気分が乗らないから、今日はブログを書かない。
時には無理しない日があってもいいかな、と今日は思いました。
TAKU &sing
気分が乗らないから、今日はブログを書かない。
時には無理しない日があってもいいかな、と今日は思いました。
TAKU &sing
「教育ビジネスは儲からない」
私が学校づくりを志していることを人に伝えた時に、たまに言われる言葉だ。
私はこの言葉を聞くたびに思う。
「いやー、別に儲かるか儲からないかで教育ビジネスを選んだ訳じゃないんだけどなー」
「いま、教育を変える必要がある!と私が信じているからやるだけなんだけどなー」と。
それに加えて思う。
大切なのは、「儲かるか儲からないか」ではなく、「どうしたら儲かるようにできるか?」だと。
社会にとって必要であり、ある人にとって必要であり、自分にとって必要なことなのであれば、やるしかない。
そして、その活動に自分の人生の時間をしっかりと投じ続けるためには、その活動から自分の生活に必要なお金をしっかりと稼ぎ出す必要がある。
これはできるできないの問題ではない。
儲かる儲からないの問題ではない。
やるべきか否かの問題である。
やるべきである以上、やるしかないし、儲けるしかない。
アンドシング株式会社の『開学』事業は、短くとも100年仕事だと私は考えている。なので、少なくとも100年以上は事業が継続できように、お金が回る仕組みを整えておかなければならない。
それを可能にする程度には、儲けなければならない。
あるいは、『開学』事業が儲かって儲かって仕方がないくらい、世の中の人たちに受け入れられなければならない。
そして、その儲けは、さらなる『開学』を進めるために、『開学』事業に再投資されなければならない。
もし、『開学』サービスを切に必要としているが、お金がないためにサービスを購入できない人たちがいるとすれば、その人たちのために儲けは還元されなければならない。
教育ではなく、開学
『開学』で、教育の世界を変える。
そのために、やらなければならないことはやらないといけないし、その活動を100年以上にわたり継続していくために必要なお金は儲けなければならない。
儲かるか儲からないか。
できるかできないか。
ではなく、
やるべきか否か。
必要か否か。
いいことか否か。
可否よりも是非
つねにその優先順位を間違わないようにしながら、『開学』事業の創造に取り組んでいきたいと思っています。
TAKU &sing
「雇われ社長になるくらいなら、自分1人で社長をやった方がいいよ」
3年前、私がある人から言われた言葉だ。
この言葉は、その後の私の意思決定と行動に大きな影響を与えてくれている。
当時、私は社長を経験してみたい、と思っていた。
「人を雇うことが苦手だと思っているが、実際にやってみたらどうなのだろうか?」
「実際にやってみたら、結構やれるんじゃないか?」
「社長として経営できるんじゃないか?」
なんてことを思っていた。そして、その人に相談した。
「私、社長をやってみたいんです。どこか社長を募集している会社を知りませんか?」と。
いま思えば、すごく恥ずかしい。ずうずうしい以前に、向こう見ずというか、無責任というか。当時の私は41歳。にも拘らず、まるで子どものような質問を無邪気にしていた。
この無謀な質問に対して、その人が優しく答えてくれたのが、一番最初の言葉。
「雇われ社長になるくらいなら、自分1人で社長をやった方がいいよ」
この言葉には、後がある。
「私も社長を経験したけど、雇われて社長をやるとのと、自分で社長をやるのとでは、まったく違う。No.1とNo.2との間には、大きな壁がある。絶対自分でやった方がいいよ」
「それに、腰掛けで社長をやりたいという人に、社長をお願いする会社もないと思うよ。きっと」
そりゃそうだわな…
「私、ちょっと社長やってみたいんですー」「できるかどうかはわからないんですけど、一度やってみたいんですー」なんていう甘っちょろい考えを持っている人に、自分たちの会社の意思決定を託そう!なんて考える人たちがいるはずがない。自分だったら、絶対そんな人には任せない。
まぁ、そんな訳で、いま、私は自分で社長をやっている訳です。有難いことです。
いざ、自分で社長をやってみるとよくわかる。その人の言いたかったことが。
何かを意思決定する時。すべての責任は、自分に降りかかって来る。いい結果が出ても、悪い結果が出ても。すべての意思決定から生じる責任は、自分に降りかかって来る。もっと言えば、”自分が意思決定しなかったことによる責任”すら降りかかって来る。いわゆる不作為による責任である。
今日、人に会わなかった。営業しなかった。採用しなかった。システムを入れなかった。出張しなかった。シリコンバレーに行かなかった。月へ行かなかった。
実は、これらすべてが、いま、意思決定していることである。
誰かに、あれやれ、これやれ。あれどうなった?これどうなった?いつまでにやっとけ。と言われることをやること。それは、とても簡単。それさえやっておけばいいから。
大変なのは、誰もやれとは言わないが、いまやっておいた方がいいことをやること。
「いまやっておいた方がいい(かもしれない)こと」は無数にある。
先の例で言えば、今日、月に行った方がいいのかもしれない。もっと卑近な例で言えば、今日、歯医者に行っておいた方がいいのかもしれない。
自分で全責任を持って意思決定しようとすると、それはもう膨大な量の意思決定と直面する。とにかく無数の選択肢があるのだ。
No.1とNo.2の大きな違いは、”意識している責任の範囲”の違いにある。といまの私は考えている。したがって、No.1とNo.2の違いは、立場の違いではない。意識の違いである。
作為にのみ責任を持つのか?
