「シンガーソングライター」と「小西真奈美さん」

今日は改めて「シンガーソングライター」について考えてみたい。

と思って、「シンガーソングライター」というキーワードでググってみた。

そしたら、な・な・な・なんと!

【衝撃】シンガーソングライターとしてデビューした女優・小西真奈美さんがヤバすぎる件
https://rocketnews24.com/2017/10/11/966948/

という記事が目に飛び込んできた。

マジか!

と思って記事を読むと、なんと、あの小西真奈美さんが「アラフォーでシンガーソングライターデビューした」とあるではないか!

で、オフィシャルブログを確認しにいくと…

LINE BLOG 小西真奈美オフィシャルブログ
「I miss you EP」世界配信
https://lineblog.me/konishimanami/archives/1062428034.html

とある。

たしかに、あの小西真奈美さんが歌っているではないか!

「かわいい!」

「かっこいい!」

「おっー!オレも頑張るぜい!」

と動画を見て、想いを新たにしました。

小西真奈美さん。むかしから好きなんですよね〜

って、『ココリコミラクルタイプ』に出た頃からくらいですが。

一度だけ、東京の自由が丘を歩いていた時にすれ違ったことがあって。

背が高くて細くて小顔で。さらっとした質感の白のブラウスに、これまたさらっとしてるけどデニムっぽいインディゴブルーのスカートを履いて。ボーイッシュのようでフェミニンな感じ。独特の空気感。

めちゃかわいかった。

という甘酸っぱい思い出があることで、さらに親近感を抱いているのかもしれない。

「いや〜、青春だな〜♪」

小西真奈美さん、頑張って欲しいです。

私も同じアラフォーとして(まだギリ44歳)頑張りたいと思います。

ってことで「シンガーソングライターって何や?」を考えるのはまたの機会にします。

yu-kaさんの『シンガーソングライター教室(超入門)』もよろしくね♪

どっひー &sing


次回の『シンガーソングライター教室(超入門)』は6月23日(土)16時00分〜17時30分。テーマは、「お祝いミニソングをつくろう♪」です。

「自分にとって大切な人」の誕生日や結婚式などのお祝いに。

「その人」のことを想って、一緒にミニソングをつくってみませんか?

*講座内容のご確認とお申込みはコチラ(こくちーずプロ)から。

【現状維持に囚われない】未来への意思決定と機会原価のお話

先日、たぶんはじめてブログで管理会計に関わることを書いた。その時は「埋没原価」という概念について書いた(詳細は2018年6月7日の学ぶログを参照)。今日はその続きとして、「機会原価」について書いてみたい。

いずれも、未来への意思決定を考える上で、有用な概念だ。

ふだんの仕事や生活の中で「このままでいいんだろうか?」という疑問をお持ちの方には、ぜひ読んでもらいたい。未来への一歩を踏み出すかっけになれば幸いである。

さて、まずは機会原価の定義から。

機会原価とは、最善の意思決定の機会を逸したことによる損失のこと。実際に実現した利益 (または原価) と,実際に発生した事象に対して意思決定が最善のものであれば実現したであろう利益 (または原価) との差で表わされる。たとえば 100万円の資金でA社,B社,C社のなかから有利な株を購入する目的でA社の株を選択したものと仮定し,6ヵ月後の各社の株価はA社=130万円,B社=150万円,C社=110万円であるとする。もし最善の意思決定であればB社の株を選んでいたはずである。したがって機会原価は 150万円-130万円=20万円ということになる。

コトバンクより引用

ややわかりづらい感はあるが、機会原価とは「得べかりし利益」のことである。

そして、機会原価が私たちに教えてくれることは、「現状維持が当たり前だと思っていたらダメだよ〜」「現状維持は実は損しているのかもしれませんよ〜」ということだ。

例えば、「このままこの会社に居続けていいんだろうか?」という疑問を持ったとする。その時に考えるであろうことをざっくりとまとめてしまえば以下の2つの観点に集約される。

①このままこの会社に居続けることで得られるであろう利益(安心も含む)
②このままこの会社に居続けることで生じるであろう損失(苦痛も含む)

