれない、と評価してしまっている。

なんてこったい!

「うまく」という言葉。

なんて、いまいましい言葉なんだ!

そしてその実態は、

「相手に伝わるように、正しく」

という意味合い。

もっと言えば、最大の敵は「正しく」という言葉。

「あなたは、正しく英語をしゃべれますか?」

「あなたは、正しく日本語をしゃべれますか?」

改めて「正しく」できますか?と問われたら、ふだん何気なくできていることすら、不安になる。

「あなたは、正しくおしっこをできますか?」

こう聞かれて、自信を持って「はい!」と答えられる人はどれだけいるのだろうか。

少なくとも、私は自信がない。

なぜならば、「正しい」おしっこの仕方なんて、習ったこともなければ、考えたこともないからだ。

「正しい」おしっこの仕方があるのかもしれない。そう考えた瞬間から、私はとても不安になる。

しかし一方で、私は日常的には何も困っていない。何の問題もなく、誰に迷惑をかけることもなく、毎日、おしっこをしている。

「あなたは、正しく英語をしゃべれますか?」

という質問と、

「あなたは、正しくおしっこをできますか?」

という質問。

この2つの質問は、どこがどう違うんだろうか、と思う。

客観的な「正しさ」を問う質問にどれほどの意味があるのだろうか、と思う。

別に「正しく」なくたって、日常的に、人に迷惑をかけずに、自分の生活をしっかりと成り立たせてさえいれば、「できる」と評価していいんじゃないか、と思う。

なんか、まだ「うまく」は言えないけど。

なんとなく、

「うまく」「正しく」「間違えなく」あらねばならない

という妙な先入観が自分の中にあるなぁー

なんでかなぁー

その先入観、ぬぐいとってしまいたいなぁー

と思う今日この頃です。

どっひー &sing

一緒にプロモーションビデオをつくってみませんか?

子どもの頃、マイケル・ジャクソンの「スリラー」を見て以来、いつかプロモーションビデオをつくってみたい、という思いが消えない。

ってことで、

一緒にプロモーションビデオ(PV)をつくってみませんか?

という企画を立ち上げてみたい。

それを『ミニPV制作教室』として立ち上げてみることも考えてみたい。

仮に、ある企業(例えば、アンドシング株式会社)が自社や自社の商品の宣伝のために、60秒程度のミニPVをつくりたいとする。

しかし、自社にはそれができる人材がいない(あるいは、人材はいるが、本業以外に時間を割くことができない)。一方で、他者に外注できるほどの予算もない。

かたや、私のように、いつかPVをつくってみたい人がいるとする。しかし、PVのつくり方がわからない。ほんの60秒間とはいえ、PVとなると、画像や映像、音楽、言葉など複数のパーツをストーリーに沿って組み上げる必要がある。音楽はつくれても、画像はつくれない。画像はつくれても、カッコいい言葉で締めくくれない。一つ一つのシーンはカッコいいけど、全体として印象に残るストーリーにならない、など自分一人でPVづくりを遂行しようとすると、たくさんの壁にぶち当たる。

ただ一方で思う。はじめから自分一人で全部やろうとするからうまくいかないんだ、と。

僕はいま、こんなPVをイメージしている。

===

空を鳥が飛んでいる。その鳥がフンをする。

フンが地上に落ちる。そのフンに含まれていた種が地面に埋まる。

種はしばらくそのままある。地上には、雨が降り、陽が当たり、虫の死骸などが養分になる。

種から芽が出る。その茎は地上へと向かう。

その茎はやがて地上から這い出てくる。地上で若芽が芽吹いていく。

それはやがて花になっていく。

一つの種から芽が出て花になっていくものがたくさん、たくさんある。

一つ一つの種は、すべて異なる。形も色も大きさも。ゆえに芽も、花もすべて異なる。形も色も大きさも。

そんなたくさんの花が画面一杯に咲き誇る。形も色も大きさも異なる、たくさんの花たち。この花のイメージは、村上隆さんが描く「お花」の絵。

でもって、最後は、すべての花が歌う。アンドシングする。そして、クライマックスへ。静謐が訪れる。ほっと安心する。

制作に協力してくれた方々の名前がエンドロールで流れる。

Think Big, Act Small, &Sing♪

で締めくくる。

===

どうでしょう?

