理解か?創作か?学ぶ目的について

国語、算数、理解、社会。体育、音楽、図画工作。

僕が小学生の時に学校で学んでいた科目群だ。

私は、ずっと学校が嫌いだった。だから、ずっと新しい学校をつくりたいと(心のどこかで)思っていた。

でも、わからなかった。私が新しい学校をつくるとしたら、どんな科目群が必要になるのか。そんなことすらわからなかった。

今朝、ふとアイデアが浮かんだ。問題は、学ぶ科目群にあるのではない。学ぶ目的にあるのだ。

従来の学校では、「理解」のために、授業が行われていた(と感じている)。

理解の目的は、人とうまくやること。いざこざを起こさないこと。

国語。筆者の言いたかったことは何だったのか?答えよ。相手の想いや考えを汲み取るという練習。

算数。10個のりんごを5人で分けたら1人何個ずつになるのか?答えよ。相手と公平に分かち合うための練習。

理科。単三電池を直列に繋いだ時と並列に繋いだ時ではどちらが豆電球の光は強くなるのか?答えよ。相手に火事を起こさない練習。

社会。大阪府の場所はどこか?地図上の位置を答えよ。相手との行き先を間違えないための練習。

体育。ルールを守ってドッチボールをやりなさい。相手と喧嘩せずに楽しむ練習。

音楽。リコーダーでこの楽譜の曲を吹きなさい。相手と同じ音を鳴らす練習。

図画工作。絵の具で花の絵を描きなさい。相手にわかるようにそこにあるものを模写する練習。

やや偏った書き方になっている感は否めないが、要は、従来の学校では、すでにある知識を知ること、すでにあるルールを守ることに重点が置かれていた。すなわち、同じ知識を共有化することで、人との意思疎通で齟齬を生まないようにする、いざこざが起こらないようにする、人とうまくやっていけるようにするために、「理解」する。ということが重視されていた。

だが、そこに「創作」はない。

私が従来の学校に違和感を感じていたのはこの点だ。

私はむかーしから、「自分の想いや考えを表現したい!」「自分で何かを生み出したい!」と思っていた。「創作」を求めていた。

にも関わらず、学校では「創作」について学ぶことは、ほとんどなかった。自分を表現したり、自分から何かを創り出すための方法を学ぶことはなかった。いや、そもそも自分を表現することや、自分から何かを創り出すことを奨励されることもなかった。むしろ、自分を出すと、否定されたり、怒られることが多かった(ような気がする)。

国語。もしあなたが好きな人に自分の想いや考えを表現するとしたら、どんな題材、どんな言葉、どんな文体を使って文章を書きますか?この筆者の文章を参考にしながら書いてみてください。

算数。もしあなたが友達と10個のりんごをジュースにして5人で分けるとしたら、どんな計算式で分けますか?四則演算にこだわらずに考えてみてください。

理科。もしあなたがお母さんの洗濯を楽にしてあげるとしたら、どんな工夫をしますか?豆電球と電池の原理を参考にしながら考えてみてください。

社会。もしあなたが家族のために家を建てるとしたらどこに家を建てますか?地図帳の地形、交通網、特産物、人口動態などを参考にしながら場所を決めてください。

体育。もしあなたが老若男女の人々とスポーツをするとしたらどんなスポーツをしますか?ドッチボールを参考にしながらアイデアを出してみてください。

音楽。もしあなたが友達の誕生日にリコーダーを吹いてあげるとしたら、どんな曲を吹きますか?メロディだけでなく、吹き方やリズムの出し方にも着目して作ってみてください。

図画工作。もしお母さんの誕生日に花をあげるとしたら、どんな花をあげますか?その花をイメージしながら、絵の具で絵を描いてみてください。

「創作」は、自分の想いや考えを表現したり、自分から何かを生み出すことだが、決してそれは自己満足ではない。自分から生み出したもので、人を幸せにできる可能性を持つ。非常に利己的でありつつ、利他的な行為だ。