これに対して、機会原価という概念は、3つ目の観点を与えてくれる。

③もしこの会社にしがみつくことを止めたとしたら得られるであろう利益
*より正確に言えば、もしこの会社にしがみつくことを止めて「最善な選択をしたとすれば」得られるであろう利益

この3つ目の観点を持つか否かは、未来への意思決定に大きな影響を与える。

基本的に「現状維持」は、安心で苦痛が少ない。なぜならば、未知への不安が少ないからだ。その代わり、未来への希望はない。

この「未来への希望」を考えさせてくれるのが、機会原価だ。

「もしこの会社にしがみつくことを止めたとしたらどんないいことがある?」

「もし会社を辞めたとしたら、どんなことをする?そこでどんなものを得られる?」

「会社を辞めないとしても、副業をするとしたら、どんなことをする?そこでどんなものを得られる?」

などなど。

現状維持だけが人生ではなかったことを思い出させてくれる。

未来にはつねに複数の選択肢が広がっている。

「複数の」なんて甘っちょろい言葉で表される程度ではない。それこそ、何千、何万という無数の選択肢が広がっている。それも目の前に。

いまこの瞬間。一秒一秒ごとに無数の選択肢が広がっている。

別に仕事じゃなくても同じこと。趣味でも生活でもそう。

「いま」ウクレレを弾き始めたら、10年後には人前でウクレレを弾きながら歌っているかもしれない。

「いま」アラビア語を習い始めたら、10年後にはドバイで暮らしているかもしれない。

「いま」自分のビジネスを始めたら、10年後にはそのビジネスが花開いているかもしれない。

ただし、「いま」新たな道へと進む意思決定をしなければ、新たな未来がやってくることはない。「得べかりし利益」を得ることもない。

「いま」意思決定しないことは、「得べかりし利益」を失うこと。

機会原価という概念は、そのことを私たちに教えてくれる。

「現状維持が当たり前」「現状維持が一番得(損しない)」

暗黙的にそう考えているとしたら、一度、機会原価という概念について考えてみてはいかがでしょうか?

機会原価は、現状維持だけが人生ではなかったことを思い出させてくれます。

機会原価は、未来にはつねに複数の選択肢が広がっていることを思い出させてくれます。

もちろん「現状維持がベストな選択!」という結論もあり得ます。

無理に現状を変える必要もありません。

問題は、「暗黙的に」現状維持に囚われていることです。

現状維持を「自分が選択したことだ!」として捉えていないことです。

長く果てしない人生。

どうせなら、

「私の目の前にはたった一本の道しかない…」
と暗く嘆きながら、とぼとぼと歩いていくのではなく、

「私の目の前にはつねに複数の道が広がっている!」
と明るく希望を持ちながら、るんるんと歩いていきたい

そんな風に思っています。

どっひー &sing

生きる鼓動、リズム、湧き上がるエネルギー、その突破口

どくっ どくっ

脈打つ鼓動

たんっ たんっ

時を刻むリズム

どくっ どくっ

たんっ たんっ

どくっ どくっ

たんっ たんっ

単調な鼓動

単調なリズム

だけど そこにはエネルギーがある

単調だからこそ充満するエネルギー

単調の繰り返し

充満するエネルギー

単調の繰り返し

充満するエネルギー

突破口を探し始める

単調を突き破る新たな何か

手を叩く

足を鳴らす

立ち上がる

身体を揺らす

声を出す

両手を広げる

大きく動く

大きく動く

大きく叫ぶ

大きく叫ぶ

爆発する!

あなたは、どんな風に単調を突き破りますか?

わたしは、どこまで行っても歌とダンスに行き着くような気がしています。

徹底的に単調を繰り返してみる。

するとその先に、自分なりの自己表現の仕方が自ずと現れてくるのではないかなー、なんてことを思っています。

だって我慢できないですもん。

単調が延々と続くのなんて。

単調を受け入れつつも創造を求める力

我慢しつつも我慢し切れない力

それこそが生きる原動力なのではないでしょうか?

