やってみたかったことをやってみよう
やってみたかったことをやってみよう
やらずに後悔するのなら
やってみたかったことをやってみよう
やらない理由をつくるなら
やっちゃう理由をつくっちゃおう
できなかったらやればいい
できなかったらやればいい
できるまで
できるまで
やりたかったこと
やればいい
やってみたかったことをやってみよう
やってみたかったことをやってみよう
やらずに後悔するのなら
やってみたかったことをやってみよう
やらない理由をつくるなら
やっちゃう理由をつくっちゃおう
できなかったらやればいい
できなかったらやればいい
できるまで
できるまで
やりたかったこと
やればいい
いつも「学ぶログ」をご覧いただき、誠にありがとうございます。
これまで『一日一職』の記事を「学ぶログ」の記事としてアップしてきましたが、今後は「学ぶログ」ではなく、別の場所にまとめてアップする形にしたいと思います。
このホームページ上のどこかに別コーナーを設けるか、別のサイトを設けるか。
まだその位置付け方は未定ですが、いずれにせよ、『一日一職』の記事は別の場所でまとめて閲覧していただけるようにしていきたいと思います。
その準備が整いましたら、改めてお知らせさせていただきます。
また、『一日一職』インタビューを続ける中で、「この方のお話。ぜひ他の方にも聞いて欲しい!」「ぜひその仕事を体験して欲しい!」という思いも強くなってきました。
これにつきましては、『一職見学会(仮称)』や新たな講座の立ち上げ、という形で、その機会を設けていきたいと考えております。
いつも多大なるご支援、ご協力をいただき、誠にありがとうございます。
今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。
どっひー &sing
講演者が話す脇で、Sさんは壁に貼られた模造紙にペンを走らせている。
耳は講演者の話に集中しながら、手はささっと動き続けている。
講演者の話が進むにつれ、真っ白な模造紙が絵や文字で埋め尽くされていく。
講演者の似顔絵があり、キーとなる言葉があり、人の動きや表情が躍動感ある形で描き出されていく。
そこにあるのは、ただの絵や文字ではなく、感情や価値観を伴った映像。
講演者と聴衆が、ともに同じ場所で同じ時間を過ごしていたという実感を伴った記録。
講演が終了した時、模造紙に現れたのは、カラフルで喜怒哀楽に溢れた心象風景。
この間、Sさんは一言も話さなかった。
Sさんの耳と手を介することで、素晴らしい共同作品がそこに残っていた。
グラフィックファシリテーションは、リアルタイムで「聴いて、感じとって、描く」仕事である。これにより、参加者も、リアルタイムで「観て、話して、伝える」ことができる。
絵や文字を視覚的に描き出すことで、言葉や論理だけでなく、そこに付随する感情や価値観を同時に記録していけることがグラフィックファシリテーションの特徴である。
グラフィックファシリテーションは、目的によって描き方も変わってくる。
例えば、仕事としてよくあるケースを例に挙げると、
①会社の会議や研修(ビジョン策定など言葉にするとズレが起こりやすいテーマなど)
目的は、本音を引き出す、価値観をすり合わせる、見える化ですれ違いを減らす、など。
②中小企業連携構想づくり(利害関係者が多く、同じ言葉を使っていても前提となる意味が違うなど)
目的は、対話を促す、相互理解をしやすくする、会議を本質的な話に持っていくようにする、など。
③市のまちづくり(福祉について考える市民参加の連続講座など)
目的は、市民の声を受け止める、意見を反映させる、不参加者が次回見返せるようにする、など。
一人ひとりの発言が、模造紙の上に絵や文字として描き出されていくことで、参加者同士の安心感がつくられていく。逆に言えば、グラフィックファシリテーションは、参加者一人ひとりが安心して自分の意見や想いを表現できる場をつくるための手段とも言える。
どのようなケースであれ、私自身は共通して「どんな人も安心してここにいていいよ」というメッセージが流れているような気持ちで描いています。
グラフィックを描きはじめたのは、3年ほど前。前職の会社を辞めて、ある高等専門学校でアクティブラーニング担当講師として勤めていた時のこと。そこには、座学は得意だけど、対話が苦手な生徒がたくさんいた。丁度その頃、発達障害者支援法が改正された後だったこともあり、ある生徒から「発達障害者向けに何かサポートしてくれないの?」と言われた。話しを聞くと、「ある先生の授業の板書を取れない」とのことだった。
「その生徒のために何かできないかな?」と考えてみて思い浮かんだのが、「グラフィックで板書を描いてみよう」ということだった。でも、一番はじめに描いてみた時は、話のポイントを3,4箇所くらいしか押さえることができず、またそのグラフィックも、先生の似顔絵以外は、文字情報が中心だった。ただそれでも、その生徒や周りの生徒たちが、それを写真に撮って、喜んでくれた。それをきっかけにグラフィックで板書を描くことを続けるようになった。
ある先生の授業でこれを繰り返しているうちに、グラフィックで描いた板書が15枚ほどになり、それをその先生が前期の振り返り授業で使ってくれることになった。15枚のグラフィックを壁に貼り、それぞれの生徒がペンを持って印象に残ったところに行って意見や感想を書き込む。こういう形でグループワークを実施したところ、とても議論が弾んだ。
