「人を育てること」と「自己効力感」の関係について

「なんで私の言うことを聞いてくれないんだろう?」

「何度も何度も同じことを言っているのに、なんでできるようになってくれないんだろう?」

「いったいどうしたらいいんだろう?」

子育て、教育、OJT(On-the-Job Training)。

親、先生、上司あるいは経営者。

人を育てる人には、悩みが多い。

特に、自分に成功体験があればあるほど、うまくいかない時の悩みは大きくなる。

「なぜあの時はうまくいったのに、今回はうまくいかないのか?」と。

ある子育て中のお母さんは、「もう!どうしたらいいのよ!」と匙を投げそうになっている。だが、匙を投げるわけにはいかない。だから悩む。

ある生徒を持つ先生は、「他の子とどこが違うんだろう?」と考え込んでいる。だが、その子はその子でしかない。他の子とは違う。だから悩む。

ある部下を持つ上司は、「こいつダメだな」と見切りそうになっている。だが、部下を変えてくれ、と言うわけにもいかない。だから悩む。

ある従業員を持つ経営者は、「何で私の言う通りにできないんだ!」と苛立つ。だが、一向に行動は変わらない。結果も変わらない。だから悩む。

『自己効力感』という言葉がある。

自己効力感とは、「自分の行為によって望ましい結果を生み出すことができる」という信念である。
〜『激動社会の中の自己効力』アルバート・バンデューラ(金子書房)より〜

人を育てる、という場面において、自己効力感は大きな役割を果たす。

そしてその自己効力感は二つある。

「育てられる側の自己効力感」と、「育てる側の自己効力感」である。

人を育てる、という場面において、「育てる側の自己効力感」の重要性はかなり大きい。

なぜならば、「育てる側の自己効力感」が、「育てられる側の自己効力感」に大きな影響を与えるからである。

例えば親子関係であるとすれば、

親が「私の行為によって、“この子が育つ・成長する”という望ましい結果を生み出すことができる」という信念を持っているとする。すると、親はこの信念を持って我が子に接することができる。その結果、子どもは「私の行為によって、“私が育つ・成長する”という望ましい結果を生み出すことができる」という信念を育めるようになる。

逆に、

親が「私の行為によって、“この子が育つ・成長する”という望ましい結果を生み出すことはできない」という信念(諦め)を持っているとする。すると、親はこの信念(諦め)を持って我が子に接してしまうことになる。その結果、子どもは「私の行為によって、“私が育つ・成長する”という望ましい結果を生み出すことはできない」という信念(諦め)を育んでいくことになる。

以上の例は、とても単純化しているし、実際にはこんな短絡的な関係でないことは確かだ。

子どもは子どもとして、生徒は生徒として、部下は部下として、従業員は従業員として、自ら「自分の自己効力感」を高めていくことはできる。必ずしも、いい親、いい先生、いい上司、いい経営者を必要とするわけではない。

だがそれでも、

人を育てる人は、すべからく「自分の自己効力感」を高い状態に保っておくことを大切にすべきである。

なぜならば、そうすることは、自分にとっていいこと(自分よし)であり、相手にとってもいいこと(相手よし)であり、周りの人たちにとってもいいこと(世間よし)であるからだ。

子育て、教育、OJT(On-the-Job Training)。

親、先生、上司あるいは経営者。

人を育てる人は、すべからく「自分の自己効力感」を高い状態に保っておくことを大切にすべきである。

「相手の自己効力感」を高めよう、高めようとする前に、「自分の自己効力感」を高めることに意識を払うべきである。

「なんで私の言うことを聞いてくれないんだろう?」

「何度も何度も同じことを言っているのに、なんでできるようになってくれないんだろう?」

「いったいどうしたらいいんだろう?」

そういう悩みを持つことは大切だ。

だが、そうやって悩み続けた結果、「自分の自己効力感」を低下させてしまっては元も子もない。

人を育てる人は、すべからく「自分の自己効力感」を高い状態に保っておくことを大切にすべきである。

「私には育てられない」

そう自分を責めても仕方がない。

一方で、「こいつがおかしい」

そう相手を責めても仕方がない。

もちろん、今後、二度と関係しない人であれば、スパッと相手を見切ることも一つの方法かもしれない。

だが、相手が「毎日毎日、自分が関わらざるを得ない人」であるならば。家庭、学校、会社、あるいは地域などで、「毎日毎日、自分が顔を合わさざるを得ない人」であるならば。