知らんけど…

どっひー &sing

【過去に囚われない】未来への意思決定と埋没原価についてのお話

かつて意思決定のための会計を学んだ時、埋没原価という概念を学んだ。

埋没原価(サンクコスト)とは、どの選択肢を採用してもそれとは無関連に発生する原価(すでに支払ってしまったお金)のこと。過去の投資などがそれに当たる。

GLOBIS知見録より引用

例えば、資格を取るための授業料として、専門学校に50万円支払ったとする。しかし、残念ながら、資格試験には合格できなかった。来年も資格を取るための勉強を続けるか。それとも、諦めて勉強を止めるか。どちらを選ぶにせよ、過去に支払った50万円が戻ってくることはないとする。

将来に向けた選択肢は2つ。

1. 勉強を続ける

2. 勉強を止める

さて、この意思決定をするに際して、過去に専門学校に支払った50万円をどう考えるか?

この、過去に支払った(戻ってくることのない)お金を埋没原価という。

埋没原価は、将来の意思決定を左右しない。

なぜならば、将来、どのような選択肢を選ぶとしても、変わることのない、すでに終わった話だからだ。

したがって、先の例で言えば、勉強を続けるか否かの意思決定をする際しては、過去に専門学校に支払った50万円(埋没原価)を考慮する必要はない。

過去に支払った50万円のことは、すっぱり忘れて、いまから(いまなら)どうするか?だけを考えて意思決定しよう!ということになる。

しかしながら、だ。

現実の意思決定は、必ずしも論理的ではない。人間の心理が影響するからだ。

「過去の努力を無駄にしたくない」

「ここまでやった以上、いまさら止められない」

「せめて過去に費やしたお金(と時間)くらいは取り戻したい」

などなど。

どうしても過去に囚われてしまう。

失われた過去を取り戻すことはできないにもかかわらず。

特に、時間は未来に向かってしか流れていない。

いまから未来に向けての意思決定は、まさに「いまから」のことだけを考えて意思決定すればいい。

これまでどうだったとか、あの時どうだったとか。

そんなものは考えなくていい。考える必要はない。

とは言え、それでも過去に囚われてしまうのが人間なのかもしれない。

実際、私自身、よく思う。

「ここまで頑張ったんだからなー」

「いまさら止めるのもったいないしなー」

「もうちょっと頑張ってたらいいことあるかもしれないしなー」

「せめて過去に〇〇した分の元を取れるくらいのところまでは続けるか…」

と。

特に、かつて会社を退職する前がそうだった。

このまま会社に居続けるか止めるか。

それを考える時、どうしても過去に囚われていた。

必ずしも、いまから未来のことだけを考えることはできなかった。

過去に自分が費やした努力も時間もお金も。それらすべてが埋没原価であるにもかかわらず。

どうしても過去に囚われてしまっていた。

失ったものに対する元を取ろうと考えていた。

だけど、いま考えると、こう思う。

「失ったものって何?」

「もともと生まれた時には何も持っていなかったはずなのに、いったい何を失ったんだろう?」

「むしろ得てきたものの方が多いんじゃないの?」

「過去に自分が費やした努力と時間とお金のおかげで得てきたもの。頂いてきたもの。それらを未来に活かしていけばいいだけなんじゃないの?」

「失った(ように見える)ものではなく、得てきたものに着目すればいいんじゃないの?」

と。

まぁ、こう言ってみたところで、なかなかそう単純には割り切れないのが自分の心なのではありますが…

でも、過去に失ったものではなく、得てきたものに着目してみるのは、良いと思います。

例えば過去1年間。勉強を続けてきたとしたら、必ず何かを得ているはず。

あるいは、過去1年間。仕事を続けてきたとしたら、必ず何かを得ているはず。

それら得たものは、失ったものではなく、埋没原価でもなく、これから未来に活かせるもの。

これからどんな未来に向かうにせよ、これまでに得てきたものを自覚し、それをしっかりと自分の周りに配置しておくことは、とても有用だと思います。

ぜひ一度、これまでに得てきたものの数々に着目してみてはいかがでしょうか?

ちなみに私の場合は、これまでに得てきたものの大部分は、他者からの戴き物でした。

実際、自分一人の力で得てきたものなんてほとんどないんですよねー

これは私にとって悲しくもあり嬉しくもある真実です。

どっひー &sing

足湯ライブ!