この時、グラフィックがあれば、対話が苦手な生徒も含め、みんながペンを持って主体的に会議に参加することができる、ということを知った。
これをきっかけに、もっとグラフィックを描くことに取り組もうと思った。「とにかくグラフィックを描く経験を積もう!」「週一回は、勤めていた高等専門学校以外の場所でグラフィックを描こう!」と思い、ペンと模造紙をもって、いろんな場に出向いていった。とは言え、なかなか思うようには描けない。大事な発言を漏らしたり、絵や文字でその人が言いたかったことを適切に表現できなかったり。反省ばかりだったが、「いる限り、役に立ちたい」という思いで描き続けてきた。その間、facebookでの発信も続けていた。反応はあったり、なかったりだったが、とにかく続けていた。
するとある日、そのfacebookでの投稿をきっかけに、すでにグラフィックファシリテーションを仕事にしている方と関わる機会に恵まれた。ある会社の会議に参加し、そこでペンを手に白熱した議論をしている大人たちの姿を見た。そしてそれが立派にお金をもらえる仕事として成立していることを知った。昨年9月のことである。
その時に、「これが仕事になるのなら、仕事にしてみようかな〜」と思った。
そしていま、グラフィックファシリテーションを職業として仕事にしている。
いままでに描いたグラフィックは300枚以上になると思う。
すごく勧める。グラフィックファシリテーションをやってみることで、その先が見つかる。血肉になる。
聴く力を養える。自分を理解することができる。諦めずに取り組む姿勢が身につく。
それを職業にするかどうかは別として、ぜひ「一回やってみたら?」と勧めたい。
これから、グラフィックファシリテーションを職業にする人も増えていくと思う。
「毛穴のすみずみまで開くこと」を大切にしています(笑)。
人が話していることを全身で感じとること。
グラフィックファシリテーションでやっていることは、落語に例えることができる。
落語では、話し手のセリフを聞いて、その場面を想像する。耳で聞いた言葉を絵に変換している。グラフィックファシリテーションでは、この絵を模造紙の上に描き出しているようなイメージ。
一見、特殊なことをしているようだが、私もはじめはほとんど描けなかった。
まずは描いてみること。それを続けること。いろんな場に出向いていって、実際に試し続けることが大切。
私もいまだに実験を続けています。
参加者が、立ち上がって、ペンを持ち、しゃべりはじめる瞬間を見ると嬉しい。その場に熱量が出てきた瞬間を感じると嬉しい。
一方で、単なるパフォーマーとして呼ばれた時は、「あれっ?」と思う。そういう時は、プログラム案を自分でつくって提案するようにしている。
また、一緒にやるファシリテーターの方が参加者の気持ちを置いてきぼりにして、会議の主体性を奪ってしまうしまうような時も、「あれっ?」と思う。
私は、主体性を育むために描いている。理想は、私たちがその場からいなくなっても、会社の人たちや参加者の人たちが自ら動くようになることである。
いま日本で、グラフィックファシリテーションを本業にして食べていけている人は、2桁くらいだと思う。副業でやっている人も含めれば100人以上いるかもしれないが。
私自身は、グラフィックファシリテーションを職業にしているが、たまたま依頼された仕事をただ単に受けるようなことはしていない。事前の打ち合わせをし、グラフィックファシリテーションを使う目的や意図をしっかりと確認するようにしている。場合によっては、グラフィックファシリテーションを使う必要がないケースもある。
私は、事前の打ち合わせの時にも、たくさんのグラフィックを描いている。
仕事の場であれ、事前の打ち合わせの場であれ、一回一回を大切にしている。
いつも「困っている人がいるのであれば、何か一緒にできたらいいな〜」と思っている。
グラフィックファシリテーションは、あくまでもそのための手段だと考えている。
グラフィックファシリテーションは、「困っている人が安心できる場をつくるための手段」である。
耳で聞いた言葉を絵や文字として描き出す。
一見、特殊なことのようだが、インプットとアウトプットを揃える必要はない。必ずしも、耳で聞いた言葉を言葉で書く必要はない。
目で見た映像を言葉にすることもあれば、耳で聞いた言葉を映像にすることだってできる。
グラフィックファシリテーションに限らず、言葉以外の表現方法を駆使したコミュニケーションや、それをサポートする職業はこれから増えていくのかもしれない。
どっひー&sing
電鉄会社の制服を着たMさんはキリッとしている。
そして、つねに周りの人たちに目を配っている。
同時に、周りの環境に目を配っている。
それでいて、笑顔を絶やさない。
インタビューを通じて、Mさんの身のこなしのわけがわかった。
電車運転士は、つねに安全、安心に気を配っているのだ。
電車運転士の仕事は、「目的地まで安全、安心に、時間どおり、できれば気持ちよく、お客様をお運びする仕事」である。
まず安全であること。これがもっとも重要である。日々、事故が起こらないよう、線路や車両を点検している。
次は、安心に。仮に事故がなかったとしても、お客様が不安を感じるようでは乗っていただけない。信号を指差し確認するなどの行為だけでなく、身だしなみも含めて、信頼を積み上げていく必要がある。
そして、時間どおりに。安全、安心あってこその時間どおり。無理に時間どおりに運行しようとして、安全、安心が疎かになるのは本末転倒である。