自分を責めても、相手を責めても。どちらにせよ「よくない状況」は変わらない。そして「自分の自己効力感」は低下する。

「自分の自己効力感」の低下は、下手をすると、他の多くの人への接し方すらをも変えてしまう可能性がある。

自分を責める人は、「自分に自信のなさそうな人」になっていく可能性がある。

相手を責める人は、「なんでも人のせいにする人」になっていく可能性がある。

人を育てる人は、つねに「自分の自己効力感」の状況に気を配る必要がある。

人を育てる人は、すべからく「自分の自己効力感」を高い状態に保っておくことを大切にすべきである。

そしてそのための鍵は、「分けること」「区別すること」にある。

どっひー &sing

欠けているからこそ

「何かが欠けている」

そう感じた時、人は「欠けているものを埋めたい」と願う。

まるで欠けた月を見る時のように。

「欠けている」と感じるということは、「満ちている」状態をイメージしているということ。

満月を見たことがあるからこそ、それ以外の月が欠けて見える。

だが実は、月は欠けていない。

月が欠けているように見えるのは、太陽の光が当たっていないから。

月は欠けていない。

つねに満ちている。

人も欠けていない。

つねに満ちている。

「何かが欠けている」

そう感じるのは、光が当たっていないから。

人は、自ら輝くことはできない。

自分に光を当てることもできない。

他者に光を当てることしかできない。

人は、お互いに光を当てあうことしかできない。

それは悲しい現実である。

人は、お互いに光を当てあうことならできる。

それは喜ばしい真実である。

自分がそうして欲しいと思うことは、何よりもまず他人にそうしてあげることだ

〜『思考は現実化する』ナポレオン・ヒル〜

どっひー &sing

潜在能力を発揮するには?

誰しもに潜在能力がある。

潜在能力とは、潜在している能力。

まだ顕在化していない能力。

潜在能力は、なぜまだ顕在化していないのか?

それは、その能力を発揮する機会にまだ出会っていないから。

新たな機会に出会えば、人は潜在能力を発揮する可能性がある。

だが残念ながら、それがどんな機会であるかは事前にはわからない。

いまだかつて行ったことのないところへ行ってみる。

いまだかつて見たことのないものを見てみる。

いまだかつて会ったことのない人に会ってみる。

いまだかつて聞いたことのない話を聞いてみる。

いまだかつてやったことのないことをやってみる。

必ずしも大それたことでなくてもいい。

あと1歩。

あと1ミリ。

あと1グラム。

あと1秒。

かつて辿り着いたことのある地点のその先に。

潜在能力を発揮する機会が転がっている。

どっひー &sing

すべては自分が決めてきたこと

「あの時、本当はこうしたかったのにできなかった」

「あの時、本当は嫌だったけどこうせざるを得なかった」

そんな風に過去を恨むことが多々あった。

自分の思い通りにできなかったことを、親や先生や上司や社会のせいにしてきた。

心のどこかで納得できずに恨んでいた。

しかし、過去に自分がやってきたことは、すべて自分が選んできたこと。

すべては自分が決めてきたこと。

これまでに歩んできた道は誰のものでもない。

どんなに不恰好だったとしても。

どんなに不満足だったとしても。

正真正銘、自分の道である。

これまでにやったこと。

やらなかったこと。

やり続けてきたこと。

途中で止めたこと。

すべては自分が決めてきたこと。

それを受け入れることで、消える悩みがある。

そこから始まる道がある。

どっひー &sing

買い物は、誰にでもできる「投資行動」である

「三方よし」を実現するための思考・感情・行動は、日常の中にある。

例えば、スーパーでの買い物。

近所のスーパーで1個100円のリンゴを買うとする。

スーパーに行き、果物売り場で、リンゴ1個を選び取り、レジに行って、100円のお金を支払う。

その後、この100円のお金はどこにいくのか?