私は、従来の学校では、この「創作」が重視されて来なかったと考えている。

もしかしたら、いまの学校の現場では、もっと「創作」も重視されているのかもしれない。

だが、先日、新聞に載っていた高校の次期学習指導要綱の話を読む限り、事態は楽観的ではないと思っている。そこには、こんなようなことが書かれていた。

自分の頭で考え、自分で行動する人を育てるために、アクティブ・ラーニングを導入する。だが、これをテストでどう評価するか。入試でどう評価するか。それが問題だ、と。

ほんと、大丈夫か?と。そんなもん、テストでは評価できないでしょ。しかも、そもそも評価する必要があるのか?

この国は、つねにどう評価されるのかを気にする人材を育てたいのだろうか?

自分の頭で考え、自分で行動する人とは、自分の頭で「他人からどう評価されるか」を考え、「他人からよく評価されるように」自分で行動する人を指すのだろうか?

自分の想いや考えを表現する。自分で何かを生み出すことは、もともと「他人から評価されない」可能性を孕んでいる。なぜならば、自分の想いや考え、それを表現するための手段、そしてそこから生み出される創造物は、すべて他人とは異なるものだからだ。

「他人からどう評価されるか」を気にしていたら何も生み出せない。

人とうまくやること。いざこざを起こさないことだけを念頭に置いていたら、何も生み出せない。

挑戦することすらできない。

これからの学校では、もちろん企業でも、単なる「理解」に留まらない、「創作」に繋げるための学びが非常に重要になる。

私はそう信じています。

だからこそ、新しい学校をつくりたい、と思っています。

と言いつつ…

「おいおいTAKUさん、いまの学校はそんなに遅れてないよ。もっと進んでるよ。「創作」に繋げるための学びとして、こんなことやってるところがあるよ」なんて学校や会社があれば、ぜひ教えてください。

まずは謙虚に「理解」するところから始めたいと思っていますので。

よろしくお願いいたします。

TAKU &sing

テンションを上げてくれるもの

「なんか、やる気が出ないなぁ〜」

「なんか、調子が悪いなぁ〜」

そんな時、あなたのテンションを上げてくれるものは何ですか?

私の場合、一番テンションを上げてくれるものは、「観客」と「ステージ」である。

僕を待ってくれている人がいる!

僕は自分を全開にする!

「観客」と「ステージ」があれば、わりと簡単にテンションが上がる。

バカじゃないか?と思うくらい単純。この原理原則はいろんなところに応用できる。

「観客」は「朝日」に、「ステージ」は「高台」に置き換えることができる。

だから僕は、「高台」に行き、昇る「朝日」を見るだけでテンションが上がる。

この時、大切なことは、「一人である」ということ。誰かと一緒だと、テンションが上がり切らない。その人のことを気にしてしまうからだ。だから、バンドでステージに立つ時も、自分が一番前に立たないとテンションが上がらない。なので、自分がメインでない時も、必ず一度はステージの一番前に立つ。一度テンションが上がってしまえば後ろに下がっても大丈夫。ちゃんと後ろに控えてコーラスもできる。でも、一度は自分が一番前に立たないとテンションが上がらない。目立ちたがり屋だ、と言われればただそれだけなのだが、実際に自分のテンションを上げ、最高のパフォーマンスを出すためには必要な儀式なので仕方がない。

「観客」と「ステージ」と「自分一人」

これが私のテンションを上げてくれる三種の神器である。

もちろん、他にも私のテンションを上げてくれるものは沢山ある。

カレーとか、担々麺とか。唐辛子とか、山椒とか。僕をホットな気分にしてくれる。

満開の花びらとか、大きく伸びる木とか、ちょろっと出てる芽とか、何になるかわからないような種とか。僕を成長しようという気分にさせてくれる。

水平線の見える海とか、地平線の見える大地とか。うおーっ!と叫びたくなる。大きく前に進んでやるぜぃ!という気分にさせてくれる。

意外と叩き心地のいい電卓も好きだったりする。世界のすべてを数え切れるような気分にさせてくれる。何より、打ち心地がいいとリズム感がある。

変でしょ?