最後は、できれば気持ちよく。一般に、電車に乗っている時間は苦痛な時間だと思われている。特にやることはないし、見知らぬ人たちが周りにいるし。そんな苦痛な時間を少しでも和らげられたらいいな、と思いながら、お客様に挨拶したり、声をかけたり、接したり。これも電車運転士の仕事だと思っている。
20歳の時、腰を痛めて入院し、手術をした。当初、家業を継ぐことも考えていたが、しばらく体力仕事は厳しいだろうな、という状況だった。ちょうど病院を退院する頃、たまたま電鉄会社で電車運転士の募集があることを知った。たぶんアカンやろうな、と思いつつ、ダメ元で応募した。そしたら、受かった。その時、たまたま定年退職の方が多くて電車運転士の空きが結構出たみたいで。ほんと、たまたま。
電鉄会社に就職した後は、駅務員をやりながら、電車を運転するための免許である「電気車免許」(国家資格)を取得し、21歳から電車運転士に。37歳までの16年間、日々、電車運転士として勤務し続けてきた。その後は、助役、駅長などを経て、電鉄会社で勤務し続けている。
最近、電車運転士になる人の多くは「昔から憧れてました」とか「夢でした」と言って入ってくる人が多いのですが。実は私はそうではなく、たまたまなんですよね。あまりドラマチックでなく、すみません…(笑)。
子どもが「やりたい」と言えば、「やったら」という感じですね。基本的に、やりたいことをやればいい、と思っているので。
また、あえて電車運転士を「やれば?」とも言わない。電車運転士に合う人、合わない人がいると思うので。
電車運転士の仕事は、安全、安心第一。毎日、当たり前のことを繰り返す仕事。なので、退屈、目に見える成果がない、創造的でない、と感じる人もいると思う。一方で、そのくらい日常に溶け込んだ仕事であると言えるし、お客様との対話を楽しめる仕事でもある。
こういう前提を理解した上で、電車運転士をやりたい、と言うのであれば、ぜひやればいいと思う。
つねに心身ともに整えておくこと。
毎日の安全、安心を実現するためには、心や身体を整えておくことが大切になる。
悩み事や健康の不安など、気になることがあるとどうしても集中力が低下する。その結果、一瞬の油断が大事故に繋がる可能性がある。
なので、仕事の時間だけ頑張ったらいいわけではない。「24時間、運転士」とは言わないまでも、つねに自分の心身を整えておく意識を持ち続ける必要がある。
電車運転士は、たくさんの人の命を預かっている仕事である。
これを重圧に感じるのではなく、誇りに思える人でないと電車運転士は務まらないかもしれない。
お客様から温かい言葉をかけていただいた時は嬉しい。「ありがとう」という一言や、にこっと笑ってくれるだけでいい。また、知り合いが乗って来たり、近所のおばちゃんが乗って来たり。そういう人としての触れ合いがあるとそれだけで嬉しくなる。
あと、「残らない仕事」なのがいい。勤務時間に電車を運転し、お客様を目的地に届け終えたら何も残らない。例えば、事務仕事のように、自分のやった結果が残って後に迷惑がかかる心配もない。人によっては、成果がない仕事と思う人もいるかもしれないが、私にとっては「残らない仕事」であることがいい。勤務時間は不規則だけど、平日に休めるし。仕事とは別に、趣味や自分のやりたいことがある人にはいい仕事なのではないかと思う。
嫌なことは、ミスをしたり、クレームになること。つねに、事故が起きないように細心の注意を払っているが、事故が起こる時もある。私も若い時、ドアでお客様を挟んでしまったり、早発(発車時刻よりも早く出発)したりしたことがあった。事故が起きれば、その原因を追求し、再発防止に努める。だが、「なぜそんなことをしてしまったのだろう?」と自分を責めたり、自信を失ってしまうこともある。すごく落ち込んだりもする。ただ、落ち込んでばかりいても仕方がないので、ミスはミスとして認め、反省し、そこから立ち直っていくことで一人前の電車運転士になっていくとも言える。
私も、ミスをするたびに、上司に励ましてもらい、助けてもらった。育ててもらった。いまは逆に、若い電車運転士を指導し、育てていく立場になっている。
特にない。というのも、電車運転士は、電鉄会社に就職して勤務していることが前提になるので。
雇用される期間や給与水準などは電鉄会社により異なるだろうが、家族で食べていくのに大きな苦労はないのではないかと思う。
ただ今後、AIやロボットの進化で自動運転技術が発達すれば、世の中で必要とされる電車運転士の数は少なくなっていくかもしれない。あるいは、電車には乗るが、運転はせずに監視するだけという仕事になっていくかもしれない。
これから電車運転士を目指す人は、その可能性を踏まえた上で、職業選択をしてもらえたらと思う。
電車運転士とは、「目的地まで安全、安心に、時間どおり、できれば気持ちよく、お客様をお運びする人」である。
安全、安心であること。
一見、当たり前のことのようだが、その裏で、日夜努力されている方々がいるということを知った。
時間どおりであること。気持ちよくあること。それはそれで大切なこと。
だが、それにはしっかりとした土台が必要になる。
安全、安心であること。ふだん当たり前だと思っていることに、もう少し意識して目を向けてみたいと思う。
どっひー&sing
インタビューの冒頭。Nさんはこう言った。
「いまの仕事の話をした方がいいですか?」
「それとも、前職や前々職のベンチャー企業での話をした方がいいですか?」
「ベンチャー企業の時の話の方が絶対面白いと思うんですけど…」