スーパーは、その100円のお金を売上金(の一部)として受け取る。

そこから、リンゴの仕入代金を(卸売業者を経由して)生産者に支払う。例えば70円。

また、社員、パート、アルバイトへの給料を支払う。例えば15円。

チラシ代、家賃、その他の経費も支払う。例えば10円。

売上金100円から上記支払い合計95円を差し引いた残り5円から、国や地方自治体に税金を支払う。例えば2円。

残った利益3円は、株主への配当や新たな投資に使われる。

このように、近所のスーパーのレジで支払った100円のお金は、スーパーを介して、たくさんの人々に分配されていく。

また、そのお金が誰のところへ分配されていくかは、そのスーパーがリンゴを誰から買っているのか、従業員に誰を雇っているのか、チラシ作成を誰に依頼しているのか、店舗を誰から借りているのか、事業所や本社がどこにあるかで変わってくる。

したがって、あるスーパーであるリンゴを買うということは、同時に、自分が支払う100円を誰に分配するかを(暗黙的に)決めている、ということでもある。

どの店で買うか、そこで何を買うかは、自分で選択することができる。

その自分の選択が、結果として(間接的ではあるものの)どこにいる誰にお金を分配するかを決めている。

こだわりのある生産者を応援したいと思えば、その生産者が生産したリンゴを仕入れて売っているスーパーでリンゴを買えばいい。

地元で働く人を応援したいと思えば、地元の人を従業員として採用しているスーパーでリンゴを買えばいい。

近所にあるスーパーがなくなったら困る、頑張って欲しい、応援したいと思えば、近所のスーパーからリンゴを買えばいい。

たかが買い物。されど買い物。

ふだんの買い物で使うお金は、積み上がれば結構な金額になる。

どうせ使うお金であれば、できるだけ自分にとって「いいもの」や「大切なもの」をつくってくれている人たちのために使いたい。

あえて、「いいとは言えないもの」や「大切とは思えないもの」のためにお金を使う必要はない。

まして、「悪いもの」や「危険なもの」を増幅させるようなお金の使い方はしたくない。

買い物は、誰にでもできる「投資行動」である。あるいは、「投票行動」である。

自分よし、相手よし、世間よしの「三方よし」を実現するための思考・感情・行動は、日常の中にある。

ふだんの買い物。

どうせなら、「いいもの」や「大切なもの」が守られ、育ち、繁栄していくような形でお金を使いたものである。

また、事業を経営していく上でも、「いいもの」や「大切なもの」が守られ、育ち、繁栄していくような形でお金を使いたいものである。

どっひー &sing

わかちあう、ということ

人生における苦しみは、孤独感にあるのかもしれない。

そしてその孤独感は、一人ぼっちでいることではなく、周りに人がいるにも拘わらず「一人ぼっち感」を感じることなのかもしれない。

そうならないためには、「わかちあう」という行為が重要になるのではないだろうか。

例えば、自分と相手がいて、自分がリンゴを一つ持っているとする。

ざっくり言えば、選択肢は3つある。

①自分一人で食べる

②相手に食べさせてあげる

③自分と相手でわかちあう

自分一人で食べると、自分は美味しいリンゴにありつける。だが、相手は食べられない。見ているだけ。

「自分よし」かもしれないが、「相手よし」にはならない。

相手に食べさせてあげると、相手は美味しいリンゴにありつける。だが、自分は食べられない。見ているだけ。

「相手よし」かもしれないが、「自分よし」にはならない。

自分と相手でわかちあうと、自分も相手も美味しいリンゴにありつける。量は半分ずつかもしれないが、二人ともリンゴを食べられる。加えて、リンゴの美味しさ(「おいしい!」という感動)もわかちあえる。