今週月曜日。個人のfacebookで次のような投稿をした。

大人が好きなことをやろう!応援しよう!みたいなコミュニティをつくるべく、明日5日(火)18時から北浜で「やりたいこと会議」をやるので、ご興味ある方ご一報ください

そして昨日、「やりたいこと会議」をやった。

集まったのは私を含め3人。

場所は北浜のモスバーガー。

18時スタートで、3時間におよぶ、ゆるーい対話。

結果、「足湯ライブ!」をやることに決まった(決めた)。

勝手に想像している場所は、京都の嵐山。嵐電の駅の中にある足湯。

集まっているのは、人種・性別・年齢・職業・肩書きも様々な老若男女。

なんせ足湯ですから。

すべての人をまるっと受け入れてくれる。

そこでライブをやる。ライブは音楽だけじゃない。歌う人もいれば、踊る人もいるし、詩を朗読する人もいる。なーんにもしない、というライブもあるかもしれない。

電車も貸し切りたい。

周りのお店の人たちともコラボしたい。

たまたまそこで出会った人たちと即興で何かをやりたい。生み出したい。

漠と考えているのは、

言葉以前の世界を体感したい

ということ。

ノンバーバルコミュニケーションをベースにした、異文化コミュニケーション。

いや、ノンバーバルというよりは、ハートなコミュニケーション。

なんせ足湯ですから。

はだしをお湯で繋いでくれる。

言葉以前の世界で心を繋ぐことができれば、人種・性別・年齢・職業・肩書きなんて、かるーく超えて人が繋がれるのではないか。

なんとなーくの共感状態が生まれ、そこはかとなーいリズムが流れるのではないか。

それがベースになることで、一人一人が自由に自分を表現できるようになるのではないか。

そんな風に自由な状態になれたら、何か不思議なものが「ぽわっ」と生まれて来るんじゃないか。

生まれて来たらいいなぁー♪

なんて妄想しています。

まぁ、今日のブログで何が言いたいのか、というとよくわかりませんが、

僕は足湯ライブをやりたいと思った!

そしてそう思った時には仲間がいた!

ということです。

何より、「大人が好きなことをやろう!応援しよう!みたいなコミュニティをつくるべく」はじめた「やりたいこと会議」でしたが、よくよく考えたらたら、3人集まった時点で「すでにコミュニティができていた」ということです。

これ、昨日来てくれた方に言われて気づきました。

意外な盲点…

僕は「なんかでっかいコミュニティをつくりたい!」とか、「たくさんの人を巻き込みたい!」と思っていたんでしょうね。所詮は自己顕示欲。

だから、目の前にいてくれる人のことをしっかりと見ていなかった。

そうじゃない。何かがまだ足りないんだ、とぼんやりと思っていた。

でもそうじゃないんですよね。

自分が心からやりたい!と思うこと

そしてそれに共感してくれる仲間

それはもうここにあるんでしょうね。

足湯ライブ!

なぜこれが浮かんだのかは、自分でもまったく意味不明だけど、少なくとも想像するだけでワクワクします。

だって、みんなで集まって、ズボンやスカートの裾をたくし上げて、はだしで足湯ですよ。

絶対、心温まるでしょ♪

これ、成功したら、箕面とか白浜でもやりたい!

いつやるの?

夏でしょ!

協力していだける方、大募集中です!

できるかどうかは後で考える!

どっひー &sing

自分にとって本当に大切なことをやる

昨日一日で、随分と心境の変化があった。

変化のプロセスをすっ飛ばして、結論だけを述べると、

あーだこーだと御託を並べている暇があったら、「自分」と「自分の大切な人」にとって本当に必要だと思うものを創り続けるために時間を割こう!

