講演者が話す脇で、Sさんは壁に貼られた模造紙にペンを走らせている。
耳は講演者の話に集中しながら、手はささっと動き続けている。
講演者の話が進むにつれ、真っ白な模造紙が絵や文字で埋め尽くされていく。
講演者の似顔絵があり、キーとなる言葉があり、人の動きや表情が躍動感ある形で描き出されていく。
そこにあるのは、ただの絵や文字ではなく、感情や価値観を伴った映像。
講演者と聴衆が、ともに同じ場所で同じ時間を過ごしていたという実感を伴った記録。
講演が終了した時、模造紙に現れたのは、カラフルで喜怒哀楽に溢れた心象風景。
この間、Sさんは一言も話さなかった。
Sさんの耳と手を介することで、素晴らしい共同作品がそこに残っていた。
職業:グラフィックファシリテーション
氏名:Sさん(女性・30代)
(前職)文房具メーカー勤務
どんな仕事?
グラフィックファシリテーションは、リアルタイムで「聴いて、感じとって、描く」仕事である。これにより、参加者も、リアルタイムで「観て、話して、伝える」ことができる。
絵や文字を視覚的に描き出すことで、言葉や論理だけでなく、そこに付随する感情や価値観を同時に記録していけることがグラフィックファシリテーションの特徴である。
グラフィックファシリテーションは、目的によって描き方も変わってくる。
例えば、仕事としてよくあるケースを例に挙げると、
①会社の会議や研修(ビジョン策定など言葉にするとズレが起こりやすいテーマなど)
目的は、本音を引き出す、価値観をすり合わせる、見える化ですれ違いを減らす、など。
②中小企業連携構想づくり(利害関係者が多く、同じ言葉を使っていても前提となる意味が違うなど)
目的は、対話を促す、相互理解をしやすくする、会議を本質的な話に持っていくようにする、など。
③市のまちづくり(福祉について考える市民参加の連続講座など)
目的は、市民の声を受け止める、意見を反映させる、不参加者が次回見返せるようにする、など。
一人ひとりの発言が、模造紙の上に絵や文字として描き出されていくことで、参加者同士の安心感がつくられていく。逆に言えば、グラフィックファシリテーションは、参加者一人ひとりが安心して自分の意見や想いを表現できる場をつくるための手段とも言える。
どのようなケースであれ、私自身は共通して「どんな人も安心してここにいていいよ」というメッセージが流れているような気持ちで描いています。
きっかけは?
グラフィックを描きはじめたのは、3年ほど前。前職の会社を辞めて、ある高等専門学校でアクティブラーニング担当講師として勤めていた時のこと。そこには、座学は得意だけど、対話が苦手な生徒がたくさんいた。丁度その頃、発達障害者支援法が改正された後だったこともあり、ある生徒から「発達障害者向けに何かサポートしてくれないの?」と言われた。話しを聞くと、「ある先生の授業の板書を取れない」とのことだった。
「その生徒のために何かできないかな?」と考えてみて思い浮かんだのが、「グラフィックで板書を描いてみよう」ということだった。でも、一番はじめに描いてみた時は、話のポイントを3,4箇所くらいしか押さえることができず、またそのグラフィックも、先生の似顔絵以外は、文字情報が中心だった。ただそれでも、その生徒や周りの生徒たちが、それを写真に撮って、喜んでくれた。それをきっかけにグラフィックで板書を描くことを続けるようになった。
ある先生の授業でこれを繰り返しているうちに、グラフィックで描いた板書が15枚ほどになり、それをその先生が前期の振り返り授業で使ってくれることになった。15枚のグラフィックを壁に貼り、それぞれの生徒がペンを持って印象に残ったところに行って意見や感想を書き込む。こういう形でグループワークを実施したところ、とても議論が弾んだ。
この時、グラフィックがあれば、対話が苦手な生徒も含め、みんながペンを持って主体的に会議に参加することができる、ということを知った。
これをきっかけに、もっとグラフィックを描くことに取り組もうと思った。「とにかくグラフィックを描く経験を積もう!」「週一回は、勤めていた高等専門学校以外の場所でグラフィックを描こう!」と思い、ペンと模造紙をもって、いろんな場に出向いていった。とは言え、なかなか思うようには描けない。大事な発言を漏らしたり、絵や文字でその人が言いたかったことを適切に表現できなかったり。反省ばかりだったが、「いる限り、役に立ちたい」という思いで描き続けてきた。その間、facebookでの発信も続けていた。反応はあったり、なかったりだったが、とにかく続けていた。
するとある日、そのfacebookでの投稿をきっかけに、すでにグラフィックファシリテーションを仕事にしている方と関わる機会に恵まれた。ある会社の会議に参加し、そこでペンを手に白熱した議論をしている大人たちの姿を見た。そしてそれが立派にお金をもらえる仕事として成立していることを知った。昨年9月のことである。
その時に、「これが仕事になるのなら、仕事にしてみようかな〜」と思った。
そしていま、グラフィックファシリテーションを職業として仕事にしている。
いままでに描いたグラフィックは300枚以上になると思う。
子どもに勧める?