Nさんによれば、前職のベンチャー企業での仕事は「自分の人生をかけよう!」と思える仕事だったと言う。
だが、いまは別の仕事をしている。
何度もドロップアウトしながらも、自分のやりたいことを追い求め続けるNさん。
その原動力は、「人の人生の選択肢を増やしたい」という強い気持ちだった。
いまは、非上場の製造業の会社で経営企画の仕事をしている。
経営企画は、「何かを変える仕事」である。
会社の中には、維持する仕事、変える仕事、つくる仕事がある。経営企画は、いますでにある「何かを変える仕事」である。具体的には、社内の業務改革、システム導入、人事制度構築、中期経営計画策定などの業務を行なっている。
ただ、個人的には「何かを変える仕事」よりも、「つくる仕事」の方が好き。もっと言えば、「何かを変える仕事」は、まさに仕事だと捉えているが、「つくる仕事」は、仕事というよりも趣味という感覚を持っている。
「何かを変える仕事」は、社長や上司が指し示した方向に向け、社内外の人々の利害を調整しながら実行していくこと。自分で旗を立てる訳ではない。一方、「つくる仕事」は自分で旗を立てること。立てた旗に人が付いて来てくれること。世の中になかったものが新しく生まれること。
ベンチャー企業2社での事業立ち上げ経験から、自分がゼロからイチを「つくる仕事」が好きだということがわかった。なので、いまは経営企画で「何かを変える仕事」に携わっているが、将来的には「つくる仕事」にも携わっていきたいと考えている。
31歳の時、知り合いに声をかけてもらい、ベンチャー企業の役員(共同経営者)になった。この時、「自分の人生をかけよう!」と思える仕事に出会った。しかしながら、家族の事情でその仕事を1年半で辞めざるを得なくなった。生活する場所も東京から大阪に移った。その後、しばらく仕事をしない(できない)状態が続いた。引き続き、大阪で生活する必要がある。家族を養う必要もある。そこで、1年ほど前に知り合いのツテで、いまの会社に経営企画担当として入社した。
経営企画担当として入社することができたのは、過去の職歴(システムエンジニアや経営コンサルタント)での経験によるところが大きい。
子どもには、「好きなことをやりなさい」「責任を持ちなさい」と言いたい。また、「大学受験は頑張りなさい」とも言いたい。いい大学に入ったからどうということはないが、社会で働く上での選択肢は広く持っておくことは大切だと思う。
人の人生の選択肢を増やしたい。
選択肢のない状況が一番不幸だと思う。
これを強く感じたのは、20代後半。前々職のベンチャー企業でマネージャーとして働いていた時。東南アジアの国で、ある病気の治療プロジェクトを自ら立ち上げ実施した経験が大きい。
当時、その国では、ある病気の人が多いという調査結果が出ていた。日本では比較的簡単に治療できる病気なのだが、その国ではその病気を治療できる医者が少ない。治療費が高く、富裕層しか治療を受けられない。つまり、所得の高くない人にとっては、その病気を治す、という選択肢がなかった。
そこで、日本の大学の医者の方にボランティアでご協力いただき、その国でその病気の治療プロジェクトを立ち上げ実施した。その時、ものすごい行列ができて、ものすごく感謝していただいた。あるお母さんは、「神様や!」と泣いて喜んでくれた(実際に手術をしたのは医者の方であり、私は何もしていないのですが…)。
その経験が忘れられず、「人の人生の選択肢を増やしたい」「高齢者、障がい者、子どもたちなど、ほんとうに困っている人たちの役に立ちたい」「世の中にまだないものをつくりたい」という気持ちを強く持つようになった。
これまでの人生は、ドロップアウトの連続だったので、大変だったことばかりです(笑)。
学生時代はJリーガーを目指していたが挫折し、経営コンサルティング会社にいた頃は他人と自分を比べてしまって鬱(うつ)になり、その後に入ったベンチャー企業も1年も経たずに退職し。30代前半で、ようやく「人生をかける仕事に出会えた!」と思ったら、家族の事情でその仕事を1年半で辞めざるを得なくなり。
いまも、家族を養っていくために働いています。でも、仕事とはそういうものだと思っています。
いまの仕事をしていること自体が食べていくための工夫であり、家族を養って行くための工夫である。
ただ幸い、前職でお世話になった方から「いつでも戻って来いよ」と言っていただいている。一方で、いまの会社の社長にも、私のこれまでの事情や私のやりたいことを理解してもらえている。
1〜2年後には、平日はいまの会社で働き、土日は前職の会社で働く、という働き方をしている可能性が高い。一見すると休みがないように見えるかもしれないが、土日の仕事(=前職での「つくる仕事」)は私にとっては遊びや趣味のような感覚の仕事なので、苦にはならないと思う。また、いまの会社は大阪、前職の会社は東京と距離が離れているが、Skypeを使えば遠隔で関わることもできるので移動の必要もない。
しっかりと家族を養って行くための仕事をしながら、自分の好きなこと、やりたいこともやっていく。
「何かを変える仕事」をしながら、「つくる仕事」もしていく。
一見両立しづらそうなことも、意志と努力と工夫次第で何とでもなると思う。
特に、自分が困った時に「うち来いや!」と言ってくれる人が何人いるか?がすごく大切だと思う。
私も、人が困っている時に「うち来いや!」と言ってあげられる人でありたい。
「肩書きをとった時に、人に対して何ができるのか?」をつねに意識し続けていたい。
あくまでも旗を立てるのは社長や上司である。経営企画は、その実現に向けて「何かを変える仕事」である。