ということだ。

僕は、なんだかんだ言って、何かを批判していた。

いまの経済の仕組みだとか、社会の仕組みだとか。

あるいは、満員電車だとか、個性を失わせかねない働き方だとか。

何かを批判する、と言うことは、暗黙的に誰かを批判する、ということだ。

そして、その批判に自分の時間を割くということは、その間、自分では何も創り出さない、ということだ。

もしかしたら、何かを批判している自分自身が一番無駄な存在なのかもしれない、と思った。

何かを批判すること、そのものが問題なのではない。

問題は、何かを批判しているその間の時間、「自分は何も創り出していない」ということだ。

ってことで、

あーだこーだと御託を並べている暇があったら、「自分」と「自分の大切な人」にとって本当に必要だと思うものを創り続けるために時間を割こう!

という気持ちになった。

そして、私の大切な友人からこんな言葉をもらった。

みたい世界は 自分でつくる

その人オリジナルの言葉なのか、どこかからの引用なのかはわからない。

でも、すごくいい言葉だなぁー、と思った。

そう。

みたい世界は自分でつくるのだ!

キョロキョロよそ見している暇があったら、いまここから始めるのだ!

どこかにいる誰かを探すのではない。

いまここにいる自分と

いまここにいる自分にとって大切な人と

ともに

始めることだ。

いつかできたらいいなぁー、と願っていることは、いまから始めないとでき上がることはない。

僕は、いつか自作の歌を人前で歌えたらいいなぁー、と願っている。

だから、シンガーソングライター教室を始めた。

そして、自分の子どもたちのために、いつか実践を通じてビジネスの立ち上げ方を学べる場をつくれたらいいなぁー、と願っている。

だから、私はそういう場をつくり始める。

願いは叶えられるのを待っている

あとは行動するだけだ。

どっひー &sing

区分、区別、差別。くだらない言説。

昨日の学ぶログに対して、こんなコメントをくれた方がいた。

あなたのように、区分、区別、差別するような人間がいるから、マジョリティだマイノリティだの、くだらない議論が生まれる。

*詳細は、昨日の学ぶログ『パンダとレッサーパンダ。マジョリティとマイノリティ。』のコメント欄をご覧ください。

このコメントをいただいて、「確かに!」と思った。

パンダとレッサーパンダを区分、区別、差別していたのは、僕自身なのだ。

また、マジョリティとマイノリティを区分、区別、差別しているのも、私自身の心なのだ。

ってことで、私自身としては、誰かや何かを見る時に、「その人そのもの」「その物そのもの」を「何ものとも比較せずに」ただ「あるがままに観る」ように心がけよう!と改めて思いました。

パンダはパンダ。レッサーパンダはレッサーパンダ。

もっと言えば、同じパンダであっても、上野動物園のシャンシャンはシャンシャン。アドベンチャーワールドの結浜(ゆいひん)は結浜。レッサーパンダも一匹一匹が異なる。

誰かや何かを見る時。ついつい、すでに知っている何かと比較してしまう。あるいは、すでに知っている枠組みで、ついつい、区分、区別(場合によっては差別)してしまう。それも知らず知らず、無意識のうちに。

いやー、よっぽど気をつけていないと気づけないんでしょうね。自分が無意識に持ってしまっている思考の枠組み、って。

その人そのもの、その物そのものを、ただあるがままに観る。

「ほんと、そんなことできるんかなぁー」と思う一方で、つねに「そうありたい」と思う。

人は、一人一人異なる。

人種・性別・年齢・職業・肩書きなどにもとづく定義は、所詮は一般的な枠組みにもとづく定義に過ぎない。その人そのものを説明する定義にはなり得ない。

僕の大好きな『星の王子さま』には、こんな文章が出てくる。少し長くなるが、岩波少年文庫版より引用する。

おとなというものは、数字がすきです。新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。<どんな声の人?>とか、<どんな遊びがすき?>とか、<チョウの採集をする人?>とかいうようなことは、てんできかずに、<その人、いくつ?>とか、<きょうだいは、なん人いますか>とか、<目方はどのくらい?>とか、<おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか>とかいうようなことを、きくのです。そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです。

だけれども、ぼくたちには、ものそのもの、ことそのことが、たいせつですから、もちろん、番号なんか、どうでもいいのです。

僕は、いつもこの文章を読むたびに感銘を受ける。

そして思う。

本当に大切なものが見える大人になれているのだろうか?

と。

あなたは、どんな声の人ですか?