不作為にも責任を持つのか?
アンドシング株式会社が考える次世代リーダーは、
“不作為の意思決定の結果についても責任を持てる人”
であって欲しい。
そして、自分もそんな人でありたい。
まだまだひよっこ社長ではありますが、いまそんなことを考えています。
TAKU &sing
当社の次世代リーダー育成事業では、2つのターゲットを想定している。
①企業の次世代リーダー候補
②中高生の次世代リーダー候補
なぜならば、この先10年における日本の経済環境変化を踏まえると、”同時に”2つの年齢層で次世代リーダーが輩出される必要がある、と考えているからだ。そして、いまの私にとって、悩ましいのは後者の方だ。
なぜならば、これまで中高生との接点が皆無だったからだ。
いまの中高生のことを知りたい。だが、どこで出会えばいいのか?いきなり中学校や高校を訪問すればいいのか?うーん、どうしようかな…
なんてことをボンヤリと考えていた。
企業のことならよくわかる。接点もある。なぜならば、過去ずっと企業の方々と関わりながら仕事をしてきたからだ。経営コンサルティングにせよ、教育研修にせよ、個人コンサルティングにせよ。社長、役員、部課長、現場の方々。業種、業界、部門、職種を問わず、ほんとうにたくさんの方々とお会いしてきた。なので、企業向けの次世代リーダー育成事業は、私個人としてみれば、既知の事業の延長線上にあるものと言える。
それに比べたら、中高生向けの次世代リーダー育成事業は、ほとんどが妄想である。
ちなみに、いま描いている妄想を文字で表現するとこんな感じ。
“起業の種になる「創作」の領域で、「教えたい人」と「学びたい人」をつなぐプラットフォームを形成することで、新たな学校(学びの場)をつくり、次世代リーダーを輩出する”
とは言え、肝心要の中高生のことを知らない。どうしよう?
なまじ、企業のことはすでにわかっていて接点もあるもんだから、ついつい安易にそちらを優先して行動してしまう。「いつか中高生と出会うきっかけもあるだろうさ」と楽観的に捉えて、そちらの優先順位を落としてしまう。企業の方がすぐお金になる可能性も高いからと、これまたついついそちらを優先してしまう。半無意識的に。
既存事業を優先して、新規事業開発活動を後回しにする。既存顧客を優先して、新規顧客開拓を後回しにする。まあ、企業で言えば、よくある話ですよね。
だが、私にとって、より重要かつ緊急性が高いのは、中高生の方だ。知らない、わからないからと言って、動かない訳にはいかない。でも、どうしよう?
なんてことを漠然と思い続けていたら、先日ふとしたきっかけがあった。それをきっかけに、パッと視界が広がった。
そのきっかけとは、ある方と出会い、ある提案をされたことだった。
「私の娘の話を聞いてみませんか?」
目から鱗だった。
その方には、娘さんがいたのだ。しかも高校生。
「おーーーーーっ!そうか!」
「中高生のお子さんを持つ親御さんを介して、中高生と出会い、話を聞かせてもらえばいいのか!」
そのことに気づいてみると、私が中高生と出会い、話を聞かせてもらえそうな接点が浮かぶ浮かぶ!次から次へと浮かんで来た。
中高生には、必ず親がいる
私はその親と知り合いである
当たり前っちゃー、当たり前の話なのだが。なんと言うか。お恥ずかしいというか。いやはや盲点は恐ろしい。
結局、
「チャンスはすでに開かれている」
ということですね。
あとは、それに気づくか気づかないか。
もし中高生のお子さんをお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひお子さんのお話を聞かせてください!
