以前、私の学びの原点は祖父にあり、特に鶏頭牛尾という言葉にある、ということを書いた。
しかし、そのまた原点には、もう一人(母方)の祖父の死があったように思う。そしてその母方の祖父の死に対して感じた何かは、一個人の祖父に対してというよりは、人間に対して、あるいは生命、自然に対して感じた何かであったように思う。
母方の祖父は、私が3歳の頃に死んだ。私の心の奥にずっと残り続けている印象的なシーンは、斎場で”灰になった祖父の姿”だ。
「おじいちゃんは灰になったんだよ」
大人たちは無言でそう言っていた。
その時、子どもだった僕はこんなことを感じていた。
「おじいちゃんはどこに行ったのか?」
「そもそも、おじいちゃんはどこにいたのか?」
灰の中をいくら探しても、見えるのはぼろぼろになった骨だけ。おじいちゃんはいない。生きていた時、おじいちゃんには肉体があった。いまその肉体は灰になった。
「おじいちゃんはどこに行ったのか?」
3歳だった僕が直面した人の死は、そんな印象だった。
そこから僕は、こんなことを感じた(と思う)。
うわっ!オレも最後は灰になるのか!
うーん、でもオレはここにいるぞ…
手足や体は僕のものだ(と思っている)けど、それは僕のものではない、ということだろうか?
ってか、僕が見ている人という人は、みんな最後は灰になるのだろうか?
じゃあ、人の姿って何だろう?
仮の姿なんだろうか?
何が人を動かしているんだろう?
人の本体は、どこにあるんだろう?
おぼろげながらそんな疑問を感じたような気がしている。
その疑問は、他の生き物の死を見たことからも増幅されていった。
道端で車に轢かれた蛇の死骸
風呂桶の中で浮いていた屋台の金魚
水槽から飛び出して干からびたうなぎの死骸
カマキリに食べられたイナゴ
などなど。
生きとし生きるものは、みないつかは死ぬ。
ただし、僕にとって、その死はいまだに”肉体的、物理的な死”のみを意味している。
いまだに”本体が死ぬのか生き続けるのか”については、謎である。
だから僕は、必死で知ろうとしている。
人を動かしているものは何なのか?
自分を動かしているものは何なのか?
という問いに対する答えを。
(だからミスチルの歌詞が好きなんだと思う)
同じく、社会についても、企業についても同じ疑問を持っている。
社会を動かしているものは何なのか?
企業を動かしいるものは何なのか?
だから僕は、つねに物理的なものや人工的なものを剥ぎ取って世界を見ようとしている。
物理的なもの、人工的なものを剥ぎ取って、剥ぎ取って、剥ぎ取った先に残るものは何なのか?
それを見たくて、日々を生きている。
僕にとって、歌は、その一つの形である。
誰もいなくても、そこに歌はある。
父方の祖父の言葉を聞いて、「鶏頭牛尾でありたい!」と強く思ったのも、自分自身のコアな部分をしっかりと生きたい!自分の真実を知りたい!と思ったからなのだろう。
人はみないつかは死ぬ。
だからこそ僕は僕の生を全うする。
自分を動かしているものは何なのか?
人を動かしているものは何なのか?
企業を動かしているものは何なのか?
社会を動かしているものは何なのか?
自分を精一杯生きる中で、その答えは見つかるんだと思っています。
あなたが心の底から知りたいことは何ですか?
生きる原動力、学びの原点は何ですか?
呼吸すら、自らの意志でできないのが人である。
生きているということ、歌を歌えるということは、とてつもなくすごいことだと思います。
TAKU &sing