自分の弱さと向き合う

先日、朝起きて、私の部屋の机を見たら、引き出しが開き、中身が机の上に出ていた。

私は、子どものことを疑った。そして怒った。

「やったのはお前だろう」「何か盗っただろう」と。

容疑は、私の部屋に無断で入り、机の中をあさったこと。

証拠はない。あるのは、状況証拠だけ。

だが、私は子どものことを疑った。

一方で、私は自分自身を疑うことはしなかった。

もしかしたら、机の上を片付けず、引き出しも開けっぱなしのままで寝たのかもしれない、とは考えなかった。

私がそんなことをするはずはない、と信じていた。

その結果、私は子どものことを疑った。そして怒った。

「二度と俺の部屋に入るな」「絶対に机の中を開けるな」と。

子どもは、「わかった」と言った。でも、どこか悲しそうだった。悔しそうだった。そして学校へ行った。

この事件の後、私の中には、何とも言えない気持ち悪さが残った。


思い返してみると、私は公平ではなかった。

私は、自分を信じ、子どもを疑った。

だが、どちらも確たる証拠はない。

私がやっていないという証拠はない。

子どもがやったという証拠もない。

証拠もなく、子どもを疑うというのであれば、なぜ自分を疑わなかったのだろうか?

なぜ自分を疑い、子どもを信じなかったのだろうか?

どう考えても、これは私の自己保身だった。

私は、「私にとって都合の悪い出来事」が起こった時、無意識に「自分は悪くない」と防御した。

そして、責任をなすりつける対象を探した。そこに子どもがいた。

だから私は、子どもを疑い、状況証拠を集め、怒った。

私は弱い。

私は、「自分の机の引き出しを開けっぱなしにするような、いい加減な人間ではない」という恐ろしくちっぽけなプライド(のようなもの)を持っている。

そしてこの根底には、「私は自分のことを完璧にこなす人間である」「だから、他人からとやかく言われるような人間ではない」「他人が私の間違いを指摘するようなことはあってはならない」「私は他人から自由であるために、完璧でなければならない」というような(無)意識があるようだ。

だから私は自分を守った。自分を疑わなかった。

そして子どもを疑った。子どもに責任をなすりつけた。


私は弱い。

私は無意識に自分を守り、他人を傷つける。

先の事件では、たまたま近くにいたのが、子どもだったから子どもが標的になった。

だが、もしこれが満員電車の中だったら。街の雑踏の中だったら。会社の中だったら。学校の中だったら。

「自分にとって都合の悪い出来事」が起こった時、私はどうするのか?

その時、その場にいる、比較的弱い立場の人を見つけ、標的にするのだろう。

自分にとって都合の悪い出来事が起こった時。

自分の正しさを守るために、他人を犠牲にする。

どうやら私には、そういう醜い心があるようだ。


私は弱い。

自分にとって都合の悪い出来事が起こった時。

私は、自分の正しさを守るために、他人を犠牲にする。

それゆえ、私にとっての「正しい」は、私の都合である。

私にとって都合が良ければ「正しい」あるいは「善い」。

私にとって都合が悪ければ「間違い」あるいは「悪い」。

私にとっての「正邪」あるいは「善悪」の基準は、私の都合にもとづいている。

それゆえ、私が考えている「正しい」は、必ずしも社会的な「正しい(=正義)」と一致するとは限らない。それゆえ、他人が考えている「正しい」とも一致するとは限らない。

同じく、私が考えている「善い」は、必ずしも社会的な「善い(=共通善)」と一致するとは限らない。それゆえ、他人が考えている「善い」とも一致するとは限らない。

私は弱い。

自分にとって都合の悪い出来事が起こった時。

自分の正しさを守るために、他人を犠牲にする。

これをやっている限り、私は真の「正しい」を知ることもなければ、真の「善い」を知ることもないだろう。


私は強くあらねばならない。

真の「正しい」や真の「善い」を追求しなければならない。

他人が考えている「正しい」や「善い」を受け入れられるようにならなければならない。

そのためには、私の恐ろしくちっぽけな基準、すなわち、私にとっての「正しい」や「善い」の基準をぶち破らなければならない。

そのためには、自分の弱さをしっかりと自覚しなければならない。

自分にとって都合の悪い出来事が起こった時。

隙あらば、自己保身に走る。それも恐ろしくちっぽけなプライド(のようなもの)を守るために。他人に責任をなすりつける。他人を疑う。他人を傷つける。他人を犠牲にする。

そんな自分の弱さをしっかりと自覚しなければならない。

すべては自己保身から始まる。

私は強くあらねばならない。

自分にとって都合の悪い出来事が起こった時。

それは私にとって(だけ)都合の悪い出来事なのか、他人にとっても都合の悪い出来事なのか、あるいは世間一般においても都合の悪い出来事なのか。

その出来事は「真に(みんなにとって)悪い出来事なのか?」を立ち止まって考えてみなければならない。

自分の都合(だけ)で過剰反応してはいけない。

逆に、たとえ自分にとっては都合の悪い出来事が起こっていなかったとしても。

「他人にとっては都合の悪い出来事が起こっているのかもしれない」

「世間一般においては都合の悪い出来事が起こっているのかもしれない」

という外向きのアンテナを立てておかなければならない。

自分の都合の有無(だけ)で無関心になってはいけない。


相手を思いやる心を持つこと。利他の心を持つこと。利他の行動をすること。

それは、結局のところ、自分の弱さを克服するためのものなのかもしれない。

自分の弱さを抱えている限り、恐ろしく不安定であり、不安である。

その結果、恐ろしく利己的になる。

ただ自分を守るために、視野狭窄となる。

「正しい」も「善い」も自分だけの視点から見えるものだけに留まってしまう。

真の「正しい」や真の「善い」が見えなくなる。

それ以前に、他人を傷つけてしまう。

子どもを傷つけてしまう。

そして自分が傷ついていく。


私は弱い。

まずは、この事実をしっかりと自覚するところから始めようと思う。

事件のあった夜、子どもに「疑って悪かった」と謝った。

子どもは「ううん、いいよ。いつも疑われるようなことをしてるし」と言った。

土肥卓哉 &sing

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