「自分よし」と「相手よし」が両立する。

さらに、リンゴの美味しさを共有したことで、その後の話にも花が咲くかもしれない。

一つのリンゴをわかちあわない限り、自分と相手がリンゴの美味しさをわかちあうことはない。体感しあうことはない。体験を共有しあうことはない。

「同じ釜の飯を食う」という言葉がある。

同じ釜の飯を食うとは、生活をともにしたり、同じ職場で働いたりして、苦楽をわかちあった間柄のたとえ、である。

一つのものをわかちあう、ということ。

これは、人と人とがわかりあうために、心でつながりあうために、そして孤独感を感じないために、とても大切なことではないだろうか。

苦楽をわかちあえる人がいることは、苦しい人生を楽しく乗り越えていくために、もっとも大切なことではないだろうか。

また、「三方よし」のビジネス(お金の流れ)をつくる原点も、「わかちあう」ことにあるのではないだろうか。

奪うでもなく、身を切るでもなく、わかちあう。

なかなかできないことではあるが、つねに心がけたい、と思う。

どっひー &sing

「自分の好きなことをやればいい」という意見は正しいのか?

自分の好きなことをやるべきか否か。

これに関する意見は、様々だ。

「自分の好きなことをやればいい」という意見がある。

「自分の好きなことをやるべきではない」という意見もある。

どちらが正しい答えなのか?

と問うことに意味はない。

なぜならば、どちらの意見も「誰に言うか」により、正しくもなれば、間違いにもなるからだ。

例えば、「いつも自分の好きなことを我慢して、他人の指示に従ってばかりいる人」がいるとする。

そういう人に対しては、「自分の好きなことをやればいい」という意見は、正しい意見になるかもしれない。

逆に、「自分の好きなことをやるべきではない」という意見は、間違った意見になるかもしれない。

一方で、「いつも自分の好きなことをして、他人に迷惑をかけてばかりいる人」がいるとする。

そういう人に対しては、「自分の好きなことをやるべきではない」という意見は、正しい意見になるかもしれない。

逆に、「自分の好きなことをやればいい」という意見は、間違った意見になるかもしれない。

何を言うべきかは、「誰に言うか」で変わる。

自分よし、相手よし、世間よしの「三方よし」を実現するために、足りないものが何かを見定める必要がある。

気をつけなければならない。

どっひー &sing

【改訂版】これまでの学校では学べなかったことを学べる新たな学校とは?

昨日の学ぶログでは、『これまでの学校では学べなかったことを学べる新たな学校とは?』について書いた。

が、かなり不完全な内容であったため、今日の学ぶログでは、その内容を大きく改訂する。

基本的な改訂点は、以下2点である。

①「自分にとって必要なものは、自分の手でつくり出す」という視点を「三方よし」の視点から統合した。

②これに伴い、全体の話の流れを大きく改訂した。

正直、この改訂版でも、まだ不完全さが拭いきれない。また、依然として大きな方向性を指し示すだけに留まっている。

が、それでも、これから開講していく講座の目的とその意義、アンドシング スクールに学びに来てもらいたい人、講師を務めてもらいたい人のイメージが(昨日の学ぶログに比して)少しでもより良く伝わるものになっていれば幸いである。

1. 新たに学ぶべきことは何か?

アンドシング では、「次世代リーダー輩出のための新たな学校(学びの場)づくり」を目指している。

新たな学校である以上、アンドシング スクールは「これまでの学校では学べなかったことを学べる学校」である必要がある。

では、「これまでの学校では学べなかったこと」とは何か?

それは、「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動だ。

①自分にとって必要なものは、自分の手でつくり出す(自分よし)

②自分の手でつくり出したものを、ある人にとって役立つものにする(相手よし)

③それをさらに、より多くの人にとって役立つものにする(世間よし)

それゆえ新たな学校は、「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動を学べる場である必要がある。

そのためには、そこに集う人同士が、目的を共有し、異なる立場から視点を補い合い、ともに学び、実践し、協働していける場である必要がある。

それゆえ、必然的に、そこに学びに来る人は、「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動を身に付けたいと願う人である。

また、そこで講師を務めてくれる人は、「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動を身に付けている人である。

2. 新たな学びはなぜ必要か?