次世代リーダー輩出のための新たな学校づくり
『開学』で、教育の世界を変える!
ぜひご協力をお願いできますと幸いです。
TAKU &sing
「2018年を終える時、私は、5人の人材を雇っている」
これは、私が年初に掲げた目標の一つだ。
だが、ずっと気になっていた。言葉を気にしていた。
“雇う”という言い方。
“従業員”という言い方。
昨日、その話をある人にしたら、こんな言葉をいただいた。
“団員”
アンドシング株式会社は、『開学』で教育の世界を変える、を使命としている。
あらっ?
いま、「使命」と書いてしまった…
ということは、アンドシング株式会社の使命は、これですね。
『開学』で、教育の世界を変える
すみません。脱線しました。
“団員”という言い方について。
「&sing」で「開学」なら、開学(楽)団員という言い方は、どうですか?
従業員ではなく、団員。
学団員、楽団員、劇団員。
これなら、上下の縦の関係ではな、横の関係をイメージしやすいのでないか?
仲間同士、団員同士の協調、ハーモニーを大切にしていることを伝えやすいのではないか?
そんなことを言ってもらった。
すごく嬉しかった。
ずっと探していた言葉の一つが、具現化されたからだ。
何より、ともに考えてくれたこと。提案してくれたことが嬉しかった。
言葉は大切だ。
イメージは先にある。
そのイメージをうまく表現できる言葉。それがなければ、うまくイメージを伝えることができない。そもそも、イメージ自体をクリアにすることができない。
イメージをクリアにするために、解像度を上げるために、新しい言葉を見つけることはすごく重要だ。苦労はするが、とても大切なことだ。
さて、私のイメージの話。
2018年が終わった時、5人の人と一緒に働いている。
その人たちは、私にとって、従業員ではない。
自分の頭で考えて自分で行動する人たちだ。私が指示して動く訳ではない。
指示はなくとも、みんなが協力し合う。お互いが協調し、ハーモニーを奏でる。もちろん、時に喧嘩もする。いまは出番がなくて休んでいる人もいる。
私も、その一員として働いている時もある。一方で、みんながイキイキと活動している時には、徹底して裏方に回っているかもしれない。弁当を買って来たり、トイレを掃除したり。
“いい学校”を創り上げるために、”いい作品”を創り上げるために、お互いがお互いを見て支え合いながら、活動している。お互いの呼吸、お互いのリズムを感じながら活動している。
すべては、学校に来てくれた人たちに、最高の学びを開いてもらうために。
学校に来て、学校から帰る。学校から帰る時には、新しい自分観や世界観が開かれている。学校に来た時には、まだ見えなかったものが見えるようになっている。
学校に来てくれた人に、そんな風になって欲しい。変わる、というより、開く、という感じ。
とは言え、何か特殊なことをしようとしている訳ではない。もともと学校とは、そういうところであったはずだ。学びとは、そういうものであったはずだ。
登校して下校する。授業が始まり、授業が終わる。その間で、新しい自分観や世界観が生まれるからこそ、授業が楽しい。学校に行くのが楽しい。知ること、わかることが楽しい。だからこそ、また学びたくなる。
アンドシング株式会社では、そんな学校、学びの場をつくりたい。そして次世代リーダーを輩出したい。
『開学』で教育の世界を変える
ってな訳で、アンドシング株式会社では、(密かに)開学団員を5人募集しています!
TAKU &sing
アンドシング株式会社の存在意義って何だろう?
次世代リーダー輩出のための新たな学校づくり
それが実現すると、社会にとってどういいのだろう?
一人一人の人にとってどういいのだろう?
誰のどんな苦しみが解消するのだろう?
誰がどんな風に喜んでくれるのだろう?
その手の中にあるものは、何だろう?
誰と誰が肩を抱き合って、&singしているんだろう?
いまさらながら、そんなことをつらつらと考えている。
会社の存在意義
会社の社会的意義
そこさえ明確にできれば、お金の心配もいらないし、人の心配もいらない。と私は信じている。
先義後利
義なき利はあぶく銭
義ある利は天下を回る銭
めっちゃくちゃ沢山の人が大喜びしてくれる事業を構想できたなら、ただそれだけで成功するに決まってる!!!