おそらく、たくさんの画像、映像、音楽、言葉が必要になる。

すなわち、たくさんの人たちの作品が必要になる。

たくさんの人たちの協力が必要になる。

絵を描ける人、写真を撮れる人、動画をつくれる人、曲をつくれる人、詩をかける、物語を書ける人などなど。

また、たくさんの人たちがつくった、たくさんの作品を一つの作品へと組み上げていく力も必要になる。

一緒にプロモーションビデオをつくってくれませんか?

どなたか、自分で一からPVをつくり上げた方はいらっしゃいませんか?

プロでもなく、セミプロでもなく、アマチュアの方で構いません。

私、まったくPVを完成させたことがありません。

まずは、ダサかろうがなんだろうが、一つの作品に仕上げてみたいと思っています。人に見てもらえるもの、人に聴いてもらえるもの、人に何かを感じてもらえるもの。それは一種のプロトタイプなのかもしれません。プロトタイプでもいいので、一つのカタチにしてみたいと思っています。

他にもPVづくりに参加してみたい人もいると思います。

私も絵なら描ける、写真なら撮れる、言葉なら思いつく。そんな人もいると思います。

PVづくりに参加することで、PVづくりの過程を間近に見てみたい人もいると思います。

PVのつくり方を座学で学ぶより、実際にミニPVをつくっていく方が、数倍も数百倍も学べることが多くなると思います。

何より、「みんなで一つの作品を仕上げた!」「私もそこに関わった!」と実感する醍醐味はなかなかのものだと思います。

ミニPVのつくり方、どなたか教えてくれませんか?

これから、私はあなたを探します。

もしどこかで出会えたら、ぜひ協力してください!

よろしくお願いします♪

どっひー &sing

やっぱり思考は現実化する?

これ、いまから5年前の2013年に私が描いた絵。

スケッチブックに、クレパスで描いた。
まるで幼稚園児のような絵。いや、幼稚園児の方がもっとうまいかも…
というか、うまい下手以前に、意味がわからない絵。

2013年12月1日にfacebookにアップし、こう書いていた。

「なので、あいぼーを探しています。いつも目が輝いていて、体中からエネルギーが放たれ、周りの人たちを立ち上がらせる力を持つ人。自薦他薦を問いません。面白い人をご存知の方は、ご一報下さい!」

「なので」って何や!と突っ込みたくなる一文。

でも、いま、この絵に描いた世界が現実化されつつある。

アンドシングスクールで。
シンガーソングライター教室で。
ジブンノシゴトのつくり方教室で。

5年かかった。5年でここまで来た。

どちらなのかはわからない。

だが、5年前に絵に描いた世界が、これから現実化されようとしていることは確かだ。

なので、僕は言いたい。

“想い描いたことは、何らかの形で表現した方がいい”

と。

幼稚な絵だろうが、音痴な歌だろうが、何でもいい。

想いを抱いているのは、自分自身なのだから。

その想いを不器用でもいいからカタチにしてあげる。

多少なりと人に伝わるものにしてあげる。

人に伝わる可能性が高まる、ということは、自分に伝わる可能性も高まるということだ。

逆に、人に伝わる可能性がゼロであれば、自分に伝わる可能性もゼロかもしれない。

だから、想い描いたことは、何らかの形で表現した方がいい、と思う。

あともう一つ、いまだからこそ思うことがある。

それは、

“小さくてもいいから、とにかく自分から動いた方がいい”

ということだ。

冒頭の絵を描いてから5年。

私は、ずっとこんな物語のような旅をしていた。


<あいぼーを探して>

僕は あいぼーを 探し続けていた

「おーい あいぼー!」

どこかに いいあいぼー いないかなー?