これまでは、「三方よし」を強く意識する必要はなかった。世間(=自分や他人を含む社会全体の人々)にとって必要なものがわりと明確であったからだ。

かつては、世間として必要なものは、おおよそ(最大公約数的なものとして)共通化されていた。

食べもの、着るもの、住むところ。移動手段や通信手段。それを支える水道、電気、通信、ガス、道路、鉄道、金融などの社会インフラなどなど。

あえて極言すれば、「必要なものは何か?」「つくり出すべきものは何か?」を突き詰めて問う必要はなかった。

すでにどこか(の国)にあるもので、世間として必要なもの(足りないもの)を埋めていけば良かった。

それゆえ、世間として必要なものをつくり出すために必要とされる知識や技術もおおよそ明確であった。

先行するどこか(の国)から、すでにある知識や技術を学べば、世間にとって必要なものはつくり出せた。

それゆえ、これまでの学校では、すでにどこかにある知識や技術を学ぶことを中心とする教育が施されてきた。

そしてそこで学んだ知識や技術をもとに、世間にとって必要なものがつくり出されてきた。

その結果として、「三方よし」も何となく満たされてきた。

そしていまや、世間として必要なもの(足りないもの)は、だいたい埋められ終わった。

だが、ここで言う世間とは、あくまでも一般的な(と想定される)人々でしかなかった。

一人一人の個人やその集まり、地域などに目を向けると、いまだに必要なもの(足りないもの)は存在している。

とは言え、一人一人の個人やその集まり、地域などの中には、必ずしも人数規模が大きいとは言えないところ(マーケティング用語で言えば「セグメント」)がある。

そういうところ(小さなセグメント)では、企業にとっては、十分な市場があるとは言い難いため、そこに参入しない、あるいはこれまでは参入していたが撤退するということが起こっている。人口の少ない地域から大手のスーパーが撤退するなどはその典型である。

また、国や地方自治体も、そういうところ(小さなセグメント)に、限られた財源を振り向けるだけの余力もなくなって来ている。

一方で、幸運なことに、インターネットをはじめとする情報通信技術は大きく発達している。

(過去に蓄積された)大量の知識を容易に入手することができ、ある程度の技術も動画などを活用しながら習得することができる。

また、時間や空間の壁を超えて、人と人とが文字・音声・動画などでコミュニケーションすることもできる。

さらに、食べもの、着るもの、住むところ、移動手段や通信手段、それを支える水道、電気、通信、ガス、道路、鉄道、金融などの社会インフラなどなど。それら物理的なモノも一部で余っている状態にあり、その余剰部分を低コストで借りて使うことも可能な状態にある。

したがって、これからの時代において重要なことは、すでにある知識や技術を学ぶことではない。すでにある物理的なモノをつくり続けることでもない。

これからの時代において重要なことは、一人一人の個人やその集まり、地域などにおいて「必要なものは何か?」「つくり出すべきものは何か?」を問うことである。

その上で、「すでにある知識、技術、あるいは余剰となっているモノなどを活かしながら、いかにして新たに必要となるものをつくり出すか?」を問うことである。

そしてその問いに対する答えを見つけ出し、それを現実のものとしてつくり出していくことである。

そのためには、「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動を一人一人が学び、お互いに実践し合いながら協働していく必要がある。

3. 新たな学びで何が良くなるのか?

一人一人の個人やその集まり、地域などにおいて「必要なものは何か?」「つくり出すべきものは何か?」を問うのは誰なのか?

そこに答えを見つけ出し、それを現実のものとしてつくり出していくのは誰なのか?

その行動主体は、一人一人の人でしかありえない。

その人が、企業にいるのか、国や地方自治体にいるのか、NPOにいるのか、一個人なのかは関係ない。人種・性別・年齢・職業・肩書きなども関係ない。

「自分にとって必要なものは、自分でつくり出す」

「自分たちにとって必要なものは、自分たちでつくり出す」

ここからはじめるしかない。

誰か(企業や国)が何とかしてくれるだろう、と待っていてもはじまらない。

とは言え、個人が孤軍奮闘し続けるのは、大変だ。

たった一人で、自分にとって、あるいは自分たちにとって必要なものをつくり出すのは大変だ。

また、それをつくり続けていくことは、もっと大変だ。

時間も労力もお金もかかる。

何よりかなりの熱意が必要になる。

もしかしたら途中でお金が尽きるかもしれない。

いや、それ以前に、心が折れるかもしれない。

ならば、自分にとって、あるいは自分たちにとって必要なものを、別のある人にとっても役立つものにはできないのだろうか?