すごく勧める。グラフィックファシリテーションをやってみることで、その先が見つかる。血肉になる。
聴く力を養える。自分を理解することができる。諦めずに取り組む姿勢が身につく。
それを職業にするかどうかは別として、ぜひ「一回やってみたら?」と勧めたい。
これから、グラフィックファシリテーションを職業にする人も増えていくと思う。
大切なことは?
「毛穴のすみずみまで開くこと」を大切にしています(笑)。
人が話していることを全身で感じとること。
グラフィックファシリテーションでやっていることは、落語に例えることができる。
落語では、話し手のセリフを聞いて、その場面を想像する。耳で聞いた言葉を絵に変換している。グラフィックファシリテーションでは、この絵を模造紙の上に描き出しているようなイメージ。
一見、特殊なことをしているようだが、私もはじめはほとんど描けなかった。
まずは描いてみること。それを続けること。いろんな場に出向いていって、実際に試し続けることが大切。
私もいまだに実験を続けています。
嬉しいこと、嫌なことは?
参加者が、立ち上がって、ペンを持ち、しゃべりはじめる瞬間を見ると嬉しい。その場に熱量が出てきた瞬間を感じると嬉しい。
一方で、単なるパフォーマーとして呼ばれた時は、「あれっ?」と思う。そういう時は、プログラム案を自分でつくって提案するようにしている。
また、一緒にやるファシリテーターの方が参加者の気持ちを置いてきぼりにして、会議の主体性を奪ってしまうしまうような時も、「あれっ?」と思う。
私は、主体性を育むために描いている。理想は、私たちがその場からいなくなっても、会社の人たちや参加者の人たちが自ら動くようになることである。
食べていくために工夫していることは?
いま日本で、グラフィックファシリテーションを本業にして食べていけている人は、2桁くらいだと思う。副業でやっている人も含めれば100人以上いるかもしれないが。
私自身は、グラフィックファシリテーションを職業にしているが、たまたま依頼された仕事をただ単に受けるようなことはしていない。事前の打ち合わせをし、グラフィックファシリテーションを使う目的や意図をしっかりと確認するようにしている。場合によっては、グラフィックファシリテーションを使う必要がないケースもある。
私は、事前の打ち合わせの時にも、たくさんのグラフィックを描いている。
仕事の場であれ、事前の打ち合わせの場であれ、一回一回を大切にしている。
いつも「困っている人がいるのであれば、何か一緒にできたらいいな〜」と思っている。
グラフィックファシリテーションは、あくまでもそのための手段だと考えている。
Sさんにとってグラフィックファシリテーションとは?
グラフィックファシリテーションは、「困っている人が安心できる場をつくるための手段」である。
耳で聞いた言葉を絵や文字として描き出す。
一見、特殊なことのようだが、インプットとアウトプットを揃える必要はない。必ずしも、耳で聞いた言葉を言葉で書く必要はない。
目で見た映像を言葉にすることもあれば、耳で聞いた言葉を映像にすることだってできる。
グラフィックファシリテーションに限らず、言葉以外の表現方法を駆使したコミュニケーションや、それをサポートする職業はこれから増えていくのかもしれない。
どっひー&sing