「人の人生の選択肢を増やしていきたい」
「選択肢のない状況が一番不幸だと思う」
Nさんのこの言葉は、私の心に深く響いた。
人は、選択肢を持つことで、未来への希望を持ち続けることができるのではないだろうか。
どっひー&sing
にこやかな笑顔とスッと伸びた背筋。
凛とした佇まいと涼やかな装い。
「なんと言っても姿勢がいい!」
月並みかもしれないが、それが私のHさんに対する第一印象であった。
そこには、ダンサーとしての存在感があった。
一方、インタビューの冒頭、Hさんはこう言った。
「私の職業、バレリーナと言っていいのかな…」
「ダンサーとして食べて行けているわけでもないし…」
Hさんへのインタビューを通してわかったことは、「日本では、女性がバレエダンサーとして食べて行くのは非常に厳しい」という現実だった。
一般にバレリーナと言えば、バレエダンサーを指すと思われますが、日本では女性がバレエダンサーとして食べて行くのは非常に厳しいです。仮に大きなバレエ団に所属できたとしても、その収入だけで生活を成り立たせて行くことは厳しいようで、私の知り合いでもアルバイトをしながら生活している人がいます。
一方、自らがバレエを「踊る」のではなく、バレエを「教える」という道もあります。バレエを「教える」道は大きく3つあります(もちろん、他にもあるかもしれませんが…)。
①個人として名前を売り、いろんな教室に招かれてワークショップ等を提供する
②すでにある教室でバレエ講師を勤める
③自分で教室を開いてバレエを教える
私は、いま自分で教室を開いてバレエを教えています。
バレエを習いはじめたのは小学2年生の時。友達に誘われてはじめました(友達はその後やめちゃったけど…)。それからずっと、バレエをやり続けています。
子どもの頃からバレエが好きで教室に通い続け、発表会や舞台に立っていました。先輩に憧れて「もっとうまくなりたい」と思ったり、素敵な舞台を見て「私もあんな風に踊りたい」と思ったり。そういう思いを抱きながら、ずっとバレエを習い続け、踊り続けてきました。
でも、25歳くらいの時にふと思いました。周りの友達が働きはじめている中で、「私、このままでいいのかな?」「このまま、教室で習い続けているだけ(言い換えれば、お金を払い続けているだけ)でいいのかな?」と。
その後、バレエ教室を経営している人と知り合ったことをきっかけに、バレエ講師として働くようになりました。
そして2012年。それまでお世話になっていたバレエ教室を離れ、独立しました。いまでは、自分でバレエ教室を開いて経営しています。
独立に際しては、これまでバレエを通じてお世話になってきた方々からあれやこれやと助けていただきました。中には、「先生!スタジオの場所を見つけて来たから、ここで教室を開いてください!」とまで言ってくれる人もいました。
そうやって助けてくれる人たちがいてくれるおかげで、いまも何とか自分の教室を経営できているのだと思っています。
バレエをやることは大いに勧めます。バレエは、本当に素晴らしい総合芸術ですし、 自分の身体にも興味が出るので姿勢や体型も良くなります。マナーも身に付きます。
ただ、バレエを仕事にすることはあまり勧めませんね(笑)。バレエを仕事にするまでやり続けるには、それなりにお金もかかりますから。もちろん、本人にやりたいという気持ちがあり、かつ、それができる環境(支援してくれる人がいるなどの環境)があるのであれば、ぜひ挑戦してもらいたいと思います。
バレエは習い事なので、バレエ好きの人が集まり、かつ、年代を超えた交流の場になればいいな、と思っています。
学校や家庭とは異なり、年齢の離れた人たちが好きなことを共有しながらお互いに切磋琢磨したり励まし合える。そういう場があることは、自分の憧れを抱いたり、諦めずに頑張る気持ちを持ち続けたりする上で、とても大切なことだと思っています。
あと、バレエを教えていて嬉しいなと思うのは、目がキラーン!となる姿を見ることです。子どもでも大人でも、「できなかったことができるようになる」と、その人の目がキラーン!となります。
一人でも多くの方に目がキラーン!となっていただけるよう、「腑に落ちる」伝え方をしていきたいな、と思っています。
「収入にならへんな〜」です(笑)。
特に女性のバレリーナがお金を払ってばっかりになってしまうバレエ業界の仕組みは、「なんとかならへんのかな〜」といつも思っています。
「バレエを教えたい!」と思う一方で、すでにバレエ教室はたくさんあります。また、いまのところ日本ではバレエの先生になるのに資格はいりません。競争は激しいです。
なので、未経験者の方でも気軽に教室に来てもらえるよう、バレエ以外のダンスやエクササイズのクラスも展開しています。2012年にジャイロキネシス認定トレーナーの資格を取得したのもその一環です。
また、私自身が、絵画や衣装、ティアラ製作も行なっていることから、「ティアラ講座を開かないか?」というお話もいただいています。
ジャイロキネシスのクラスやティアラ講座などをきっかけに、バレエに興味を持つ人が増えて行ってくれたら嬉しいな、と思っています。
なくてはならないもの。いつも考えてしまうものです。
何かを見たり、何かを聴いた時。
「こんな風に踊れたらいいな〜」といつもバレエのことを想像してしまいます。
自分の好きなこと、自分のやりたいことを仕事にすればいい、と言うのは簡単。
その上で、
生活を成り立たせて行けるだけの収入をどうやって得ていくか?