相手の視点に立ってみれば、ちょっとした工夫を加えることで、自分にとって必要なものが、別のある人にとっても役立つものになるかもしれない。そうなれば、その人は喜んでくれるだろう。

さらに工夫を加えれば、その人は、商品としてお金を払ってくれるかもしれない。

そうなれば、自分(たち)にとって必要なものをつくり出すためにかかった時間と労力に対する見返りが得られるだけでなく、お金の面でも助かる。

それでいて相手も喜び、助かる。

これがさらに、より多くの人にとって役立つものになるならば…

より多くの人が喜んでくれ、より多くの人がお金を払ってくれるようになるだろう。

自分よし、相手よし、世間よしの「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動の結果として。

必要なものがつくり出され、それが一人でも多くの人の手に渡り、役立ち、喜ばれるようになる。そしてお金が流れるようになる。

また必要なものがつくり出され、それがさらに一人でも多くの人の手に渡り、役立ち、喜ばれるようになる。そしてより多くのお金が流れるようになる。

この循環は、はじめは小さなものかもしれないが、徐々に大きく、速くなっていく。

これからの時代において重要なことは、一人一人の個人やその集まり、地域などにおいて「必要なものは何か?」「つくり出すべきものは何か?」を問うことである。

その上で、「すでにある知識、技術、あるいは余剰となっているモノなどを活かしながら、いかにして新たに必要となるものをつくり出すか?」を問うことである。

そしてその問いに対する答えを見つけ出し、それを現実のものとしてつくり出していくことである。

そして必要なものがつくり出され、一人でも多くの人の手に渡り、役立ち、喜ばれ、お金が流れるようにしていくことである。

この循環をより大きく速くしていくことである。

それゆえ、新たな学校は、

①自分にとって必要なものは、自分の手でつくり出す(自分よし)

②自分の手でつくり出したものを、ある人にとって役立つものにする(相手よし)

③それをさらに、より多くの人にとって役立つものにする(世間よし)

という「三方よし」の視点にもとづく思考・感情・行動を学べる場である必要がある。

そのためには、そこに集う人同士が、目的を共有し、異なる立場から視点を補い合い、ともに学び、実践し、協働していける場である必要がある。

すべてのはじまりは、一人一人の個人である。自分である。その集まりが自分たちである。

個人が自立してはじめて、地域が自立する。

地域が自立してはじめて、国家が自立する。

学校とは、「個人が自立する必要性」を自覚する場である。

その上で、「個人が自立するための手段」を学ぶ場である。

私たちは、すべての人がリーダーたりえる、と信じています。

どっひー &sing

これまでの学校では学べなかったことを学べる新たな学校とは?

今日の学ぶログでは、「アンドシング がどんな学校づくりを目指しているのか?」「その学校では、どんなことを学べるのか?」について書く。

正直、とても不完全な状態である。読みづらい点、わかりづらい点が多々あると思う。だが、文章で書いてみないとわからないこと、伝わらないこともある。

現段階では、大きな方向性を指し示すだけに留まるが、これから開講していく講座の目的とその意義、アンドシング スクールに学びに来てもらいたい人、講師を務めてもらいたい人のイメージが少しでも伝われば幸いである。

1. 新たに学ぶべきことは何か?

アンドシング では、「次世代リーダー輩出のための新たな学校(学びの場)づくり」を目指している。

新たな学校である以上、アンドシング スクールは「これまでの学校では学べなかったことを学べる学校」である必要がある。

では、「これまでの学校では学べなかったこと」とは何か?