なーんてことを、44歳のひよっこ起業家は、ワクワクしながら考えています。
TAKU &sing
私は、ドロップアウトしてきた。
社会から、ではなく、自分から、である。
私がこれから書こうとすること。うまく書けないかもしれない。誤解を生むかもしれない。だが、私が”書こうとすること”は、私にとっての真実である。
私は、高校に進学したくない!と思っていたのに、高校に進学した。
大学に進学したくない!と思っていたのに、大学受験をした。そして、落ちた。
予備校には通いたくない!と思っていたのに、予備校に通った。半年で辞めた。大学には合格した。
就職したくない!と思っていたのに、就職活動をした。どこも受からなかった。
国に頼りたくない!と思っていたのに、会計士受験をした。そして、落ちた。
はじめて、講師になりたい!と思って、専門学校の講師になった。受験生と講師の二足のわらじを履いた。そして、会計士試験に合格した。
就職したくない!と思っていたのに監査法人に就職した。経営コンサルティング会社に移った。気がついたら15年が経っていた。
40歳になって、ようやく独立した。1年間、活動した。そして、1年後、再就職した。2年契約とは言え、再就職。結局、また就職した。
44歳になって、会社を設立した。そして気づいた。ずっと私は、起業家になりたかったのだ、と。そして、シンガーソングライターになりたかったのだ、と。
私は、高校に進学することで、大学に進学することで、資格を取ることで、就職することで、自分の人生からドロップアウトしてきた。
自分のなりたいものになる!という意志を脇に置いて、いわゆる”ふつう”のキャリアを歩んできた。
もっと早く起業家になるための道を歩んでいたなら…
もっと早くシンガーソングライターになるための道を歩んでいたなら…
進学すること、就職することを、”当たり前”のことだと思い込んでいなかったなら…
進学すること、就職すること以外にも、いろんな形での学び方、働き方があるということを知っていたなら…
いま、そんな想いを抱いている。
後悔はしない。後悔は未来を創らない。
私は、これから起業家になり、シンガーソングライターになる。
気になるのは、子どもたちのことだ。特に、未来の中高生たちのことだ。
未来の中高生たちは、どうやって進路を選ぶのだろうか?
自分のなりたいものになる!という意志を持てているだろうか?
自分のなりたいものになれる!という自信を持てているだろうか?
その意志と自信に叶う、進路を描けているだろうか?
長いものには巻かれろ。とりあえず進学しとけ。とりあえず就職しとけ。という安易な道を選ばずに済んでいるだろうか?
いや、そもそも、自分のなりたいものになるために”進路を選択している”という自覚を持てているだろうか?
毎日学校に行くことは、日々の選択である。今日も学校に行くということは、今日は学校を辞めないという選択をした、ということである。
毎日会社に行くことも、日々の選択である。今日も会社に行くということは、今日は会社を辞めないという選択をした、ということである。
流れに流されて、自らが日々選択しているということを忘れてはいけない。
日々自覚をしていなければならない。
未来の中高生たちは、どうやって進路を選択するのだろうか?
私にも、いま小学生の息子が二人いる。
勉強が好きなら、勉強の才能を活かせばいい。
スポーツが好きなら、スポーツの才能を活かせばいい。
音楽が好きなら、音楽の才能を活かせばいい。
ゲームが好きなら、ゲームの才能を活かせばいい。
せめて、”進学して就職する”という進路だけを、無意識、暗黙的、盲目的に想定しないで欲しい。
勉強ができなくても、スポーツができなくても、自分のなりたいものになる!ための道は必ずある、ということを知っておいて欲しい。
自分の才能を芽ぶかせる道を歩いて欲しい。
いまの中高生たちは、どうやって進路を選択しているのだろう?
僕にできることは、何だろうか?