あいぼーさえいてくれたら 素敵な世界を実現できるのに

でも あいぼー なかなか見つからないんだよな…

これじゃ 素敵な世界 実現できないよ…

どこかに いいあいぼー いないかなー?

「おーい あいぼー!」

僕は ずっと あいぼーを 探し続けていた


白馬の王子様を待つ少女と何ら変わらない。

すべては、あいぼー頼み。

自分から動いて、あいぼーを見つける。あいぼーになってもらう。
という発想がなかった。

一方で、自分がイケてる人(世の中的に着目されるような人)になったら、自然とあいぼー的な人が寄って来てくれるのではないか、というヤラシイ考えもあった。

いわば、きびだんごを持つ桃太郎になれば、犬、猿、キジがいい寄ってくる、みたいな(いま思えば、ほんとヤラシイ考えですね…)。

だから、あいぼー探しに5年を費やした。

でも、いま出会っている人たちは、素敵な人たちだ。

だから、5年を費やしたことに後悔はない。

だが、もっと早く気づいて、もっと早く動き始めていれば。

もっとたくさんのあいぼーに出会えていただろうし、もっと大きな活動の輪が広がっていただろうし、もっとみんなでHappyになれていただろうな、という気はする。

でもまあ、いまからでも遅くない。

“自分の想いを描き出し、自分から動き続ける”

これから、冒頭の絵に描いた世界を現実化していこうと思います。

僕の周りにいる、たくさんの素敵な方。

ぜひ僕のあいぼーになってください!

よければ、僕をあいぼーに選んでください!

なーんてことを、いますごく考えています。

やっぱり思考は現実化するんだろうね。

人類みな あいぼー!

Think Big, Act Small, &Sing♪

どっひー &sing

三重苦でも大丈夫!

「私、三重苦なんです」

先日のシンガーソングライター教室で、ある参加者の方が発した一言だ。

「楽譜は読めないし、楽器は弾けなし、歌もオンチだし。リズム感もないので、四重苦ですね(笑)」

「三重苦なんで、まずはリズム感を改善できたらなぁー、と思っています」

「自分の歌をつくって歌えるようになるなんて…できたらいいかもしれませんが…」

「超入門編ということなので、音楽へのハードルを下げる何かを得て、音楽を楽しむ気持ちが身につけばいいなぁー、と思っています」

この自己紹介をきっかけに、他の方々からも「私も三重苦なんです」という言葉が出てきた。一種の自己開示というか、カミングアウトのような印象を受けた。

講師のyu-kaさんも、私も、三重苦という一言を聞いたことで、「あー、この講座はそういう方々のためにあるんだ!」ということを改めて自覚した。

そう。アンドシングスクールのシンガーソングライター教室(超入門編)は、三重苦の方々のためにあるのだ。

(楽譜を)よめない

(楽器を)ひけない

(歌を)うたえない

そんな方でも大丈夫!

60秒のオリジナルミニソングをつくれるようになる(かもしれない!)

5月から6ヶ月間。毎月第4土曜日午後に実施していく本講座。

三重苦の方にも安心して参加していただける講座にしていきたいと思っています。

ほんとうに、いい言葉をいただきました。

ありがとうございました!

それにしてもyu-kaさん、さすがです。

先日の講座中、yu-kaさんは「一つのキーワードから曲作りをすることが多い」という話をしていたので、「じゃあ、三重苦というキーワードから即興で曲をつくれますか?」と僕が無茶ぶりしたところ、見事にその場で一曲つくってくれました。

参加者の方々からは、「おーっ!」「そんな風に曲ができるんだー!」という素朴な反応(感動?)が返ってきました。

僕も、「ほげーっ!」「すげーっ!」「これが才能というものなのか!」と子どものように感嘆しちゃいました。

とは言え、一方で、「そんなすごいことオレにはできねぇーよ!」と思ったことも事実でして。

『よめない ひけない うたえない

三重苦でも大丈夫!

