中学から大学まで10年以上。学校で英語の授業を受けて来た。
にもかかわらず、
「あなたは、英語をしゃべれますか?」
と聞かれたら、私は自信を持って「はい!」とは答えられない。
なぜなのか?
なぜ10年以上も英語の授業を受けて来たにもかかわらず、私はいまだに英語をしゃべれるとは言えないのか?
そもそも、英語をしゃべれる、しゃべれないの基準はどこにあるのか?
今日は、できる、できないの基準について考えてみたい。
まず、
「あなたは、日本語をしゃべれますか?」
と聞かれたら、迷わず「はい!」と答えるだろう。
では次に、
「あなたは、日本語をうまくしゃべれますか?」
と聞かれたらどうだろうか。
私は、「はい!」とは答えられない気がする。
なぜならば、「うまく」という言葉には、「自分の気持ちや意図が、相手に正しく伝わるように、正しい言葉を選び、正しい文章を組み立てて…」という意味合いが込められているように感じるからだ。
ゆえに、
「あなたは、うまく(=相手に伝わるように、正しく言葉や文章を選んで)日本語をしゃべれますか?」
と問われると。
「いやー。そこまでは日本語をしゃべれません…」という答えになってしまう。
これは、決して謙遜している訳でも、恥ずかしがっている訳でもない。
ただ純粋に、「うまく(=相手に伝わるように正しく)」日本語をしゃべれてはいない、と自分の実力を評価しているだけだ。
ここで冒頭の質問に戻る。
「あなたは、英語をしゃべれますか?」
と聞かれた時、私は暗黙的に「うまく」という言葉を挿入してしまっているように感じる。
すなわち、
「あなたは、うまく英語をしゃべれますか?」
という質問に置き換えてしまっている気がする。
その結果、日本語の時と同じように、「うまく(相手に伝わるように正しく)」英語をしゃべれてはいない、という形で自分の実力を評価してしまっている気がする。
基本的な英単語は知っているし、単純な文法なら扱えるし、海外旅行にも行って帰って来られるにもかかわらず。私は英語をしゃべれない、と評価してしまっている。
なんてこったい!
「うまく」という言葉。
なんて、いまいましい言葉なんだ!
そしてその実態は、
「相手に伝わるように、正しく」
という意味合い。
もっと言えば、最大の敵は「正しく」という言葉。
「あなたは、正しく英語をしゃべれますか?」
「あなたは、正しく日本語をしゃべれますか?」
改めて「正しく」できますか?と問われたら、ふだん何気なくできていることすら、不安になる。
「あなたは、正しくおしっこをできますか?」
こう聞かれて、自信を持って「はい!」と答えられる人はどれだけいるのだろうか。
少なくとも、私は自信がない。
なぜならば、「正しい」おしっこの仕方なんて、習ったこともなければ、考えたこともないからだ。
「正しい」おしっこの仕方があるのかもしれない。そう考えた瞬間から、私はとても不安になる。
しかし一方で、私は日常的には何も困っていない。何の問題もなく、誰に迷惑をかけることもなく、毎日、おしっこをしている。
「あなたは、正しく英語をしゃべれますか?」
という質問と、
「あなたは、正しくおしっこをできますか?」
という質問。
この2つの質問は、どこがどう違うんだろうか、と思う。
客観的な「正しさ」を問う質問にどれほどの意味があるのだろうか、と思う。
別に「正しく」なくたって、日常的に、人に迷惑をかけずに、自分の生活をしっかりと成り立たせてさえいれば、「できる」と評価していいんじゃないか、と思う。
なんか、まだ「うまく」は言えないけど。
なんとなく、
「うまく」「正しく」「間違えなく」あらねばならない
という妙な先入観が自分の中にあるなぁー
なんでかなぁー
その先入観、ぬぐいとってしまいたいなぁー
と思う今日この頃です。
どっひー &sing