でもいいんです。

僕のテンションが上がることは僕自身にとって大切なことだし、しかも僕のテンションが上がっていれば、周りの人に優しくなれるし、周りの人を楽しませてあげたい思える。

だから私は、自分のテンションを上げること、その環境を意識的に創り出していくことをすごく大切にしている。

気分が落ち込んでいる時、あなたのテンションを上げてくれるものは何ですか?

どうせなら、毎日、自分のテンションを上げてくれるものに囲まれていたいですよね。

ほんの少し工夫するだけで、自分のテンションを上げ、最高のパフォーマンスを出すことができる。

毎日をより豊かで幸せなものにできる。

心からそう信じています。

TAKU &sing

夢の値段

夢の実現には、いくら必要なのか?

私には夢がある。

武道館単独ライブだ。

死ぬまでに一度、あの武道館で単独ライブをやってみたい。

アンドシング株式会社での学校づくりとは全く関係のない、僕個人のささやかな夢だ。

はてさて、この夢の実現には、いったいいくら必要なのか?

僕が考えているのは、ピアノ弾き語りのライブだ。だから、バンドはいらない。ステージには、グランドピアノが一台あって、マイクも一本。あとは、しっかりと音響がセッティングされていれば十分。

1時間半のライブをするとしたら、セットリストに20曲はいるだろう。基本的にはオリジナルの曲でやりたいから、最低20曲は作品をつくらないといけない。いまはまだ自作の曲は1曲もないから、これから20曲以上を書かないといけない。一年で3曲書くとしたら、7年かかる。でも、一年で3曲だけでも作れば、7年で21曲になる。いま2018年だから、今年から毎年3曲を書いていけば、2025年始めには21曲の持ち歌がある状態になる。

たくさんの観客に来てもらう必要もある。武道館の収容人数は、14471人。どうやって14471人もの人たちに武道館まで足を運んでもらうのか。どうやって名もなき僕のライブを観に来てもらうのか。いまのところ、いざとなれば金にものを言われて観客を集めちゃえ!と思っていたりもする。観客一人に1000円を支払うとして、およそ1447万円。

肝心の武道館を一日貸し切る料金。インターネットで検索した限りでの情報だが、音楽ライブだと一日480万円らしい。ただし、これは入場料1001円以上の場合。入場料1000円以下なら一日350万円のようだ。つまり、僕が観客一人に1000円支払う場合、一日350万円ってこと。

他にもなんだかんだと必要なものはあると思うけど、僕の夢実現にかかるお金は、ざっくり2000万円くらいだろうか。

ちょとしたマンションを買うくらいの金額。決して想像を絶するような金額ではない。もしお金を支払って聴きに来てくれる観客の方がいたら、もっと少額で済む。万一、みんなが入場料を250円でもを支払ってくれれば、会場代はペイする。この場合、夢実現に必要なお金は、ほんの僅かで済むことになる。

結局のところ、僕がこの夢を実現するために必要な第1の条件は、自作の曲を20曲以上つくることだ。自作の曲がなければ、万万が一、武道館にステージが用意され、聴きに来てくれる観客がいたとしても、僕の夢は実現できない。

14471人もの観客をどうやって集めるかも、もちろん難題。でもあと7年ある。これから出会う人たち全員にこの話をしていたら、もしかしたら、14471人もの観客を集める方法が見つかるかもしれない。