シンガーソングライター教室(超入門)』

この謳い文句を実現するできるよう、yu-kaさんとともに本講座の内容を練り直していきたいと思っています。

三重苦の皆様、どうぞよろしくお願い申し上げます^ ^

どっひー &sing

伝え切れない思いがあることを分かち合いたい

いま、感じていることが山ほどある。書きたいことが山ほどある。

でも、それらを一度に書き出すことはできない。

それらを書き出したところで、まだ意味を成さない。

伝えられない。伝わるように書くことができない。

何より、私自身が、感じたことをまだ言葉にできていない。

おそらく、まだそれらを言葉にする必要がないのだろう。

私の心の中、体の中で、そっと包み込んでおけばいいのだろう。

無理やり色付けせず、言葉にせず。

ほわーーーーっと渦巻いている空気のようなもの。

エネルギーと呼ぶのか、感情と呼ぶのかわからない。

何かしらの渦のようなものが、いくつも、いくつも、私の心の中を満たしている。

心が充満している状態というのだろうか。

27日夜に「シンガーソングライター教室(超入門編)〜プレ講座」を開講して以来、妙な心の変化が起こっている。

見るもの聞くものすべてが、私の心に語りかけてくる。いままで見えていなかったもの、聞こえてこなかったものが、見えたり、聞こえたりするようになっている。

27日夜。講座終了後、私は泣いた。

それは、講座終了後、参加者の皆さんにアンケートを記入していただいていた時のことだ。ある参加者の方から質問があり、私はそれに答えていた。その質問は、確か「なぜシンガーソングライター教室を開こうと思ったのですか?」という質問だったと思う。

実は、その時に私がどう答えていたのかも記憶がない。だが、話しをしているうちに、突然、感極まってしまった。胸のうちから何かが込み上げてきた。涙ぐまずにはいられなかった。

そしていまだに、「なぜ私が泣いたのか?」は、わかっていない。

しかし一つだけ、はっきりわかったことがある。

私は、

“伝え切れない思いがあることを分かち合いたい”

とずっと思っていた、ということだ。

27日夜の講座には、9名の方がいらっしゃっていた。yu-kaさんと私を含めると11名。19時から20時過ぎまでの1時間ちょっと。その11名で、同じ時間を同じ場所で過ごした。なんとなくだが、「言葉にできない思いってあるよね」ということをみんなで共有したような気がする。

それゆえに、私は、講座終了後に、泣いたのだと思う。

正確に言えば、参加者の方々に「私が泣くことを許していただいた」という気がする。

お恥ずかしい話かもしれない。

ここに書かれている文章を読むだけでは、何も伝わらないかもしれない。

それでも、27日夜の出来事と、いま私の中に充満している何かは、ものすごく大切なもののように感じている。

だから、いま、ここにこの気持ちを記しておく。

伝え切れない「思い」を「わかって欲しい」とは思わない。

でも、伝え切れない思いが「ある」ということだけは「わかって欲しい」。

伝え切れない思いが「ある」ということだけは「わかってあげたい」。

だからこそ、私は、シンガーソングライター教室を開いたのかもしれない。


最後に、私が3年前に作ったホームページ(土肥卓哉流「ジブンノシゴトのつくり方」)に載せていた文章を引用する。

「私のこだわりの原点」は、とてもシンプルだったな、ということを改めて思いだした。

===

なぜ「ジブンノシゴトをつくる」にこだわるのか?