今日、そんなことを想っています。
TAKU &sing
毎日、ブログを書く。
その秘訣は、”毎日、何かを書き始める”ということ。
書き始めることは何でもいい。
例えば、”人参”と書けばいい。”にんじん”と書いてもいい。
これがブログの最初の一文にならなくてもいい。
とにかく、書き始めること。
やり始めること。
書き始めた時点、やり始めた時点で、完成形が見えていなくてもいい。
どこにたどり着くのがわかっていなくてもいい。
書き始めること。
やり始めること。
始めの一歩を踏み出すこと。
1日で1つの記事を書けば、365日で365の記事になる。
1日で1つも記事を書かなければ、365日経っても記事は1つも残らない。
ブログも、仕事も、人生も同じ。
毎日毎日、書くか、書かないか。
やるか、やらないか。
その積み重ねが、今日を創る。
いまを創る。
TAKU &sing
事業構想、いや事業妄想の過程を記しておくことは、後々の役に立つであろう。ということで、現時点での事業アイデアをここに記す。
次世代リーダー輩出のためのシンガーソングライター教室
2月1日に会社を設立して以来、今日で20日目。急速に頭の中が整理されていっている。いま考えている事業アイデアは、2月1日の段階では全く頭の中になかった。2月16日に、私の個人的な夢は武道館単独ライブだ、とブログに書いた時点でもまだ頭の中にはなかった。いや、より正確に言えば、私の心の中にはそのアイデアがずっとあったのだが、頭の中には現れて来なかった、という感じだろうか。
過去10年以上、経営コンサルタントとして、他人の会社の新規事業創造や既存事業変革に関わってきたが、”自分の”の事業を創造(いまはまだ妄想)することがこんなに大変なことだとは思ってもいなかった。
私が小学校の卒業文集に書いた将来の夢は、「自分の会社を建てる」だった。つまり、私は、起業するという意識を遅くとも小学6年生の時には持っていた訳だ。
当時12歳。いまは44歳。その間、32年間。いやー、長い長い。それだけ経って、ようやく妄想。まぁ、自分なりにはそこそこ筋のいい妄想だけど。
さて、そのシンガーソングライター教室だが、まだその中身はない。というか事業そのものはたぶん普通。
重要なのは、その目的や目標。ここは、わりと自分なりにはしっかりとしている。このブログを書き続けていることで固まって来たことでもある。
目的は、次世代リーダー輩出。
目標は、そのための学校(学びの場)づくり。
シンガーソングライター教室は、そのための手段の一つ。私にとっては、かなり重要な手段。
教育ではなく、開学。
開学で教育の世界を変える。
そのために、理解から、創作へ。
創作のゴールは、アンドシング。ともに歌う。
ずっと、音楽に関わる何かで事業を起こしたいと思っていた。でも、「いまさら音楽?」という先入観というか、こっぱずかしさを拭えなかった。
でも、40歳になってから歌を歌うことを再開し、その活動を続けている中で、「やっぱオレ、歌が好きやわ!」と心の底から感じるようになった。
単純に歌っていて気持ちいい、というのもあるが、歌はほんとうに人の可能性を広げてくれる。歌が苦手な人でも、ラララで参加できる。楽器を弾けない人でも、手拍子なら叩ける。誰だってどんな人とだって繋がれる。しかも創造性や即興性に溢れている。そのいくつく先にはゴールがない。だからこそ、自由。
いま、そんな風に思っている。
そんな44歳の私が、今朝ようやくまとめたのは、こんなこと。
・好きなこと→音楽
・得意なこと→教育
・役に立てること→会計
まとめてみると、何のことはない。だが、たったこれだけのことをまとめるのに、ものすごい長い時間がかかった。少なくとも私は。
長い時間がかかった要因を考えてみると、一番大きいのは、この3つの要素の輪が重なる中心に来る事業アイデアが、なかなか浮かばなかったからだ。
でも、ようやく浮かんだ。次世代リーダー輩出のためのシンガーソングライター教室
もちろん、この事業アイデアは、現実の風を受けながら、いろんな形に変化していくだろう。だが、その原型のようなものは、すでにできている。これから、その原型を事業という形にしていく。
いまの日本には、様々な課題がある。
大企業での事業の変革と創造
中小企業での事業の承継と再創造
ベンチャー企業での事業創造の加速化
AIやロボティクスの進化への対応
ダイバーシティ、ワークライフバランスを踏まえた働き方改革
地方創生、地域活性化による地域の社会と経済の自立化
自分の頭で考え、自分で行動できる人の育成
などなど。
私なりに、これらいろーんな課題を総合していくと、その課題解決にとって最も重要な鍵は、”自ら事業を起こす力を持つ人の出現”である、との結論に行き着いた。
だから、アンドシング株式会社の目的は、”次世代リーダー輩出”なのである。
また、次世代リーダー輩出のためには、その人たちが輩出されるための場が必要になる。
だから、アンドシング株式会社の目標は、”次世代リーダー輩出のための学校(学びの場)づくり”なのである。
そして、そのための重要かつ具体的な手段が、”シンガーソングライター教室”なのである。
って、ここまで書いてみて思う。
こうやって文章にして整理してみると、まぁ、かなりぶっ飛んでますね。
なんでシンガーソングライター教室なのか?