だが、自作の曲は、文字通り、自分で作るしかない。

ってことで、僕が”ほんとうに夢を実現したい!”と思っているのであれば、とにかく「毎年がんばって曲を作れ!」ということ。

そして、7年後に来るであろう夢の舞台の実現に向けて、小規模だろうが何だろうが、「毎年ライブの経験を積め!」ということ。

毎年の努力。日々の努力なくして、夢の実現はない。

私は思う。

「いま私が見ている夢が実現することなどない」となぜ言い切れるのか?と。

「いまあなたが見ている夢が実現することなどない」となぜ言い切れるのか?と。

夢は実現されるのを待っている。

そしてそれを実現する道は必ずある。

多額のお金がかかるかもしれないが、それはそれで”お金で解決できる課題だ”ということ。

大切なことは、いくらお金があったとしても解決できない”自分の”課題にしっかりと取り組むこと。

“自分の”夢の大部分は、”自分の”努力なくして実現することはできない。

“自分の”夢の大部分は、”自分の”努力さえあれば必ず実現することができる。

私には夢がある。

あなたには、どんな夢がありますか?

実は僕、一度も武道館には行ったことがないんですけどね…

TAKU &sing

キラキラネーム

もしあなたが自分の会社を創るとしたら、どんな名前を付けますか?

実は、”アンドシング”という会社名は、ある方からいただいた名前である。

その名前をはじめて聞いた場所は、東京丸の内にあるインド料理屋さんだった。確か昨年の11月頃だったろうか。私が今年2月に会社を起こすことを知っていたその方はこう言った。

「土肥さんがこれから創ろうとしている会社の名前。ちょっと考えてみました。いい名前を思い付いたんです。言ってもいいですか?」

「えっ?ありがとうございます。ぜひ」と私。

「アンドシング」

「ともに歌う。一緒に歌おうぜ!って感じがするでしょ。土肥さん、歌が好きだし。あと、このアンドシング、英語で発音したら、アンシンになるでしょ。安心。&singで安心。どうですか?」

アンドシングという名前をはじめて聞いた時、正直、ピンと来なかった。

音の響き、&singのイメージ。これはなんかいいなぁ〜と思った。

ただ、安心って…

安心って、守りな気がする。守りではなく、もっと攻めたいなぁ〜なんてことを漠と思った。

しばらく飲みながらしゃべりながら考えていたが、トイレに行きたくなったので、トイレに行った。

一人になって歩きながら、「アンドシング、アンドシング…」とぶつぶつ呟いていた。

そしてトイレで用を足していた。

するとふと、思った。

「よし!アンドシングにしよう!」と。

不思議なものだ。未来を託す会社の名前を決めたのは、トイレの中だった。

用を足している時。アンドシングという名前を通して。キラキラした未来が見えたような気がしたのだ。

もっと言えば、青い地球が見えた。全人類が見えた。地球上で人々が輪になって手を繋ぎ、アンドシングしている状態。そんな状態をイメージしたのだ。

それって、めちゃくちゃ安心やん。安心、安心、アンドシング。いいなー、いいなー。あー、そんな世界を創りたいなぁ〜と子どものように思った。

そして、私は、トイレから戻って席に着くなり、その方に言いました。

「決めました!アンドシングにします!ありがとうございます!」

私にとって、アンドシングという名前は、めちゃくちゃ素敵なキラキラネームです。

ものすごく愛着を持っています。この子を大きく大きく成長させてあげたい、と思っています。人から与えてもらった名前であるがゆえに、はじめから自分だけのものではない気がしています。すごく素敵なことです。

実は、『開学』という名前も別のある方からもらったものです。私の個人事業主名であるDOHIXも、人からもらったものです。

どれもみな、気に入っています。

そして、土肥卓哉という名前。これも両親からもらった名前です。

もちろん、大いに気に入っています。

いい名前は、自分を高めてくれる

心からそう思います。

逆に言えば、ある人に、どんな名前を付けてあげるか。あるいは、ある人の言動にどんな名前を付けてあげるかは、その人の成長に大きな大きな影響を与えるのではないかと思います。

いい名前を付ければ、その人はすくすくと伸びていく。

悪い名前(レッテル)を貼れば、その人はどんどん縮こまっていく。

目の前の人や言動や物事に対して、どんな名前を付けてあげるか?