あなたは、どんな遊びが好きですか?

あなたは、チョウの採集をしますか?

あなたは、どんな人ですか?

わたしは、どんな人ですか?

つねに「ものそのもの、ことそのこと」を大切にできる人でありたいなぁー、と思います。

そして、できうる限り、無用な区分、区別、差別をしない人でありたいなぁー、と思います。

マジョリティでもなく、マイノリティでもなく。

ただただ一人の人間として、そう思っています。

感謝!

どっひー &sing

パンダとレッサーパンダ。マジョリティとマイノリティ。

小学生の頃、上野動物園にパンダを見に行ったことがある。ものすごい行列だったと記憶している。

そのせいなのか、僕は動物園に行くたびに思う。

パンダには人だかりができるのに、なぜレッサーパンダには人だかりはできないのだろうか?

と。

レッサーパンダ、可愛いですよ。顔も動きもカラーリングも。

でも、なぜかパンダ(正式には、ジャイアントパンダ)ほどには人気がない。

僕にとっては、すごい不思議。

パンダは並ばないと見られない。

レッサーパンダは並ばなくても見られる。

「パンダの何が人を興奮させるのだろう?」といつも考えてしまう。

私なりの仮説は3つ。

1. パンダの顔はキャラクターっぽい

2. パンダは希少性があるっぽい

3. パンダはみんなが好きと言っている

これをレッサーパンダに当て嵌めてみると、実は1も2も該当する。むしろレッサーパンダの方が絶滅危機度は高いようだ。

となると、レッサーパンダがパンダに負けるのは、3のみ。

みんなが好きと言っているかどうか。

ということで、私の仮説にもとづけば、もし今日からみんなが「レッサーパンダ好き!」と言うようになれば(例えば、ツイッターでバズれば)、レッサーパンダにも行列ができるようになるはず。

じゃあ、どうすれば今日からみんなが「レッサーパンダ好き!」と言うようになるか?と言うと…

まずはじめに立ち上がるべきは、「隠れレッサーパンダ好き」だろう。

いまインストグラムで「#レッサーパンダ」のハッシュタグを検索してみたら、「118,635件」と出てきた。ツイッターだと「920Tweets」と出てきた。

まずスタートはここから。

これまで、「パンダ好き」(の方が一般的だ、という世の中の風潮)の影に隠れて言えなかった一言。

「私は、パンダよりもレッサーパンダの方が好きなんだ!」

この一言を言えるか否か。

レッサーパンダ、さらにはレッサーパンダ好きが市民権を得られるかどうかは、サイレントマジョリティが声をあげて団結できるかどうか?にかかっているのではないだろうか。

なーんてことを、僕は子どもの頃からずっと考えていた。

サイレントマジョリティという言葉を知ったのは大学生の頃だったような気がする。

マイノリティは、サイレントである限りでマイノリティである。たとえマイノリティであっても、一人一人が声をあげて団結すれば、それはある一定規模のマジョリティになりうる。

僕は、ずっとそういうことを考えてきた。

とは言え、一方で、自分でもよくわからないことがある。

僕は、なぜマイノリティにこだわるのか?ということである。

おそらく僕は、世間一般に言う、いわゆるマイノリティではない、と思う。一応、Wikipediaの「社会的少数者」マイノリティのURLを挙げておく。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/社会的少数者

だが一方で、僕は、マジョリティだとも思わない。

マイノリティでもなく、マジョリティでもない僕は、いったい何なんだ?

これはこれで、まぁ、そこそこの悩み、というか自己のアイデンティティの収まりの悪さを感じる訳です。

でもまぁ、それでも最近は、「自分は自分だし。マイノリティでもマジョリティでもいいじゃない!」と考えるようになってきた。

だって、マイノリティとマジョリティの間には、とてつもないグラデーションがある訳だし。ある人たちの集まりでは自分がマイノリティだったとしても、別の人たちの集まりでは自分がマジョリティになることがある訳だし。

とどのつまり、みんな一人一人違うし!