それは、

自分にとって必要なものは、自分の手でつくり出す

そして、

自分たちにとって必要なものは、自分たちの手でつくり出す

という自分起点・未来志向での意志と想像力とそれを具現化するための力だ。

逆に、これまでの学校で学べたことは、他人起点・過去依存での知識と解法とそれを効率的に活用する力だ。

だがいまや、他人起点・過去依存での知識と解法とそれを効率的に活用する力は、スマホ一台あれば十分である。インターネットで検索したり質問すれば、大概のことはわかる。知識はすでに十二分に与えられている。

重要なことは、「その知識を使って何をするのか?」ということ。

「どんな問題を解決するのか?」「どんな世界をつくっていくのか?」ということ。

そしてその行動主体は、一人一人の人でしかありえない。

それゆえ、新たな学校は、

自分にとって必要なものは、自分の手でつくり出す

そして、

自分たちにとって必要なものは、自分たちの手でつくり出す

という自分起点・未来志向での意志と想像力とそれを具現化するための力を学べる場である必要がある。

それゆえ必然的に、そこに学びに来る人は、「自分(たち)にとって必要なものは、自分(たち)の手でつくり出したい!」と願う人である。

また、そこで講師を務めてくれる人は、「自分(たち)にとって必要なものは、自分(たち)の手でつくり出す!」という意志と想像力とそれを具現化するための力を持つ人である。

2. 新たな学びはなぜ必要か?

「自分にとって必要なもの」の典型は、食べもの、着るもの、住むところである。

だが、学校にいくら通っても、食べもの、着るもの、住むところを自分の手でつくり出せるようにはならなかった。

一方で、市場経済が発達している現代では、「自分にとって必要なもの」の大部分はお金を払って手に入れることが(暗黙の)前提になっている。

このため、「自分にとって必要なもの」を手に入れるためには、つねに「お金」が必要になる。そして、「お金」を手に入れるための「仕事」が必要になる。

では、学校に長年通った結果、「お金」を手に入れる方法や「仕事」を手に入れる方法が身についたかというと、そうでもない。

学校に通った結果、身についたものは、「自分にとって必要なもの」を手に入れるためにどう役立てればいいかわからない知識ばかり。

そもそも学校で、「あなたにとって必要なものは何ですか?」と聞かれたことはなかった。

学校では、つねに答えるべき問い(=問題)が先に与えられ、それに対する答え(=知識)が与えられていた。

それゆえ、それらの問いと答えの大部分は、「自分にとって必要なものをつくり出す」ために役立つものではなかった。

その結果、いまだに「自分にとって必要なものを自分の手でつくり出すことができない」という不安を(私自身が)抱えている。

「自分にとって必要なものを自分の手でつくり出す」ことができない以上、自分にとって必要なものは、他人の手でつくってもらうしかない。それゆえ、万が一、「自分にとって必要なもの」を他人が自分に分け与えてくれなければ、それを自分が手に入れることはできない。

これでは、「自分にとって必要なものが手に入るかどうかは、すべて他人の手に委ねられている」ことになる。

これは怖い。不安である。なぜならば、他人に嫌われたら終わりだからである。

だから、そういうことが起こらないようにするために、他人の意見に従ったり、お金をできるだけ貯め込んだり、お金を稼ぐために必死で働き続けるという行動を取ってしまう。

あるいは、「いざとなれば誰かが(国や会社が)何とかしてくれるだろう」と開き直り、自分で努力することを放棄してしまう。

だが、他人の意見に従い、お金を貯め込み、必死で働き続けたとしても、まして開き直ったとしても、決して問題が解決することはない。

なぜならば、問題の原因は、「自分にとって必要なものを自分の手でつくり出す」ことができないことにあるからだ。

他人に嫌われる恐怖に慄き、その恐怖を回避するために、他人の意見に従い、お金を貯め込み、必死で働き続けることを止めたければ、「自分にとって必要なものは、自分の手でつくり出す」という自分起点・未来志向での意志と想像力とそれを具現化するための力を身につける必要がある。

3. 新たな学びで何が良くなるのか?

