小学生の頃、上野動物園にパンダを見に行ったことがある。ものすごい行列だったと記憶している。
そのせいなのか、僕は動物園に行くたびに思う。
パンダには人だかりができるのに、なぜレッサーパンダには人だかりはできないのだろうか?
と。
レッサーパンダ、可愛いですよ。顔も動きもカラーリングも。
でも、なぜかパンダ(正式には、ジャイアントパンダ)ほどには人気がない。
僕にとっては、すごい不思議。
パンダは並ばないと見られない。
レッサーパンダは並ばなくても見られる。
「パンダの何が人を興奮させるのだろう?」といつも考えてしまう。
私なりの仮説は3つ。
1. パンダの顔はキャラクターっぽい
2. パンダは希少性があるっぽい
3. パンダはみんなが好きと言っている
これをレッサーパンダに当て嵌めてみると、実は1も2も該当する。むしろレッサーパンダの方が絶滅危機度は高いようだ。
となると、レッサーパンダがパンダに負けるのは、3のみ。
みんなが好きと言っているかどうか。
ということで、私の仮説にもとづけば、もし今日からみんなが「レッサーパンダ好き!」と言うようになれば(例えば、ツイッターでバズれば)、レッサーパンダにも行列ができるようになるはず。
じゃあ、どうすれば今日からみんなが「レッサーパンダ好き!」と言うようになるか?と言うと…
まずはじめに立ち上がるべきは、「隠れレッサーパンダ好き」だろう。
いまインストグラムで「#レッサーパンダ」のハッシュタグを検索してみたら、「118,635件」と出てきた。ツイッターだと「920Tweets」と出てきた。
まずスタートはここから。
これまで、「パンダ好き」(の方が一般的だ、という世の中の風潮)の影に隠れて言えなかった一言。
「私は、パンダよりもレッサーパンダの方が好きなんだ!」
この一言を言えるか否か。
レッサーパンダ、さらにはレッサーパンダ好きが市民権を得られるかどうかは、サイレントマジョリティが声をあげて団結できるかどうか?にかかっているのではないだろうか。
なーんてことを、僕は子どもの頃からずっと考えていた。
サイレントマジョリティという言葉を知ったのは大学生の頃だったような気がする。
マイノリティは、サイレントである限りでマイノリティである。たとえマイノリティであっても、一人一人が声をあげて団結すれば、それはある一定規模のマジョリティになりうる。
僕は、ずっとそういうことを考えてきた。
とは言え、一方で、自分でもよくわからないことがある。
僕は、なぜマイノリティにこだわるのか?ということである。
おそらく僕は、世間一般に言う、いわゆるマイノリティではない、と思う。一応、Wikipediaの「社会的少数者」マイノリティのURLを挙げておく。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/社会的少数者
だが一方で、僕は、マジョリティだとも思わない。
マイノリティでもなく、マジョリティでもない僕は、いったい何なんだ?
これはこれで、まぁ、そこそこの悩み、というか自己のアイデンティティの収まりの悪さを感じる訳です。
でもまぁ、それでも最近は、「自分は自分だし。マイノリティでもマジョリティでもいいじゃない!」と考えるようになってきた。
だって、マイノリティとマジョリティの間には、とてつもないグラデーションがある訳だし。ある人たちの集まりでは自分がマイノリティだったとしても、別の人たちの集まりでは自分がマジョリティになることがある訳だし。
とどのつまり、みんな一人一人違うし!
ってことは、マイノリティだのマジョリティだのという括り方は便宜的な括りに過ぎないってこと。
誰かが何かを意図して、「こう括ろう!」とするから、ある種の括りができる。そして、マイノリティとマジョリティができる。レッサーパンダ好きは、パンダ好きの影に隠されることになる。
レッサーパンダだって、パンダだって、どっちも可愛いですよ。
ちなみに、僕はツキノワグマも好きです。カマキリとカタツムリも好きだし。
自分の好きなものくらい、自由でいいやん!
他の人と違うものを好きでもいいやん!
誰に迷惑をかけるでもなし。
自分が本当に好きなものを「好きだ!」と言える。
ただそれだけのことで、世界は変わるんじゃないかなぁー、なんて思っています。
どっひー &sing
私は大のレッサーパンダ好きですが、ジャイアントパンダ好きの人と比べたこともないし、自分がマイノリティだと感じたこともない。
あなたのように、区分、区別、差別するような人間がいるから、マジョリティだマイノリティだの、くだらない議論が生まれる。
偏差値や卒業した学校はどこ?どんな仕事をしてるの?って気にするのは、あなたのような人間ばかり。
区分、区別、差別する人間たち。
くだらない。
風月様
貴重なコメントをいただき、ありがとうございます。
そうですね。区分、区別、差別しているのは、わたし自身なのでしょうね。
マジョリティだマイノリティだの、くだらない議論を生む邪心をなくすため。
日々精進したいと思います。
土肥卓哉
コメントを拝見して、コメントさせていただきます
くだらないか、くだらなくないか、のご意見も、所謂ひとつの区分けや区別、峻別じゃないかと思うのですが、いかがでしょうか?
仮にくだらないと感じても、心を動かすことなく静観できるようなG3(じーさん)に、私はなりたいと思います
シャンシャン大好きG3 えびじー