リーダー輩出とどう繋がるのか?
そもそもシンガーソングライター教室では、何を教えるのか?
誰が来るのか?
どこでやるのか?
などなど。
次から次へとたくさんの疑問が湧き上がってくる。
それは私が私自身に問いかけている疑問でもある。
これから、それらの疑問を一つ一つ解決していく。
頭に浮かんでしまったものは仕方がない。
変だろうが何だろうが、それは自分の中から生まれてきた赤ちゃんみたいなものだ。
しっかりと育てて行ってあげるしかない。
しっかりと世の中に送り出してあげるしかない。
いま、そんなようなことを思っています。
あっ、ちなみにシンガーソングライター教室で歌の創り方を教えてくれるのは、私ではないですからね!
私はむしろそれを学ぶ生徒の側です。
徒然なるままに、京都へ向かう京阪電車の車中にて。
TAKU &sing
以前、私の学びの原点は祖父にあり、特に鶏頭牛尾という言葉にある、ということを書いた。
しかし、そのまた原点には、もう一人(母方)の祖父の死があったように思う。そしてその母方の祖父の死に対して感じた何かは、一個人の祖父に対してというよりは、人間に対して、あるいは生命、自然に対して感じた何かであったように思う。
母方の祖父は、私が3歳の頃に死んだ。私の心の奥にずっと残り続けている印象的なシーンは、斎場で”灰になった祖父の姿”だ。
「おじいちゃんは灰になったんだよ」
大人たちは無言でそう言っていた。
その時、子どもだった僕はこんなことを感じていた。
「おじいちゃんはどこに行ったのか?」
「そもそも、おじいちゃんはどこにいたのか?」
灰の中をいくら探しても、見えるのはぼろぼろになった骨だけ。おじいちゃんはいない。生きていた時、おじいちゃんには肉体があった。いまその肉体は灰になった。
「おじいちゃんはどこに行ったのか?」
3歳だった僕が直面した人の死は、そんな印象だった。
そこから僕は、こんなことを感じた(と思う)。
うわっ!オレも最後は灰になるのか!
うーん、でもオレはここにいるぞ…
手足や体は僕のものだ(と思っている)けど、それは僕のものではない、ということだろうか?
ってか、僕が見ている人という人は、みんな最後は灰になるのだろうか?
じゃあ、人の姿って何だろう?
仮の姿なんだろうか?
何が人を動かしているんだろう?
人の本体は、どこにあるんだろう?
おぼろげながらそんな疑問を感じたような気がしている。
その疑問は、他の生き物の死を見たことからも増幅されていった。
道端で車に轢かれた蛇の死骸
風呂桶の中で浮いていた屋台の金魚
水槽から飛び出して干からびたうなぎの死骸
カマキリに食べられたイナゴ
などなど。
生きとし生きるものは、みないつかは死ぬ。
ただし、僕にとって、その死はいまだに”肉体的、物理的な死”のみを意味している。
いまだに”本体が死ぬのか生き続けるのか”については、謎である。
だから僕は、必死で知ろうとしている。
人を動かしているものは何なのか?
自分を動かしているものは何なのか?
という問いに対する答えを。
(だからミスチルの歌詞が好きなんだと思う)
同じく、社会についても、企業についても同じ疑問を持っている。
社会を動かしているものは何なのか?
企業を動かしいるものは何なのか?
だから僕は、つねに物理的なものや人工的なものを剥ぎ取って世界を見ようとしている。
物理的なもの、人工的なものを剥ぎ取って、剥ぎ取って、剥ぎ取った先に残るものは何なのか?
それを見たくて、日々を生きている。
僕にとって、歌は、その一つの形である。
誰もいなくても、そこに歌はある。
父方の祖父の言葉を聞いて、「鶏頭牛尾でありたい!」と強く思ったのも、自分自身のコアな部分をしっかりと生きたい!自分の真実を知りたい!と思ったからなのだろう。
人はみないつかは死ぬ。
だからこそ僕は僕の生を全うする。
自分を動かしているものは何なのか?
人を動かしているものは何なのか?
企業を動かしているものは何なのか?
社会を動かしているものは何なのか?
自分を精一杯生きる中で、その答えは見つかるんだと思っています。
あなたが心の底から知りたいことは何ですか?
生きる原動力、学びの原点は何ですか?
呼吸すら、自らの意志でできないのが人である。
生きているということ、歌を歌えるということは、とてつもなくすごいことだと思います。
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