あるいは、自分自身や自分の言動、自分の身の回りの物事に対して、どんな名前を付けてあげるか?

いい名前を付けるか?

悪い名前を付けるか?

「名付け」は、『開学』にとって、すごく重要な技術です。

もしあなたが自分の会社を創るとしたら、どんな名前を付けますか?

TAKU &sing

教育ではなく、開学

私は、世の中を大きく2つに切り分けて観ている。

開学とそうでないもの。

開学と対立する概念をあえて挙げれば教育。

それゆえ、私は学校づくりを志しているが、教育家とは称してはいない。

開学家と称している。

教育ではなく、開学

これが、私が世の中を変えるために掲げているコンセプトだ。世界観とも言える。

教育とは、教えて育てること

開学とは、学びを開くこと

教育は、相手を受動的な存在として扱う。

開学は、相手を能動的な存在として扱う

教育では、先生が生徒を教えて育てる。

開学では、先生が生徒の学びを開く。(ほんとうは、先生にも生徒にも新しい呼び名を付けたいのだが、いまはまだない)

教育と開学の違いを経営学の世界で例えれば、ダグラス・マクレガーのX理論・Y理論が挙げられる。

X理論の人間観を前提とするのが、教育。人は強制や命令がないと学ばないという前提に立っている。

Y理論の人間観を前提とするのが、開学。人は強制や命令がなくとも、自発的に学ぶという前提に立っている。

心理学の世界では、アドラー心理学が開学と親和性を持っていると考えている。

教育学の世界では、福沢諭吉のこの言葉がすごく気に入っている。

「学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくそれを発育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。」

いずれにせよ、私は、世の中を大きく2つに切り分けて観ている。そしてこの切り口を持ってして、教育の世界を変えたいと思っている。

また、それは同時に企業における人材育成の世界を変えることでもあると信じている。

とはいえ、アンドシング株式会社の定款の事業目的には、開学という言葉はどこにも見当たらない。定款を認証してもらうために、教育とか、育成という言葉を使っている。いま振り返ってみれば、ひよってしまった感が否めない。認められるために合わせに行ってしまっている。情けない…

このブログやホームページの中にも、教えるとか、育てるとかの言葉が安易に混じり込んでいる。先生と生徒という言葉もまだ再定義できていない。悲しくも辛くもあるのだが、ある意味、やむを得ないとも思っている。

開学というコンセプトは、まだまだ生まれたばかりなのだ。

このブログを読まれた方は、よーわからんなー、という気がするかもしれませんが、どうかご容赦ください。

まずは『開学』という言葉だけでも、頭の片隅に留め置いていただけますと幸いです。

また、もし『開学』のコンセプトにひっかかりそうな実例や理論やビジネスなどがあれば、ぜひ教えてください!

『開学』で教育の世界を変えたい

心よりそう思っています。

TAKU &sing

6年間かけて人を育てるということ

次世代リーダー輩出には何年かかるのか?

兵庫県にある灘中学校・灘高等学校では、一人の先生が6年間かけて同じ生徒を教えるらしい。どうやらクラス担任は変わるが、教科担任は変わらないということのようだ。つまり、例えば国語の先生であれば、その先生が、今年入学してきた生徒を6年間かけて育てるということになる。

この話を聞いて私は、えっ!?とビックリした。私の過去の経験では、毎年担任の先生が変わるのが”普通”だったからだ。

6年間も同じ先生に国語を教えてもらうの?それ、つまんない先生やったら最悪やん!6年間やろ?絶対苦痛や…と。

これ、生徒の立場からの感想ですね。しかも、先生の授業はつまらないというのが前提。先入観。

次に思ったのは、親の立場からの感想。

そりゃ、いい先生やったらいいけど、もしイマイチな先生やったらどうするんやろ?先生を変えてください、なんて言えるんやろうか?と。

すると思ったのは、生徒を受け持つ教科担任の立場からの感想。

6年間かけてこの子たち(新入生たち)を育てる。すごい責任や。下手な授業はできへん。その場しのぎもできへん。6年間かけてこの子たちの能力をどこまで引き上げるか?どうやって引き出すか?親に対しての責任もあるが、一人一人の子どもたちに対する責任はすごく大きい。教えるとは?学ばせるとは?しっかり考えて実行せねば、と。