「自分にとって必要なものを自分の手でつくり出す」ことさえできれば、「自分にとって必要なものが手に入るかどうかは、すべて他人の手に委ねられている」という状態から脱することができる。

もちろん、「自分にとって必要なもの」のすべてを自分の手でつくり出すことはできないだろう。だがそれでも、「自分にとって必要なもの」の一部を自分の手でつくり出すことさえできれば、「自分にとって必要なもの」を手に入れるための主導権を自分で握ることができる。

また、「自分にとって必要なもの」を自分の手でつくり出し、それを自分で消費したとしても、すべてを使い果たさずに余りが出ることもあろう。そしてそれが「ある人にとって必要なもの」でもあるとすれば、その人に買ってもらえる可能性もある。そうなれば、お金も手に入る(場合によっては物々交換かもしれない)。

そんな風に、「自分にとって必要なもの」が「ある人にとって必要なもの」となり、さらに「より多くの人にとって必要なもの」になれば、自分よし・相手よし・世間よしの三方よしの状態になる。

「自分にとって必要なものを自分でつくり出す」ことを通じて、自分が喜び・相手が喜び・世間が喜ぶ。その上で、お金も手に入る可能性がある。

そうなれば、パラダイムシフトが起こる。

「お金で必要なものを買う」

という思考と行動から、

「必要なものをつくって使う」

「余りを売ってお金を得る」

「そのお金でまた必要なものをつくる」

という思考と行動へ。

これまでの思考と行動を180度ひっくり返すことができる。

その結果、「自分にとって必要なもの」を手に入れるために、「お金」や「仕事」を手に入れなければならない、失ってはいけない、という恐怖から解放される。

一方で、「自分にとって必要なものは、自分でつくり出す」ことができる、という希望が生まれる。

そうなれば、自分で夢を描いてそれを実現する過程を楽しむことができるようになる。またその過程で、仲間が集まり、知恵が集まり、物資が集まり、お金も集まる、という可能性も高まる。その結果として、夢が実現する可能性も高まる。

「自分にとって必要なものは、自分の手でつくり出す」という自分起点・未来志向での意志と想像力とそれを具現化するための力を身につけることができれば、恐怖を解き放ち、希望が生まれる。夢の実現に向けて諦めずに未来へと突き進むことができるようになる。

すべてのはじまりは、一人一人の個人である。自分である。その集まりが自分たちである。

個人が自立してはじめて、地域が自立する。

地域が自立してはじめて、国家が自立する。

学校とは、「個人が自立する必要性」を自覚する場である。

その上で、「個人が自立するための手段」を学ぶ場である。

私たちは、すべての人がリーダーたりえる、と信じています。

どっひー &sing

投資なくして収入なし

収入は投資から生まれる。

投資と言うと、株式投資や不動産投資のように、すでにある何らかの資産にお金を投じることのように聞こえるかもしれないが、必ずしもそうではない。

投資の対象は、すでにある何らかの資産だけではない。自分自身や自分が何かを生み出すために取り組んでいる活動も投資の対象になる。

また、投資の元手になるものは、お金だけではない。自分の時間や労力も投資の元手になる。

そして、投資がない限り、収入は得られない。

もし仮に自分が投資していないにも拘らず収入を得られたとすれば、それは自分以外の誰かが投資をしてくれていたおかげである。

収入を得るためには、必ず投資が必要なのである。

例えば、米を売って収入を得たいと思えば、まず米をつくる必要がある。

水田をつくり、苗を植え、それを育て、収穫する必要がある。

米をつくる過程は、投資そのものである。

先に自分の時間や労力を投じ、幾多の試行錯誤を繰り返したからこそ、立派な米が出来上がる。そしてそれがある人にとって必要な商品になるからこそ、収入を得ることができる。

これは、どんな仕事でも同じである。

投資なくして、アウトプットなし。

アウトプットなくして、商品なし。

商品なくして、収入なし。

ゆえに、投資なくして収入なし。

たとえお金がなくとも、自分の時間や労力を何かに投資し続けること。

それが自分のためであれ、他人のためであれ。

収入を生み出すためにせよ、そうでないにせよ。

ある人にとって必要なものを生み出すために投資し続けること。

より良いものを生み出そうと、幾多の試行錯誤を繰り返し続けること。

日々、努力し続けること。

日々、投資し続けること。

ジブンノシゴトをつくるために、とても大切なことである。

どっひー &sing