ってことは、マイノリティだのマジョリティだのという括り方は便宜的な括りに過ぎないってこと。

誰かが何かを意図して、「こう括ろう!」とするから、ある種の括りができる。そして、マイノリティとマジョリティができる。レッサーパンダ好きは、パンダ好きの影に隠されることになる。

レッサーパンダだって、パンダだって、どっちも可愛いですよ。

ちなみに、僕はツキノワグマも好きです。カマキリとカタツムリも好きだし。

自分の好きなものくらい、自由でいいやん!

他の人と違うものを好きでもいいやん!

誰に迷惑をかけるでもなし。

自分が本当に好きなものを「好きだ!」と言える。

ただそれだけのことで、世界は変わるんじゃないかなぁー、なんて思っています。

どっひー &sing

地獄の運動会

今日は息子の運動会。

運動会といえば、『天国と地獄』。

かけっこの時に流れる定番曲だ。

一方、嘉門達夫さんの替え歌の一つに、『地獄の運動会』という曲がある。

原曲は『天国と地獄』。歌詞は、「運動会なんてクソくらえ!」という内容。運動が苦手な子の運動会に対する恨みつらみが歌詞になっている。

とても面白い。

替え歌って面白いなぁー、と改めて感じる。

で、運動会の話。

私にとって運動会は、行進させられる。並ばされる。立たされる。団体行動させられる。競争させられる。何かと我慢させられる。というようなイメージ。

とにかく「型に嵌められてやらされる感」がたっぷりある。

運動会は嫌いではなかった。

だが、団体行動は嫌いだった。

長い時間をかけて、行進の練習をして。

いったい誰のための運動会なんだろう?と思った。

行進って、何のためにやるんですか?

大人になってから、いったい何の役に立つんですか?

なーんてことを、大人になった今でも思う。

子どもの頃に運動会をやるなら、「子どもたちの」「子どもたちによる」「子どもたちのための」運動会をやればいいんじゃない?と思う。

行進するかしないかも子どもたちが自由に決める。やっぱオリンピックの開会式に憧れるから、行進しようぜい!となれば行進すればいい。ユニフォームも揃えたらいいし、聖火リレーをやるならそれも良し。

運動会の出し物も全て子どもたちが自由に決める。組み立て体操よりも、パラパラがいいならパラパラを踊る。100m走は、あえて123m走にしてみる。リレーのバトンはチクワ。チクワを受け渡ししていって、最後はゴボウに刺す!みたいな。

せっかく長い時間をかけて練習するのであれば。

せっかく出し物としてみんなに見せるのであれば。

自分たちが「本当にやりたい!」と思えることに取り組む方が断然いいのになぁー、と思う。

かけっこの音楽も『天国と地獄』にこだわる必要もない。

スポーツ科学を駆使すれば、子どもたちの走るスピードを最速化してくれるような音楽も見つかるだろう。

いっそ、123m走にちなんだ、自分たちのオリジナルソングをつくったっていい。例えば、BPM(Beats Per Munite)123で。

もしBPM123だとスピードが遅すぎるなら、一番ノリノリで走った人が優勝!みたいな競技にしちゃってもいい。

重要なことは、「誰の」「誰による」「誰のための」運動会なのか?だ。

決して、父兄のための運動会ではないだろう。まして先生のための運動会でもないだろう。

子どもの頃から。

型に嵌めるか。

自由な発想を伸ばしてあげるか。

できることなら、自由な発想を伸ばしてあげたいなぁー、なんて思っています。

もっと自由に!

もっと楽しく!

どっひー &sing

【作詞作曲の原点】自分オリジナルの曲をどうやってつくり出すか?