そして、校長、あるいは学園長の立場からの感想。

6年間かけて責任もって生徒たちを育ててくれる教師をどうやって採用するのか?6年間という長期にわたり生徒と向き合う責任を果たしてもらうために、教師をどうモチベートするか?いやいや、そもそもそんな長きにわたる利他的な取り組みにどんな使命を感じてもらうか?と。

最後に、私がもし教師だったらこんな気持ちで生徒と向き合うだろうな、と想像したのは次のようなことだ。

私が受け持つこの生徒たちは、世界を変える人になるかもしれない

そのような人にならないと誰が言えるだろうか?

生徒たち一人一人にその可能性がある

その可能性を開くか開かないかは私にかかっている

私は6年間かけて、その可能性を最大限に引き出す

たった私一人の、たった6年間が、世界を変える人たちを生み出す力になるかもしれない

自分を信じ、生徒たちを信じ、6年間かけてまだ見ぬ新しい世界へ行こう!

なんて、ことを考えるのではないか、と思いました。

次世代リーダー輩出には何年かかるのか?

おそらく6年以上はかかるでしょうね。

私もせめてそのくらいの覚悟は持って学校づくりに取り組まねばと想いを新たにしました。

また、これまで6年間以上にわたり私を育ててくれた両親や祖父母はもちろんのこと、仕事などを通じて関わっていただいている諸先輩の方々に、心よりお礼申し上げます。

つねに高い視座、広い視野、そして長い時間軸を忘れずに、人生に、事業に、学校づくりに、そして次世代リーダー輩出にしっかりと取り組んで行きたいと思います。

TAKU &sing

家族への愛

リーダーが一番大切にしたいものは何か?

それは人それぞれだろう。

私にとって、それは”家族の幸せ”である。

これは、私の実感にもとづくものであり、かつ、祖父の笑顔から感じたことである。

土肥家では、毎年、お正月に祖父の家に集まっていた。一堂が集まった席で、祖父が年始の挨拶をする。その挨拶の内容は、毎年毎年同じ内容だった。

その内容は、概ねこんな内容だった。

「私と祖母の二人で始まったこの家族も、今年で20人になりました!息子たち、娘たち。その孫たち。そしてひ孫たち。昨年はいろいろあったけど、今年もこうして無事に新年を迎えることができました。ありがとう。今年もそれぞれ元気で健やかに一年を過ごしましょう」

ものすごく他愛のない内容だ。でも、私にとっては、ものすごく重要な内容だった。いや、ものすごく重要な光景だったのだ。

祖父は会社の創業者であり、社長であった。父が社長を継いだ後は、会長だった(と思う)。私にとって祖父は、「会社の創業者たるもの、会社の社長たるものかくありなん」というロールモデルであった。その祖父が、毎年毎年同じことを言うのだ。しかも、ものすごく嬉しそうに。幸せそうに。語るのだ。

私は、その祖父の姿を見て、こう思った。

会社の創業者が一番大切にしたいものは、家族の幸せなんだ、と。

そこに理屈はない。祖父の姿、表情、声のトーン。毎年必ず繰り返される言説。そこから、私が無意識に感じたことだ。

祖父は家族一人一人の幸せを心から願っていたのだろう

自分のことよりも、自分以外の人のことを大切に想う人であった。いつも、相手のことを気遣う人であった。

大学生の頃だったろうか。就職した頃だったろうか。私は祖父と祖母に宛てて手紙を書いたことがある。

私は祖父と祖母が好きだ。何より二人の笑顔が好きだ。私も祖父と祖母のような家族を創りたい。いつも笑顔に溢れる家族を創りたい。

こんなようなことを書いたと記憶している。

よくよく考えてみたら、会社の創業者がみな同じ想いを持っているかどうかはわからない。そりゃそうだ。家族が一堂に会する席で、その人がいつもいつも何を言うかなんてことを見る機会はない。