自分の好きをビジネスにする方法。
それは、自分の人生を生きるために、すべての人が身につけておくべき基本的なこと。
でもそれは、両親も、先生も、上司も教えてくれなかったこと。

就職、副業、独立、起業。
どこでどんな働き方をするにせよ、働くことは、目の前の人のお役に立ち、社会に貢献すること。
でもそれは、自分の人生を豊かに楽しく充実させることなしには続けられないこと。

僕は、子供の頃、シンガーソングライターになりたいと思いました。
でも、多くの人たちは、こう言っていました。
「好きなことをやって生きていけるほど世の中は甘くない」
「好きなことを仕事にすると楽しくなくなる」
だから、好きなことは我慢しなさい。勉強しなさい。就職しなさい。自分を消して働きなさい。
ずっと、そう言われているような気がしていました。

もちろん、真っ向から否定された訳ではありません。
でも、誰もこうは言ってくれませんでした。
「そっか。君は、シンガーソングライターになりたいんだね」
「じゃあ、どうやったらなれるか一緒に考えてみよう!」と。

だから、僕はこう言いたいのです。

「どうやったら自分の好きをビジネスにできるか、一緒に考えてみよう!」と。

それが、私が「ジブンノシゴトをつくる」ことにこだわる原点です。

===

&singのロゴの最後は、8分音符の記号(♪)である。

思いの詰まったタネから、わずか一本。

地上へと、茎が伸び、芽が出ていく。

この記号は、そんな風にも見える。

ずっと言えなかったこと。

言葉にできなかったこと。

伝え切れなかったこと。

そんな思いを、ほんの少しだけでも、誰かに伝えられるようになれればいいな〜♪

言葉にできるようになれたらいいな〜♪

なんて願いを込めながら、シンガーソングライター教室を開き続けていきたいと思っています。

どっひー &sing

得意よりも好きを大事にする

好きを大事にすることの大切さ。

そのことを改めて昨日の講座で学びました。

昨日の「ジブンノシゴトのつくり方教室〜プレ講座」には、1名の方に起こしいただきました。

講座を進める中で、その方からこんな言葉をいただきました。

「好きを大事にすることは、ほんとうに大切ですよね」

「NBA(アメリカのプロバスケットボール)選手の目の前で、私、バスケが得意なんです!とは言えないけど、私、バスケが好きなんです!とは言えますもんね」

「得意にはどうしても優劣があるけど、好きには優劣はない」

「だから、好きを大事にしたら、いろんな人と繋がれるし、協力し合える。競争せずに済むし、自分が心地よくなれる」

「得意を大事にすると、うまくいかない」

「得意よりも、好きを大事にすることが大切ですよね」

僕はそれを聞いて、なるほど!そうや!ほんまやわ!とえらく感動しちゃいました。

いい言葉、いただきました!

"得意よりも好きを大事にする"

とは言え、その上で、じゃあ…

  • どうしたら好きを大事にできるのか?
  • そもそも好き!にどうやって気づくのか?
  • 自信を持って好き!と言えることがない時には、どうしたらいいのか?
  • 「嫌だなぁー」「うっとうしいなぁー」「つらいなぁー」と感じる出来事や人に出会った時には、どう対処すればいいのか?
  • 自分が言いたいことを言っても、他人が聞いてくれなかったら、どうすればいいのか?
  • 自分が言いたいことと他人が聞きたいことを、どう擦り合わせていけばいいのか?
  • 自分の嫌いなところ、弱いところ、ズルいところを、どう見せていけばいいのか?
  • 素の自分を見せるこっぱずかしさを克服するには、どうしたらいいのか?
  • どうしたら、自分がほんとうに伝えたいことを相手に伝えられるのか?

なんてことを1時間近く2人で話し合っていました。

講義のような、対談のような、むしろ僕が教えてもらっているような。

そんな感じのプレ講座でした。

ありがとうございました!

複数人で話し合えたら、もっといいアイデアや実行プランが思いつくだろうなぁー♪

5月以降も、毎月、講座を開催していきますので、よろしければ遊びに来てくださいね。

シンガーソングライター教室(超入門編)と合わせて、毎月、第4土曜日(5月は26日)の午後に開催していきます。

また、イベントの案内ができましたら、改めて詳細を告知させていただきますが、まずは5月以降の日程のみお伝えさせていただきます。

毎月第4土曜日午後はアンドシングスクールの日!

と手帳にちょこっとメモしておいていただけますと嬉しいです。

では、今後ともアンドシングスクールをよろしくお願い申し上げます^ ^

どっひー &sing