経営を成り立たせて行けるだけの収入をどうやって得ていくか?
好きを仕事にしていくためには、しっかりとお金と向き合い、収入を得るための工夫と努力を重ねていく必要があるということを改めて感じました。
どっひー&sing
近々、自分の塾を開くSさんは、まずはじめにこう言った。
「小中学生の子どもたちのよりどころとなる環境をつくりたい」
Sさんによれば、「勉強嫌いの子が勉強嫌いを克服するためには、まず自己肯定感を取り戻すことが大切」で、そのためには「勉強のやり方を教える以前に、子どもたちが安心感、繋がり感を持てる環境をつくることが大切」だという。
Sさんがつくろうとしている塾は、単なる学習塾ではない。
「学童と学習塾を足して二で割ったような塾をつくりたい」
Sさんがこれから開く塾の目指す姿は、どうやら新しいタイプの塾のようだった。
塾講師とは、「自立できる子が育つ環境をつくる人」である。
これから私が開く塾は、学童と学習塾を足して二で割ったような塾をイメージしている。
「どうせできっこないし」と諦めて勉強嫌いになっている子どもたちが、安心感、繋がり感を得て、自己肯定感を持てるようになる。物事をネガティブではなくポジティブに捉えられるようになり、自ら考え、やり方を工夫できるようになる。勉強も仕事も遊びも、自発的に挑戦できるようになる。
そんな、子どもたちのよりどころとなる環境をつくっていきたい。
塾講師以前に、教員を目指したきっかけは2つ。
①中学生の時に学校に馴染めず、誰にも相談できずに悩んだ。その経験から、学校に「本音で話せる大人がいたら…」という思いを抱き続けていた。
②高校の時に小学生のバスケットチームのコーチをする機会があった。それを見た人から、「おまえ向いてるから、絶対、教員になれ」と言われた。
これをきっかけに「教員を目指そう」と思い、教員免許を取得したが、教員採用試験には合格できなかった。やむなく一般企業で働くことになるも、この環境では「自分らしく生きて行くことはできない」と思い、1年半で退職。学童保育士や発達障害サポーターとして働きながら、学校教育の現場に関わる機会を得た。
その時、「この環境で、ほんとうに自立できる子が育つのか?」という疑問を持った。
教師1人に対して生徒30〜40人。事務作業等もあり教師は忙しい。これでは一人ひとりの個性に目を届かせることはできそうにない。また、社会経験がなければ、本質的な指導もできそうにない。さらに、生徒一人ひとりの個性を引き出し、やる気を高めるようなノウハウ(心理学やコーチングなど)も活用されていない。
この経験をきっかけに、「学校教育の外で、自立できる子が育つ環境をつくる」というビジョンを抱くようになった。そこから、独立できそうな仕事を探し続けてきた。仕事で無理をして身体を壊すこともあった。つらい経験もあったが、その経験もあったおかげで、今年、自分の塾を開講する機会に恵まれることになった。
子どもがいないのでわからないが、何を職業にするにせよ、ビジョンを持っているのであれば、できることからコツコツやればいい。諦めず、壁を乗り越え、前に進み続けたら必ず何とかなる。助けてくれる人が出てくる。
自分を大事にすること。自分を大事にしないと、他人を大事にできない。自分を大事にすることは、自己中心ではなく、他人を大事にすること。
自己中心とは、周囲の目を気にすること。「よく見られたい」とか、「認められるような結果を出したい」と思い、行動すること。周囲の目を気にすることは、一見、他人のことを考えているようだが、実際には自分のことしか考えていない。かと言って、自分を大事にもしていない。どこかにいる理想の自分を追い求めて、いまの自分を否定しているだけ。「このままじゃいけない」とできない自分を責めているだけ。自分のマイナスを見つけてそれをエネルギーに変えているだけ。ある程度までは、マイナスをエネルギーに変えることで進んでいけるが、それは必ずどこかで燃え尽きる。これでは、自分を大事にできない。自分を大事にできなければ、他人を大事にできない。自分をないがしろにしていたら、何もうまくいかない。
子どもたちも、自分を大事にする人になって欲しい。自己肯定感を持って欲しい。挑戦できる人になって欲しい。そのためには、安心感、繋がり感を持てていることが重要になる。子どもたちにとって、よりどころとなる環境をつくっていきたい。
子どもたちに対して、自分の考えを押し付けないように接すること。待つこと。答えを教えないようにすること。
塾の開講はこれからなので、まさにこれから試行錯誤していくところ。
一方、ありがたいことに、塾の開講を支援してくれている方のもとでも仕事をさせてもらっている。
なお、もともとは、いきなり自分で塾を開くことは想定していなかった。資金的余裕と経営ノウハウ、そして時間的余裕が必要だと思っていた。だが実際には、それほど資金がかかるわけではない。経営ノウハウは、やりながら身につけていけばいいし、塾の開講を支援してくれている(経営者の)方から学ぶこともできる。基本的には、塾に注力できるので、時間的余裕もある。