私の祖父は、世の中全体から見れば、1つのサンプルに過ぎない。世の中には、会社の創業者はたくさんいる。だから、会社の創業者が一番大切にしたいものが何かを統計的に言いあてようとするなら、一定以上のサンプルを集めて調査、分析する必要がある。

しかし、私にとっての祖父の存在は、1つのサンプルではない。唯一絶対の存在である。そして、その姿、その光景から、おそらく一生揺るがないであろう信念を形成している。

私が一番大切にしたいものは、家族の幸せである

自分にとってほんとうに大切な人が、ほんとうに大切にしているもの。

それが結局は、自分が大切にしたいものになるのではないでしょうか。

人は大切な人から大切なものを学ぶ

私はそんな風に感じています。

あなたが一番大切にしたいものは何ですか?

TAKU &sing

余人をもって代えがたし

祖父は戦争には関わったが、戦場には行かなかった。

通信技術者であった祖父は、終戦まで召集されることなく、満州や日本の通信網の整備に駆け回っていたそうだ。

周りの人たちが次々と戦場へ召集されていく中、祖父が召集されなかった理由は次の一点だったらしい。

余人をもって代えがたし

私は、この言葉を何度も何度も祖父から聞かされて来た。

子どもだった私は、「そうか。将来、自分が戦場に召集されないためには、他の人にはできない何かを身につけておかないとダメなんだな」と思っていた。

だが、大人になっていくにつれ、わからなくなった。

余人をもって代えがたし

とは、どういうことなのか?

人は誰しも、余人をもって代えがたし存在である。

にも関わらず、あえて余人をもって代えがたし存在になるとは、どういうことなのか?

私は公認会計士だ。公認会計士の資格を取れば余人をもって代えがたし存在になると思っていた。たが、いざ公認会計士になってみると、日本には3万人以上の公認会計士がいる。職業人の数という点から考えると、果たしてこれで私が余人をもって代えがたし存在と言えるのか?

日本の中で、世界の中で、唯一無二の存在になること。ナンバーワンを目指すこと。それはそれで大切なことだ。だが、唯一無二でなければならない、ナンバーワンでなければならない、と思い込むことは、自分を見失うことになるのではないか?あるいは、他人を過度に見上げたり見下げたりすることになるのではないか?

余人をもって代えがたし

いまだ答えはわからない。

だが、大切なことは、”誰から見て”余人をもって代えがたし存在となるか?だろう。

自分から見れば、自分自身は当然のごとく代えが効かない。両親から見ても同様。

では妻から見たらどうなのか?

子どもたちから見たらどうなのか?

地域の人たちから見たら?

会社の人たちから見たら?

国家から見たら?

地球から見たら?

facebookの友達から見たら?

我以外皆我師也

リーダーとは、この世界の中で、いまの時代の中で、その持ち場、持ち場ごとにいる、余人をもって代えがたし存在である、と思います。

TAKU &sing

ババちゃん貯金

祖父からビジネスについて教えてもらったことはないが、お金の使い方について学んだことがある。

どのようにお金を使えば、みんながハッピーになるか?

