「私は、特別な人間であらねばならない」
どうやら、私は無意識にそう思い込んでいたようだ。
「私は、特別な人間であらねばならない」
そう思い込んでいるがゆえに、
自分が特別扱いされると嬉しくなるが当然だという素振りをする。
一方で、自分が特別扱いされないと嫌な気分になる。
自分の意見が批判されたり反発されると怒る。
自分の意見を聞いてもくれないと苛立つ。
自分の存在を無視されると悲しくなる。
自分の存在を認めてもらえない状況が続くと落ち込む。
「私は、特別な人間であらねばならない」
私の喜怒哀楽は、この思い込みから来ている。
この思い込みが、私の喜怒哀楽を支配している。
この思い込みは、どうやら「パラダイム」とか、「ライフスタイル」と呼ばれるもののようだ。
*以下、「パラダイム」については『7つの習慣』(スティーブン・R・コヴィー)、「ライフスタイル」については『アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』(小倉 広)の記述を参考にしている。
「パラダイム」あるいは「ライフスタイル」は、外部からの刺激に対して自分がどう反応するかを決める鍵になる。
どういう「パラダイム」あるいは「ライフスタイル」を持つかにより、外部からの刺激に対して自分がどう反応するかが変わる。
「パラダイム」あるいは「ライフスタイル」が異なれば、外部からの刺激に対して、どういう感情を持つかが異なり、その結果、どう反応(行動)するかが異なる。
「私は、特別な人間であらねばならない」
この「パラダイム」あるいは「ライフスタイル」を持っている限り、私は、ある外部からの刺激に対して前述のような感情を持ち、そして同じような反応(行動)を繰り返すことになる。
どうやら、私は勘違いをしていたようだ。
いや、無理な思い込みをしていたようだ。
「私は、私にとっては、特別な人間である。だが、他者からすれば、ごく普通の人間である」
こう捉え直してみると、
自分が特別扱いされるとすごく嬉しい。
一方で、自分が特別扱いされなくても当たり前である。
自分の意見が批判されたり反発されたりすることもあるだろう。
自分の意見を聞いてくれないこともあるだろう。
自分の存在を無視されることもあるだろう。
自分の存在を認めてもらえない状況が続くこともあるだろう。
それはそれで仕方のないことだ。
なにせ私自身、他者の存在をつねに気遣うことができていないのだから。
だが、だからと言って私が他者の存在を認めていないという訳ではない。
同様に、他者が私の存在を認めていないという訳でもない。
なぜならば、
「私は、私にとっては、特別な人間である。だが、他者からすれば、ごく普通の人間である」
からだ。
私は、この当たり前の事実になかなか気づくことができなかった。
「パラダイム」あるいは「ライフスタイル」を真に転換するにはまだまだ時間はかかるだろう。
だが一つわかったことがある。
それは、「ものの見方」あるいは「認知の仕方」が変われば、生まれる感情が変わり、行動も変わる、ということだ。
であれば、極力、良い感情や良い行動が生まれるような「ものの見方」あるいは「認知の仕方」を身につけたいものである。
恐れず、ごく普通の人間でありたいものである。
どっひー &sing