国語、算数、理解、社会。体育、音楽、図画工作。
僕が小学生の時に学校で学んでいた科目群だ。
私は、ずっと学校が嫌いだった。だから、ずっと新しい学校をつくりたいと(心のどこかで)思っていた。
でも、わからなかった。私が新しい学校をつくるとしたら、どんな科目群が必要になるのか。そんなことすらわからなかった。
今朝、ふとアイデアが浮かんだ。問題は、学ぶ科目群にあるのではない。学ぶ目的にあるのだ。
従来の学校では、「理解」のために、授業が行われていた(と感じている)。
理解の目的は、人とうまくやること。いざこざを起こさないこと。
国語。筆者の言いたかったことは何だったのか?答えよ。相手の想いや考えを汲み取るという練習。
算数。10個のりんごを5人で分けたら1人何個ずつになるのか?答えよ。相手と公平に分かち合うための練習。
理科。単三電池を直列に繋いだ時と並列に繋いだ時ではどちらが豆電球の光は強くなるのか?答えよ。相手に火事を起こさない練習。
社会。大阪府の場所はどこか?地図上の位置を答えよ。相手との行き先を間違えないための練習。
体育。ルールを守ってドッチボールをやりなさい。相手と喧嘩せずに楽しむ練習。
音楽。リコーダーでこの楽譜の曲を吹きなさい。相手と同じ音を鳴らす練習。
図画工作。絵の具で花の絵を描きなさい。相手にわかるようにそこにあるものを模写する練習。
やや偏った書き方になっている感は否めないが、要は、従来の学校では、すでにある知識を知ること、すでにあるルールを守ることに重点が置かれていた。すなわち、同じ知識を共有化することで、人との意思疎通で齟齬を生まないようにする、いざこざが起こらないようにする、人とうまくやっていけるようにするために、「理解」する。ということが重視されていた。
だが、そこに「創作」はない。
私が従来の学校に違和感を感じていたのはこの点だ。
私はむかーしから、「自分の想いや考えを表現したい!」「自分で何かを生み出したい!」と思っていた。「創作」を求めていた。
にも関わらず、学校では「創作」について学ぶことは、ほとんどなかった。自分を表現したり、自分から何かを創り出すための方法を学ぶことはなかった。いや、そもそも自分を表現することや、自分から何かを創り出すことを奨励されることもなかった。むしろ、自分を出すと、否定されたり、怒られることが多かった(ような気がする)。
国語。もしあなたが好きな人に自分の想いや考えを表現するとしたら、どんな題材、どんな言葉、どんな文体を使って文章を書きますか?この筆者の文章を参考にしながら書いてみてください。
算数。もしあなたが友達と10個のりんごをジュースにして5人で分けるとしたら、どんな計算式で分けますか?四則演算にこだわらずに考えてみてください。
理科。もしあなたがお母さんの洗濯を楽にしてあげるとしたら、どんな工夫をしますか?豆電球と電池の原理を参考にしながら考えてみてください。
社会。もしあなたが家族のために家を建てるとしたらどこに家を建てますか?地図帳の地形、交通網、特産物、人口動態などを参考にしながら場所を決めてください。
体育。もしあなたが老若男女の人々とスポーツをするとしたらどんなスポーツをしますか?ドッチボールを参考にしながらアイデアを出してみてください。
音楽。もしあなたが友達の誕生日にリコーダーを吹いてあげるとしたら、どんな曲を吹きますか?メロディだけでなく、吹き方やリズムの出し方にも着目して作ってみてください。
図画工作。もしお母さんの誕生日に花をあげるとしたら、どんな花をあげますか?その花をイメージしながら、絵の具で絵を描いてみてください。
「創作」は、自分の想いや考えを表現したり、自分から何かを生み出すことだが、決してそれは自己満足ではない。自分から生み出したもので、人を幸せにできる可能性を持つ。非常に利己的でありつつ、利他的な行為だ。
私は、従来の学校では、この「創作」が重視されて来なかったと考えている。
もしかしたら、いまの学校の現場では、もっと「創作」も重視されているのかもしれない。
だが、先日、新聞に載っていた高校の次期学習指導要綱の話を読む限り、事態は楽観的ではないと思っている。そこには、こんなようなことが書かれていた。
自分の頭で考え、自分で行動する人を育てるために、アクティブ・ラーニングを導入する。だが、これをテストでどう評価するか。入試でどう評価するか。それが問題だ、と。
ほんと、大丈夫か?と。そんなもん、テストでは評価できないでしょ。しかも、そもそも評価する必要があるのか?
この国は、つねにどう評価されるのかを気にする人材を育てたいのだろうか?
自分の頭で考え、自分で行動する人とは、自分の頭で「他人からどう評価されるか」を考え、「他人からよく評価されるように」自分で行動する人を指すのだろうか?
自分の想いや考えを表現する。自分で何かを生み出すことは、もともと「他人から評価されない」可能性を孕んでいる。なぜならば、自分の想いや考え、それを表現するための手段、そしてそこから生み出される創造物は、すべて他人とは異なるものだからだ。
「他人からどう評価されるか」を気にしていたら何も生み出せない。
人とうまくやること。いざこざを起こさないことだけを念頭に置いていたら、何も生み出せない。
挑戦することすらできない。
これからの学校では、もちろん企業でも、単なる「理解」に留まらない、「創作」に繋げるための学びが非常に重要になる。
私はそう信じています。
だからこそ、新しい学校をつくりたい、と思っています。
と言いつつ…
「おいおいTAKUさん、いまの学校はそんなに遅れてないよ。もっと進んでるよ。「創作」に繋げるための学びとして、こんなことやってるところがあるよ」なんて学校や会社があれば、ぜひ教えてください。
まずは謙虚に「理解」するところから始めたいと思っていますので。
よろしくお願いいたします。
TAKU &sing