私は、”ババちゃん貯金”と呼ばれたお金のシステムから、多くのことを学んでいる。いまだにわからないこともある。そのシステムを考案した祖父の心をずっと考え続けている。ちなみに、ババちゃんとは、祖母のニックネームである。

ババちゃん貯金の仕組みはこうだ。この仕組みの中心には貯金箱がいる。私の貯金箱は、黒色の古い電話機のデザインだった。

1. 子どもは、家のお手伝いをする

2. お母さんは、お駄賃を渡す

3. 子どもは、お駄賃を貯金箱に入れる

4. 子どもは、一年間、貯金箱を開けずに我慢する

5. 子どもたちは、ババちゃんの誕生日に祖母の家に集まる

6. 子どもたちは、祖母の前で、その貯金箱を開ける

7. 子どもたちは、その貯金箱に入っているお金の金額を祖母に申告する

8. 祖母は、その貯金箱に入っているお金と同額を子どもにあげる

9. 子どもたちは、貯金箱に入っていたお金と祖母からもらったお金を手にする

10. 貯金箱は再び閉じられ、また一年間、開かれずに佇んでいる

流れとしては以上である。

まず、子どもだった私は、「自分が働いたらお金をもらえ、さらにそれが2倍になって返ってくる」という経験をしていた。それも毎年。たしか小学生の頃はずっとだったと思う。2倍になって返ってくる、というのは子ども心にとって相当刺激的だった。もし貯金箱に1万円が入っていたら、2万円になるのである。頑張るに決まっている。一方で、一年間、貯金箱を開けずに我慢するという忍耐力も身についた。

だが、この仕組みが秀逸だったのは、みんながハッピーになることだった。

子どもにとっては、お手伝いをしたら親に褒められ、お金をもらえ、しかもそれが2倍になって返ってくる。

母親にとっては、子どもに家のお手伝いをしてもらえる。最終的に祖母もお金を出すので、お駄賃は少なくても、いい。子どもに貯金の習慣も身につけさせることができる。

祖母にとっては、自分の誕生日に、必ず子どもたちが会いに来てくれる。しかも毎日、子どもたちが母親のためにお手伝いをして喜んでいる姿を想像して喜べる。また、子どもにお手伝いをしてもらって喜んでいる母親の姿を想像して喜べる。

最後に、このシステムを考案した祖父だ。この状況を見て、祖父が何を感じていたのかはわからないが、家族みんなが家に来て楽しそうにしている姿を見てすごく喜んでいた。

私がこのシステムを通じて学んだことは他にもある。特に大きいのは、自分に不正をしようとする心があることを知ったことだ。自分で貯金箱にお金を入れてしまえば、それと同額が一年以内に返ってくるのだ。こんな簡単にお金が手に入る方法が目の前にあって、それでも我慢する、というのはなかなか大変なことだ。これについては、またどこかで触れてみたいと思う。

どのようにお金を使えば、みんながハッピーになるか?

リーダーとして、お金の使い方を考える上での一つのヒントになれば幸いです。

TAKU &sing

ツモったら必ず捨てる

麻雀の手牌は、13牌である。

アガる時だけ、14牌になる。

ゲーム中は、1牌ツモったら、必ず1牌捨てなければならない。

「サンシキとイッツウの2兎を追いたい」からと言って、牌をガメル訳にはいかない。必ず1牌捨てなければならない。

祖父は言っていた。

麻雀は決断力を養うゲームだ、と。

ゲームに参加する4人に対して、牌は平等に配られ、与えられる。手牌やツモがいい時もあれば、悪い時もある。

たとえどんなに悪い状況であっても、牌はツモらなければならないし、そしてツモったら必ず牌を捨てなければならない。3人がリーチしていて、自分の手牌が悪い時でも、必ず牌を捨てなければならない。当たられる可能性は高い。それでも牌を捨てなければならない。逃げることはできない。

経営も同じだ。

誰しもに、いい時と悪い時が訪れる。手牌がめちゃくちゃ悪い時もある。他人がすごくツイテいて、自分が全くツイテいない時もある。それでも尚、たとえ苦しくとも、牌をツモる。そして捨てる。

とにかくゲームを止めないこと。戦況に応じて最前を尽くすこと。たとえ一歩ずつであっても、自分の状況を好転させ続けること。

たかが麻雀。されど麻雀。

私は麻雀をやるたびに、祖父のことを思い出します。

あなたにとって、決断力を養うゲームは何ですか?

TAKU &sing