こういう経験からも、ビジョンを持っていれば、必ず実現できると信じている。
教える人、というよりは、寄り添う人。
塾講師、塾長というよりは、近所のおっさんのような存在でありたい。
子どもと何気ない挨拶や会話を交わしたり、「どうしたらいいと思う?」と子どもを信じて聞いてみたり。
以前、友人が自作のドラムをつくってくれたことがあった。それを見た子どもたちが我れ先にとドラムを叩きだした。誰がこうしなさいというのでもなく、子どもたちが自由にやりたいことをやっている。夢中になっている。
そんな風に、子どもの目が輝き出す瞬間を見られたら嬉しい。そんな環境をつくっていきたい。
教えるのではなく、寄り添う。
指示するのではなく、やりたくなる環境をつくる。
次世代リーダーを輩出していく上で、非常に重要な姿勢や考え方であると感じた。
どっひー&sing
Kさんは、ビジネススタイルで現れた。
「個人の名刺をお渡ししますね、よろしくお願いします。」
あれ?全然、詩人っぽくない…
その後、クラウドファンディングで出版したという詩集を見せてくれた。
その詩集を手にしながら、そこに込められた想いを語るその言葉は、詩人そのものであった。
そして、Kさんはこう言った。
「詩人とは、言葉や想いの代弁者であると想っています。」
当初私は、自分の想いを詩という形で表現するのが詩人だと思い込んでいた。
Kさんとの出会いにより、私の詩人に対する概念はガラッと変わった。
詩人は、「言葉や想いの代弁者」である。
名もなき人や声の届かない人の言葉や想いを代弁する人、応援する人でありたい。また、詩を書いて終わりではなく、人が変わるきっかけをつくっていきたい。だから、企業の中にも入るし、学校の中にも入るし、アジアにと届けていきたい。私は「日本一の詩人」になろうと決めている。
東日本大震災後の2012年。いろんな経営者の先輩たちから教えてもらってきたいろんな言葉を残したいと思い、facebookページを立ち上げ、投稿しはじめた。ある時、友人から「一週間に一回だと忘れていて、読めない」「毎日、元気になる言葉を書いてくれ」と言われた。当時、仕事をしながらだったので毎日書くことに躊躇したが、「悩んでいる人もたくさんいるから」という友人の勧めもあり、毎日元気になる言葉を投稿しはじめた。その後、1ヶ月もしなかった頃に、いじめられている子どものいるお母さんから「読んで元気になっています」とのメッセージをいただいた。その時に、「一生、何かを書き続けよう」と決めた。あれがなかったら、いまこんなことにはなっていなかったような気がする。
「言葉で元気になる方がいらっしゃるのであれば」ということで、2012年から5年以上、facebookページに毎日毎日何かを書いてアップし続けてきた。
会社の名前を一切出さず、はじめは書いている自分の名前も出していなかった。詩を書いているつもりもなかった。題もなかった。会話のような一編を書いていた。そのうちに、「題がないとわかりにくいですよ」とか、「漢字が読めないです」という声が寄せられるようになった。これを受け、題を付けたり、ひらがなで読みやすい言葉を書くようになった。
そもそも応援の言葉は読めることが前提。自分の世界観を伝えたい訳でもなかった。誰かを元気にするためのものになったらいい、と思ってはじめたこと。こうじゃないとダメ、というこだわりもなかった。写真もはじめは風景だけだった。そのうち、子どもの写真を使ってくれという要望をいただくようになった。そういう中で5年以上、詩の投稿を続け、詩集もクラウドファンディングで出版することになった。
どちらかというと、詩も詩集も、私がつくったというより、周りの人につくっていただいた、という感覚を持っている。
仕事は、詩人でも何でもいい。やりたいことと好きなことがあれば、それをやって欲しい。
どの仕事について欲しいとか、どの仕事が良くてどの仕事が良くないとかはない。ただ、好きなことを選んで欲しい。好きを突き詰めて欲しい。誰かの笑顔をつくって行って欲しい。
「ありがとう」を感じること。
当たり前にならないで、日々楽しくいきる。
「ありがとう」は「有難い」ということ。「有難い」ということは、当たり前ではないということ。「ありがとう」を感じるということは、『価値観のアップデートをしていることだと』想っています。自分の価値観のアップデートをしていくことは、ものすごい教育になると考えています。
人に対する見方、物事に対する考え方を大切にしたいです。言葉を生む時間よりも、哲学をしている時間の方が長いですよね。
共感したり、人の思いを感じるということは、痛みとか不安とか寂しさを一緒に感じているということ。写真を見て言葉を考えながら泣いてる時もある。自分ではよくわからないが、もしかしたら見えないところで苦しんでいるところがあるのかもしれない。
あと、酔っ払っている時に詩をつくるのは大変(笑)
食っていくために工夫という意識は持ってなくて。
いっぱい一緒に喜びあえるようには、考えています。
詩人という、生き方を選びました。