私は、小学生の頃から、漠然とシンガーソングライターに憧れていた。

過去、何度も何度も自作の曲づくりに挑んできた。

だが、一度も人前で披露できる曲は完成しなかった。

「これは自分で作った曲だ!」と自信を持って言える曲を生み出すことができなかったからだ。

例えば、ふとメロディーが浮かんだ時。

「このメロディー、どこかで聴いたことがある気がするなぁー?」と思ったり。

「こんなメロディー、どこでも聴いたことがないけど、大丈夫かなー?」と思ったり。

似てて不安。似てなくて不安。

自分オリジナルをつくりたいからこそ、何かに似ていると不安になる。

一方で、自分オリジナルをつくりたいくせに、何にも似てなくて不安になる。

自由になりたい。でも、何か拠り所がないと不安。

私が自作の曲づくりに挑む過程は、自分との戦いであった。

そして、これまでずっと自分との戦いに負け続けてきた。

「私には、自分オリジナルの曲はつくれないのかもしれない」

そう思い続けてきた。

だが、私にとって、自分オリジナルの曲をつくることは、私のアイデンティティを確立することと直結している。

したがって、私が自分オリジナルの曲づくりを諦めることは、自分自身を諦めることであり、私自身を生きることを諦めることに直結してしまう。

だからこそ、私はいまだに自分オリジナルの曲づくりにこだわっている。

シンガーソングライターであることにこだわっている。

そして、シンガーソングライター教室にこだわっている。

たかが曲づくり。されど曲づくりである。

そんな中、先日、ようやく自作の曲が完成した。

長さはちょうど60秒。亡き父に贈る曲。

ようやく「自分オリジナルだ!」と言い切れる曲を書けた。

なぜならば、「私が」「私の父を想って」「私の父に伝えるために」書いた曲だからだ。

この曲は、他の人には絶対に書くことができない。

もし仮に、私以外の人(例えば、私の母や兄妹)が「私の父を想って」「私の父に伝えるために」曲を書いたとしたら、まったく別の曲が生まれるだろう。なぜならば、私と私以外の人とでは、私の父に対して抱いている想いや思い出がまったく異なるからだ。

私が私の父に対して抱いている想いや思い出は、私の心の中にしかないものである。その想いや思い出は、私だけが持っているものであり、私にしか表現できないものである。

ゆえに、私が私の亡き父に贈る曲は、私にしかつくれない曲であり、自分オリジナルの曲である。

逆に言えば、

誰もが自分オリジナルの曲をつくれる

ということだ。

誰を想い、どんな思い出をもとに、何を伝えるかは、自由。

大切なことは、「具体的な」相手を想定することだ。

「その人」のことをしっかりと想定し、想像することだ。

「その人」は、父でも、母でもいい。妻でも、夫でも、子どもでも、友達でもいい。あるいは、ペットでも、大切な物でもいい。

「その人」のことを想い、「その人」との思い出をもとに、「その人」に伝えたいことを言葉にし、それを詩にし、曲にする

これが、いまの私が掴んだ「自分オリジナルの曲づくり」のコツである。

私はずっと、「売れそうな曲をつくりたい!」とか、「カッコいい曲をつくりたい!」とか、「みんなが認めてくれそうな曲をつくりたい!」と漠然と思い続けてきたような気がする。

だが、「何のために自作の曲をつくるのか?」をよくよく考え直してみると、

「自分」と「自分にとって大切な人」との「関係」をより良くしたいから

というのが私なりの答えなのではないか、という気がしてきた。

であれば、私は、これからどんどん自分オリジナルの曲をつくっていける!

だって、少なくとも「自分にとって大切な人」の数だけ曲をつくることができるから。

さらに、「その人」への「想い」「思い出」「伝えたいこと」がたくさんあればあるほど、曲をつくることができる。

なんて素敵なんだ!と素直に思う。

これであれば、私は死ぬまで曲づくりのネタに困ることはなさそうだ。

仮に曲づくりのネタに困る時が来るとしたら、それは、

私が私以外の誰のことをも大切に想わなくなった時

である。

怒っても、泣いても、苛立っても、喧嘩をしても、

誰かのことを想える自分である

ということは、とても素敵なことだと思います。


次回の『シンガーソングライター教室(超入門)』は6月23日(土)16時00分〜17時30分。テーマは、「お祝いミニソングをつくろう♪」です。

「自分にとって大切な人」の誕生日や結婚式などのお祝いに。

「その人」のことを想って、一緒にミニソングをつくってみませんか?

*講座内容のご確認とお申込みはコチラ(こくちーずプロ)から。

一人一人の心の中に眠る自分オリジナルの想い。それが曲になったら素敵だろうなぁー♪

なんて思っています^ ^

どっひー &sing