詩になる言葉をつくる場所は、部屋ではなく、人が生きている場所にあると思っています。
誰かの言葉や想いを代弁する人、応援する人でありたい。
そう語るだけでなく、それを詩人として実践されているKさん。
その根底には人の痛みや不安や寂しさに共感できる優しさがあり、またその優しさは、Kさん自身の人生経験の深さによって醸成されたものなのだろうな、と感じました。
どっひー &sing
インタビューの冒頭、Bさんは私に対してこう言った。
「『一日一職』インタビューに喜んでご協力します。あと、他にもインタビューに協力してくれる方をお二人ご紹介しますね」
なんとBさんは、お二人の方にインタビューへの協力を依頼し、すでに承諾を得ているというのだ。
私がBさんに紹介をお願いする以前に。しかも二人も。
思いがけない出来事に、私は思わずBさんの手を握り、「ありがとうございます!」と言っていた。
インタビューの最後、Bさんは私に対してこう言った。
「依頼されたインタビューに応えるのは当然。その上で期待を超えるにはどうすればいいか?」
「これを考えた結果として、お二人の方をご紹介させていただきます」
目の前にいる人の期待を超えるにはどうすればいいか?
Bさんの仕事に対する姿勢を端的に物語る出来事であった。
以下、生命保険外交員Bさんへのインタビュー内容を抜粋してお伝えする。
詳細は、別途記事としてまとめていく予定である。
生命保険外交員は、「人生におけるあらゆるお金の問題を解決する仕事」である。
セールスの目的は「お客様の問題解決をすること」であり、生命保険は問題解決のための手段である。
お客様が将来(10年以上先に)起こりうる資金不足に備えられるよう、ライフプランを提案する。
前職もセールスの仕事であったが、その時は「自分自身を切り売りしている」ような感覚があった。
現職になってセールスの概念がガラッと変わった。
10年前、30歳の時に生命保険外交員に転職した。きっかけは二つ。
①前職で7〜8年が過ぎ、次の目指す姿を探していた
②生命保険外交員であった先輩の勧めで、自分自身が生命保険に入った
「これで、自分に万一のことがあっても、妻が(経済的には)安心して毎月暮らしていくことができる」と思えた。
その時、「大切な人を安心させることができた」と思うと同時に、「自分の責任を果たせた」というような感覚があった。
「生命保険とは、何と尊いものなのだろう」と思い、生命保険外交員に転職した。
勧める。ぜひやって欲しい。理由は二つ。
①時間を自由に使える(時間割を自分で組める)
②自分が人間的に成長できる
与えられた仕事をこなすのではなく、すべてを自分でつくっていける仕事である。
付き合いたい人を顧客にしていける。顧客のようでいて友人のような関係を築くことができる。
目的意識を持つこと。どんな人間になりたいか?を明確にすること。主体性を持つこと。
より具体的には「断られまくっても、もう一本電話をかけられる」こと。
1日10件電話をかけると決めたら、1日10件電話をかける。アポが取れた日でも取れない日でも10件電話をかける。
アポが取れるか断られるかは、自分でコントロールできないこと。自分でコントロールできないことに一喜一憂せず、自分でコントロールできることに集中する。自分との約束を守ること。
あまりない。しいて言えば、「孤独」なところかも。自分に言い訳ができないから。
ただし、それは「自由」であることの裏返しなので、「孤独」が嫌かと言われるとそういう訳ではない。むしろあまりに「自由」すぎるので、逆に「強制」されることが嫌になる、という面があるかもしれない。
収入と時間と行動のバランスを取ること。子どもと過ごす時間を大切にしたいので、週2日は休みを入れるようにしている。一方で、年収の目標もある。週5日で目標年数を得るためには、いくらの預かり契約高が必要なのか。そのために毎日何件訪問しないといけないのか。そのために毎日何件アポの電話をかけないといけないのか、というように、目標を明確にした上で、目標達成に必要な行動を計画し、それを日々実行していくことを心がけている。
生命保険外交員は、職業というよりも、生き方である。生命保険外交員という生き方を選択したと思っている。
「こんなええ仕事、やめられへんな〜」と思っている。
目的意識を持つこと。どんな人間になりたいか?を明確にすること。主体性を持つこと。
「期待を超える行動」を生み出す原動力は、こういう目に見えないところにあるのでしょうね。
どっひー &sing
今日から『一日一職』活動をスタートする。
7月は、31日間かけて、毎日いろんな職業の人に会いに行く。
旗を掲げることは簡単。
だが実現には努力が必要。
一日一日を歩く。
足跡を残す。
ただそれだけを為すのみ。
“僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る”
(高村光太郎『道程』より)
この7月。どんな足跡を残しますか?
Think Big, Act Small, & Sing♪
どっひー &sing